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「Sleepy Joe(居眠りジョー)」から思うこと [スピリチュアルな話題]

トランプのことを書く。もちろん、カードゲームでなく、大統領のことだ。

トランプは、バイデンを「slow Joe」「 Sleepy Joe」と呼んでいる。「のろまのジョー」「居眠りジョー」と字幕にはあった。
https://news.tbs.co.jp/newseye/tbs_newseye4053934.htm

次期大統領選に関する若者たちの反応をしめすニュースも見た。彼らの反応は「トランプでさえなければ、だれでもいい」というものだった。

そこでトランプはバイデン以下の扱いになっていた。 Sleepyには「眠い、眠たがる、眠そうな、眠っているような、活気のない、静かな、眠気を催す、(熟して)腐りかけてかすかすの」(weblio英和辞典)という意味があるという。であれば、トランプは、腐って死んだような者と、若者に見なされているということになるだろう。


「居眠りジョー」と聞いたとき、当方はジョン・クウィンシー・アダムズを思い浮かべた。アメリカ第六代大統領になった人物だ。スピルバーグ映画『アミスタッド』のなかでは、議会でよく居眠りをする人物として描かれていた。実際そうだったのかどうかわからない。ウィキペディアのエピソード欄に特別しるされていないから、スピルバーグの創作であったのかもしれない。それでも、アフリカ人を自由にする闘いに立ち上がったときは73歳だった。年齢からいっても、居眠りは身近なものであったにちがいない。

元大統領、元弁護士のJ・Q・アダムズは、法廷闘争で勝利するための秘訣を述べている。それは闘う相手をこきおろすことではない。「物語」を語ることだ。聴衆に感動をあたえるストーリーを描けるかどうかが肝心であると言う。最高裁法廷にはアメリカ独立時の功労者の彫像がある。そこには父ジョン・アダムズもいる。ワシントンもいる。ジェファーソンもいる。壁には独立宣言が掛けられている。そうした小物を利用してJ・Q・アダムズは自由について「物語」る。そして、それは成功する。判事も、傍聴席も感動する。やはり、「物語」には力があるのだ。

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「三年寝太郎」というむかし話がある。寝てばかりいて困ったヤツと思われていた男が、村を救う物語だ。事務的に業務に当たることのできる人間は、頭の冴えた切れ者で、ビジネス向きであるにちがいない。しかし、物語を作る才能においては無能かもしれない。創造的な活動というものは、意識の深いところでなされる。それを引き出すには、眠りにちかいところにいる方が適している。眠っている人間は、そうでない人間から怠け者と見なされるが、帳簿の数勘定よりも大きな仕事をしている場合もある。

などと、勝手なことを書いた。当方はバイデンについて何も知らない。それでも、副大統領候補に女性を抜擢した。しかも彼女はアフリカ系アメリカ人で2人目、南アジア系アメリカ人で初の上院議員であるという。居眠りジョーは、「物語」を描いて見せるのは得意なのかもしれない。

仮に「物語」が描けたとしても、それが実現するとは限らないし、現在よりもっと悲惨な図柄になるかもしれない。そもそも人間には、自分自身を治める能力すらない。さまざまな統治形態はみなダメであることが明らかになっている。

などと書くと、暗澹たる気分になるが、ひとつだけ救いがある。それは、天を仰ぐことである。


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https://wol.jw.org/ja/wol/binav/r7/lp-j

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暑いので、食肉の歴史なぞ [スピリチュアルな話題]

人類が肉を食べることになったいきさつ、その始まりについて書いてみようと思う。見てきたわけでもないので、読んだ話でしかないが・・・

それには、『ノアの洪水』が関係している。

聖書の『創世記』に全地球的洪水が生じたことが記されている。それは地上の悪を一掃するための神の裁きの表明として行われた。地上のすべての山がその頂を覆われる地球的洪水が終息し、アララト山に漂着した箱舟からノアとその家族が地表面に降り立った後、神から言われたことが次の引用である。

それから神はノアとその息子たちを祝福し,こう言った。「子を生み,増えて,地上全体に広がりなさい。地上のあらゆる生き物と空を飛ぶあらゆる生き物,地面を動くあらゆる生き物と海の全ての魚は,これからもあなたたちを恐れておびえる。生き物たちは今,あなたたちの手に委ねられる。生きている動物はどれも食物にしてよい。緑の草木と同じように,それら全てをあなたたちに与える。ただし,血を含む肉を食べてはならない。血は命だからである。創世記9:1~4
https://wol.jw.org/ja/wol/b/r7/lp-j/nwtsty/1/9#study=discover

以上の記述から考えられることは、それまで人間は動物の肉を食べることはなかったということだ。


ノアの洪水の際に地上に降り続いた雨については、次のようにある。

ノアが600歳だった年,第2の月の17日,空の泉から水が勢いよく流れ出し,天の水門が開いた。そして40日間ずっと,昼も夜も地上に激しい雨が降った。創世記7:11
https://wol.jw.org/ja/wol/b/r7/lp-j/nwtsty/1/7#study=discover

いまの線状降水帯によるゲリラ豪雨などという生やさしいものではなかったようだ。地球全体を水で覆うほどの大量の水は、「天の水門」から下った。

では、その大量の水の源は何かというと・・・

同じく創世記1:7に地球を創造した際(つまり、あらゆる生命の生息する場所として、その環境を整える際)に、神が行われたこととして、次のようにある。

神は言った。「水の間に空間が生じよ。水と水とが分かれよ」。それから神は空間を造り,空間の下の水と上の水とに分けた。そのようになった。神はその空間を天と呼んだ。こうして,晩になり朝になり,2日目が過ぎた。

「空間の下の水」とは、海のことである。「空間の上の水」とは、水蒸気の層のことだ。今日、地球上空のオゾン層についての論議がなされるが、同様に水蒸気の層として当時存在していた。大気圏の最上層に「熱圏」と呼ばれる空間があるが、そこに水蒸気の層が存在していたのではないかと考えられているようだ。それが地球全体を温室のように覆っていた。そして、紫外線など有害な宇宙線から地上に生息するものらを保護していた。

大洪水後、温室のような住みよい環境ではなくなり、気温のはげしい上昇下降が生じるようになった。以前よりハードな環境となった地上に住むノアとその子孫が、しかるべき体力を得るためには、肉食が必要であると神はお考えになられたのだろうか。たぶん、そういうことなのだろう。

ということで、暑い日は、ことさらお肉を食べるとイイようである。特に「夏バテ予防に豚肉がいい」と聞く。ユダヤの律法下では、ブタは穢れた動物として食べることを禁じられていたが、クリスチャンの時代になって、そうした禁止事項が撤廃された。ゆえに、とんかつもOKである。脂肪の取りすぎを防ぐ意味では、ブタひれ肉がいいかもしれない。


ちなみに、「ノアの洪水」、「ノアの箱舟」については、それが神話や絵空事ではなく、事実であったことを裏付ける科学的根拠がネット上に示されているので、興味のある方は、どうぞ。


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ホンモノを識別する方法 [スピリチュアルな話題]

昨日の更新でカトリックばかりをワルモノにしたかに思われると困るので、ちょっと観点を変えて書いてみる。

批判ばかりする人は、自分のことを棚に上げて論じることが多い。そのような独善的な話を聞くと「他人様のことばかり言って、自分はどうなの?」と心ある人は思うものだ。

それで、カトリックだけでなく、他のプロテスタントの諸派、自らをクリスチャンと称する者すべてについて、ホンモノかニセモノか調べることのできる言葉を取り上げてみたい。

誠実な人であれば、自分が社会的にふさわしく生きているかどうか、自己吟味しつつ生活するものだが、以下は、クリスチャンと称する人が、皆、神の前で自己吟味することのできる言葉である。それは、同時に他のクリスチャン個人、所属する団体を評価する点でも役に立つ。

もちろん聖書の言葉だ。

イエス・キリストの有名な「山上の垂訓」にある言葉で、慣用句として知られている「羊の皮を着た狼(ひつじのかわをきたおおかみ」という表現のでている文脈だ。

ちなみに、その意味は『goo辞書』に「《a wolf in sheep's clothing/a wolf in a lamb's skin》親切そうにふるまっているが、内心ではよからぬことを考えている人物のたとえ。新約聖書から。羊の皮をかぶった狼」と出ている。簡単に言えば、偽善者を指すと言っていいだろう。
https://dictionary.goo.ne.jp/word/%E7%BE%8A%E3%81%AE%E7%9A%AE%E3%82%92%E7%9D%80%E3%81%9F%E7%8B%BC/

イエスは、マタイによる福音書の7章で、偽善者を見分ける方法を論じ、良い木と悪い木のたとえを示した。良い木であれば良い実を生み出し、悪い木は悪い実を生み出す。だから、その産出する実を見れば、木の良し悪しが分かるという話をした。その「実」とは、つまり、言うこと、行うこと、その活動、活動の歴史と言っていいだろう。それゆえ、人(あるいは、団体)の産み出す「実」を注意深く観察すれば、ホンモノかニセモノかは分かる。

ところが、それに続く部分を見ていくと、自分はクリスチャンにふさわしく誠実に生きていると信じ、立派な実を生み出しているように思えても、偽善者、ニセモノとされてしまう場合のあることが示されている。ホンモノだと思っていたのにニセモノであったと知るのはショックである。まして、それがイエスとの関係、神との関係に影響して、多くの損失を招くとなれば、なおさらである。

***以下、引用(マタイ7:20~23「新改訳聖書(いのちのことば社)」***
こういうわけで、あなたがたは、実によって彼らを見分けることができるのです。

わたしに向かって、「主よ、主よ」と言う者がみな天の御国に入るのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行う者が入るのです。

その日には、大ぜいの者がわたしに言うでしょう。「主よ、主よ、私たちはあなたの名によって預言をし、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって奇跡をたくさん行ったではありませんか。」

しかし、その時、わたしは彼らにこう宣告します。

「わたしはあなたがたを全然知らない。不法をなす者ども。わたしから離れて行け。」
***引用、ここまで***
https://wol.jw.org/ja/wol/b/r7/lp-j/nwtsty/40/7#study=discover

イエスのことを「主よ」と呼びかけるのは、その弟子たち「クリスチャン」である。しかし、そのすべてが受け入れられるわけではない。「不法をなす者」として退けられる者がいることが分かる。そのように退けられる者たちは、「主の名によって」立派な業績を残してきたことを主張している。イエスは、そのことを否定していない。が、しかし、彼らは退けられる。理由は、「天におられるわたしの父のみこころを行」っていないからだ。

イエスを「主」と呼び、自ら「クリスチャン」と唱え、立派なことを行ってきたと“思っていても”(それで、自分は神の是認を得られると“思っていても”)退けられてしまう。今日でも、キリスト教を自称する諸派が学校を建設し、病院を運営し、福祉施設を建て、その立派な働きを社会的に認められているのは事実だ。そうした働きを評価する点でやぶさかではないつもりだが、肝心なのは、人間の観点ではなく、神の観点からどうかである。それが「天におられるわたし(イエス)の父のみこころ(=ご意志)」に適っているかどうかである。

では、その「父のみこころ」とは何かというと、イエスが1世紀にユダヤ・ガリラヤ地方で行い、死後、弟子たちに託した活動を行うことである。イエスは熱心な福音伝道者であり、弟子をつくる点で産出的な奉仕者であったが、マタイ28章の最後の部分で、弟子たちに次のように命じている。

「それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父と子と聖霊のみ名によってバプテスマを授け、また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」「新改訳聖書(いのちのことば社)」

要するに「父のみこころ」とは、出かけて「行って」福音宣教をおこない、「あらゆる国」において人々を「弟子」とし、「教え」る世界的な教育活動を行うことである。それは、人間が人間を支配して機能不全になっている「世の終わりまで」(別な言い方をすれば、キリストによる神の統治が始まるまで)続くことになっている。

以上の聖書の言葉にしたがうなら、今日、ホンモノのクリスチャンを識別することができる。実際、そのような宣教活動を第一にし、全世界で「弟子」をつくる点で目覚ましい成功をおさめているのはどのグループ、団体だろうか。



追記:「神の御こころ」「神のご意志」に関して、使徒パウロの記した「テモテへの手紙 第一」2:4には、「神は、すべての人が救われて、真理を知るようになるのを望んでいるのです」とある。
https://wol.jw.org/ja/wol/b/r7/lp-j/nwtsty/54/2#study=discover&v=54:2:4


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ま逆 2 (死者の状態とカトリック教会) [スピリチュアルな話題]

昨日、「聖書の見方と世間(世界)一般の見方は大きく異なる」と記した。

昨日の例のほかにも、いろいろある。たとえば、いまは「お盆」で墓参りに行く時期である。亡くなった方たちが帰ってくる時期と信じられている。迎え火や送り火を焚いて死者たちとの交流をもつ。ところが、聖書は人の死後、そのカラダを抜け出る霊魂の存在を否定している。死者に意識はなく、生きている者たちになんの影響も与えることはできないと教えている。伝道の書9章4~6を見ればその点が分かる。聖書の記述の中には、いかにも死者の霊魂がありそうに思える記述もあるが、それは「たとえ話」として語られているにすぎず、事実ではない。
https://wol.jw.org/ja/wol/b/r7/lp-j/nwtsty/21/9#study=discover

ところが、仏教徒でもあればともかく、カトリック教会は聖書を権威として奉じているにもかかわらず、死者のための儀式を行っている。「煉獄」と呼ばれる、死者の霊魂が地獄から天国へいく中間の場所があると主張している。そして、彼らの救済のために、仏教でいう「死者の供養」が必要であるという。つまり、聖書の教えに反する「霊魂不滅」を説き、聖書の教えを事実上退けている。

煉獄
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%85%89%E7%8D%84

当方の個人的な経験を述べれば、小学生の頃、床屋で見た『少年マガジン』の巻頭特集か何かに「キリスト教では、戦争で死んだ人は、亡くなるとすぐ天国に行ける」というようなことが書いてあった。そこに変わった帽子をかぶった人物の絵が描かれていた。たぶんカトリックの従軍牧師を描いたものだと思うが、「なんだキリスト教って⁈」と思ったのを覚えている。ヘンなことを教えていると思ったのだ。もちろん、そんな教えは聖書にはない。

つまり、一般的にキリスト教の大本山と見なされ、キリスト教を代表しているかに思われているローマ・カトリック教会は、“聖書=「神の言葉」に照らして吟味すれば” ニセモノのキリスト教ということである。第二次大戦のときに、宗教を否定し敵視する共産主義勢力の台頭を抑えるためにナチス・ドイツ、ヒトラーと手を組んだりもしてきた(ナチスとバチカンの間に結ばれた「政教条約」)。それによってユダヤ人虐殺に加担することになった。また、さきほど記したように、従軍牧師を派遣して、戦争に若者を駆り立て、多くの血を流してもきた。世間一般では聖書の教えとキリストを代表するかに見えるだけに、神の前でのその責任は重い。流血の罪を負っている。近い将来、滅びる運命にあることが啓示(黙示録)17章に予告されている。
https://wol.jw.org/ja/wol/b/r7/lp-j/nwtsty/66/17#study=discover


まとめるならば、世間一般の目から見て大いなる存在と見なされているカトリック教会は、聖書的見地(つまり、神の目)からみれば、神とその教えに敵対しているということになる。

つまり、まったく逆である。


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ま逆 1(仕事に対する見方) [スピリチュアルな話題]

動物の死体を取り扱う仕事はさげすみ見られてきた。動物の皮をなめす仕事をするのはエタと呼ばれる低い身分の人たちだったと聞く。江戸時代の「士農工商」の身分制の外にあって、差別を受けたような話も聞く。

野生動物の生態についての記事を更新してきたが、捕食動物の狩りの場面を見れば、血がながれ、肉がひき裂かれ、すさまじい様相を示す。人間は、もっときれいに取り扱うが、食肉を得るためには、屠殺し、解体し、部分に分けるといった作業が必要になる。その場面でも、やはり血が流れる。誰もが自分の意識のなかになるべく上らないようにしているが、実際のところそうした過程を経なければ、われわれの口には入らない。食肉業者のお蔭で、夏の暑さのなかでも元気に過ごすことができる。

昨日、聖書を読んでいて改めて気づいたことがある。『レビ記』というモーセが記したとされている部分だ。そこでは、神への捧げものに関する規定がある。動物の犠牲をささげる。犠牲をささげるにも、いくつかの理由があるのだが、いずれにしろ、動物の命を奪うことが求められる。そこで、働くのが祭司たちだ。彼らの仕事をみると、まるで肉屋である。肉屋というと聞こえがいい。屠殺・解体業者と言ったほうが近い。次のように記されている。

その若い牛は、“主”の前でほふり、祭司であるアロンの子らは、その血をもって行って、会見の天幕の入口にある祭壇の回りに、その血を注ぎかけなさい。また、その全焼のいけにえの皮をはぎ、いけにえを部分に切り分けなさい。祭司であるアロンの子らは祭壇の上に火を置き、その火の上にたきぎを整えなさい。祭司であるアロンの子らは、その切り分けた部分と、頭と、脂肪とを祭壇の上にある火の上のたきぎの上に整えなさい。内臓と足は、水で洗わなければならない。祭司はこれら全部を祭壇の上で全焼のいけにえとして焼いて煙にする。これは、“主”へのなだめのかおりの火によるささげ物である。
レビ記1:5~9「新改訳聖書(いのちのことば社)」
https://wol.jw.org/ja/wol/b/r7/lp-j/nwtsty/3/1#study=discover

祭司のつとめとは、人間と神との仲介である。神への贖罪(罪のゆるし)を一般のイスラエル国民に代わって願いでたりする立場である。ということは、一般人より、ある意味において、上位の立場にあると言っていい。

何を言いたいかというと、動物の死体を取り扱うような仕事(をする人間)を低く卑しめる傾向が世界的にあるようだが、イスラエル国民の間では逆であったということだ。

ずっと後の時代になるが、イエス・キリストが弟子たちに語った言葉に次のようなものがある。

「あなたたちは,国々の支配者が威張り,偉い人たちが権威を振るうことを知っています。 あなたたちの間ではそうであってはなりません。偉くなりたい人は奉仕者でなければならず,1番でありたい人は奴隷でなければなりません。 人の子も,仕えてもらうためではなく仕えるために,また多くの人と引き換える贖いとして自分の命を与えるために来ました」。
https://wol.jw.org/ja/wol/b/r7/lp-j/nwtsty/40/20#study=discover

「人の子」とはイエス・キリスト自身である。人類全体の罪のゆるしを神に願いでるために自分の命を犠牲にした。クリスチャンはその弟子で、イエスの生き方に倣う人々だ。彼らも、神と他の人々への奉仕のために、自分の命を差し出す。イエスの時代以来、その一番重要な活動は、宣教活動であり、神の王国をふれ告げ、キリストの弟子となる人々を集めることだ。

その弟子たちの間では、より低いもの、謙遜に仕える者となるようイエスは命じている。そして、より卑しい(と思われる)立場で奉仕する者こそ偉いという見方を持つよう勧めている。これはプライドばかりを気にする人には到底受け入れられない見方だろう。

と、いうように聖書の見方と世間(世界)一般の見方では大きく異なることが多い。


動物殺しの民族誌

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  • 出版社/メーカー: 昭和堂
  • 発売日: 2016/11/15
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https://kankyodou.blog.ss-blog.jp/2017-02-16

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早朝、歓楽街を歩く [スピリチュアルな話題]

当市の繁華街を歩く機会があった。繁華街というより、歓楽街といったほうがいいかもしれない。仕事の関係でいくことになった。

スナックの戸口には、営業自粛の張り紙がしてある。ある店は、しばらく休業とあるし、別の店はカラオケはできない、一緒に入店するのは6人までなどと書いてある。

早朝、人は、ほとんどいない。若い男女が騒いでいたが、五指に満たない。

歓楽街は特有だ。裏道は猥雑なにおいがあるし、表のほうは甘いのこり香が漂っていたりする。人間の残すにおいや香りはどこも共通しているのだろう。新宿のゴールデン街もあるいたことがあるが、その点あちらの方が強烈だ。気持ち悪くなって吐いた女性も知っている。酒を飲みすぎてではなく、その場のにおいに参ってしまったのだ。酒とゴミとその他もろもろがないまぜになった空気にまいってしまった。

当方はおおよそ歓楽街とは無縁の生活をおくっている。そもそも、そうした場所に足を向けることもない。聖書のなかでは「良い名は良い油よりも価値がある。死ぬ日は生まれる日よりも価値がある。宴会が開かれる家に行くよりも,死を悼む家に行く方がよい。死は全ての人が迎える終わりであり,生きている人はそれを心に留めなければならない。笑うよりも,苦悩する方がよい。悲しい顔をすることで心が正されるからだ。 賢い人の心は,死を悼む家にあるが,愚かな人の心は,楽しいことが行われる家にある(伝道の書7:1~4)」と、ある。
https://wol.jw.org/ja/wol/b/r7/lp-j/nwtsty/21/7#study=discover

楽しむことがワルイというのではない。イエス・キリストでさえ、友人の結婚式に参加し、大量の水をワインに変えるという奇跡をおこなっている。喜ぶ人と共に喜びなさいという聖書の言葉もある。他の人の幸福にともにあずかり、大いに喜ばせたいという願いの持ち主であったことがうかがえる。キリストはただの堅物ではなかったということになる。上の「伝道の書」にあるソロモンの言葉は、要するに、自分の人生をまじめに考えるうえで、葬式という死を悼む空気の中にいることは良いことだと言いたいのだ。

当方も、親しい仲間と語らうのは好きだ。知的な話が特に好きだ。知らないことを学べる機会はありがたい。逆をいえば、ただの莫迦騒ぎはご免である。

いや、今朝そうした場を歩いていて、思ったことがある。それはよく言われることだ。「年をとって遊びをおぼえるとたいへんなことになる」と聞くが、そうだろうなと思った。年をとって「遊び」をおぼえるということは、それまで「遊び」を知らなかったということだ。それまで過ごした自分の人生が徒労に思え、ムダなことをしたと後悔し、「遊び」の日々を取り戻そうということになるのであれば、それはタイヘンなことになるにちがいない。

自分の「今」をつねに満ち足りたものとしてきた人は、年をとってタイヘンなことになることはないだろう。しかし、そのことがなかなか難しいので多くの人が人生を誤まるのは事実だ。そうではあっても、聖書的な観点からいくと、そのことは非常に簡単だと言える。人間が神様によって創られたのであれば、創ったその方が人間のツクリをいちばんよくご存知のはずだ。どんな機械もマニュアルどおりにしないとうまく作動しないし、壊れたりする。人間もおなじだ。聖書を学んだ人間として、世の中をみるときに、聖書にある神様の教えに目を留めて従ってさえいれば、そんな悲しくつらい目に会わないですむのにと思うことが多い。とりわけ、芸能人の不倫や離婚についての騒動を見聞きすると、聖書の原則を守ってさえいればとつくづく思う。

「日本語聖書」
https://wol.jw.org/ja/wol/binav/r7/lp-j


舊新約聖書―文語訳クロス装ハードカバー JL63

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『ノストラダムスの大予言』と 聖書(五島勉氏死去の報に接して) [スピリチュアルな話題]

報道によると『ノストラダムスの大予言』の著者:五島勉氏が90歳で亡くなったという。

ノストラダムスの大予言 迫りくる1999年7の月人類滅亡の日 (ノン・ブック)

ノストラダムスの大予言 迫りくる1999年7の月人類滅亡の日 (ノン・ブック)

  • 作者: 五島勉
  • 出版社/メーカー: 祥伝社
  • 発売日: 2014/09/05
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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8E%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%A9%E3%83%80%E3%83%A0%E3%82%B9%E3%81%AE%E5%A4%A7%E4%BA%88%E8%A8%80

1970年代、たいへんなベストセラーになったはずだが、当方は読んでいない。

ネット上の五島氏の追悼記事をいくつか読んでみた。

そもそも予言に興味をもつきっかけは「聖書」だという。五島氏は次のように語っている。

***以下、引用***

―― 当初は、広く「予言」をテーマにした本を考えられていたんですよね。そもそもどうして予言に興味を持ったんですか?

五島 それは、自分がクリスチャンの家に生まれて、母親からいろいろと聞かされてましたから。私の家のキリスト教は、ローマカトリックじゃなくてロシア正教です。ニコライ堂を建てたニコライ大主教が、明治時代、函館に上陸して布教を始めたとき、最初の信者の一人が私のおばあさんなんです。おばあさんは早くに死んじゃいましたけど、母に受け継がれた話の中に、黙示録や予言の話がありました。

―― それはどんなお話だったんでしょうか?

五島 海の向こうから怪物がゴーッと出てきて、人間をみんな飲み込んじゃうというような話でした。私が聞いたのは小学1年生くらいです。怪物そのものがいるとは思わなかったんですが、その怪物は何だといったら、これからのアメリカのことだと。

―― まだ戦争が始まる前ですよね。

五島 始まってないですね。今考えれば、それは黙示録の一部ですよ。でも、そんな話を聞かされていたから、ずっと後になってキリスト教の予言とかにもビビッとくるんです。

***引用ここまで***
【追悼】伝説のベストセラー作家・五島勉の告白「私がノストラダムスを書いた理由」
https://bunshun.jp/articles/-/39135?utm_source=news.yahoo.co.jp&utm_medium=referral&utm_campaign=relatedLink


たしかに、聖書には予言が記されている。いわゆる「旧約聖書」は、紀元前(ビフォー・キリスト=キリスト誕生以前)に記された書物の集成だが、そこには後に登場するであろう救世主(つまりキリスト)に関する予言が数多く記されている。

たとえば、キリスト誕生後(つまり紀元後)に記された(いわゆる「新約聖書」中の)マタイの福音書には、旧約聖書中に記された予言が、イエスという名の人物に関連して、そのとおりに起きたことが “実際に予言を引用しながら” 示されている。旧約聖書中のミカ書5章2節の引用だが、そのようにしてキリストがベツレヘムで生まれることが予告されていたことが明らかにされている。つまり、ミカ書5:2は、キリストに関する予言であるということだ。
https://wol.jw.org/ja/wol/b/r7/lp-j/nwtsty/33/5#study=discover

そして、そのマタイ2章4~6節を読むと、キリストが予告どおりにベツレヘムで生まれたことが示されている。ここでは、ベツレヘムで予告されていた通りに生まれたので、イエスという名の人物は、予言されていたキリストであるという論述の仕方が用いられている。同じくマタイ2章15、17、23節をみると、その点を理解できるにちがいない。予言がそのとおりに成ったことが、そこで強調されている。
https://wol.jw.org/ja/wol/b/r7/lp-j/nwtsty/40/2#study=discover

(ちなみに、クリスチャンにとっては、イエスという名前の人物がキリストとなるが、ユダヤ教の信奉者はイエスをキリストとして認めていない。おなじ聖書(旧約)を権威あるものとしながら、その点で大きく異なっている。)

ほかに歴史上の出来事に関する予言も聖書には記されている。世界史上、中東地域を支配した覇権国家の興亡についての記述(つまり予言)がそれだ。エジプト、アッシリア、バビロン、メディア・ペルシャ、ギリシャ、ローマ(そしてローマから派生したものとしてイギリス連邦、アメリカ合衆国)という順番になるが、そのことが象徴的表現でダニエル書7章に出ている。
https://wol.jw.org/ja/wol/b/r7/lp-j/nwtsty/27/7#study=discover

そのように記すと、たいていの方が疑念を示す。(実は当方もその一人だったのだが)それは、「予言というけれど、出来事が起きた後になって、書いたのではないか。それでいながら、予言が成就したなどと言って人を欺いているのではないか」という疑念だ。

ところが、聖書の予言には、現代に実現し、現在実現しつつあるものもある。そのような予言のなかには、聖書を丹念に調べるなかで、ある古代の歴史的出来事を起算年として予想され、現代に実現したものもある。単に出来事だけでなく、特定の西暦年代にそうなることが予想されていたということだ。1914年の第一次世界大戦がそれだ。また、予言のなかには、どのように予言が展開していくものか、実際の世界の動きを見ていくなかで、その理解(解釈)が特定されるものもある。

そうした予言のうち20世紀以降その通りになってきた予言と現在これから起こることとを示す部分が「黙示録(啓示)」である。新約聖書中の巻末にあたる部分だ。そこに示されたシナリオとして、これから生じる事柄としては、次のように記されてある。

こう言った。「今おられ,かつておられた方,全能の神エホバ,私たちはあなたに感謝します。あなたはご自分の大きな力をもって,王として治め始められたからです。 国々は憤り,あなたご自身も憤りを表し,定めの時が来ました。それは,死んだ人々が裁かれる時であり,あなたの奴隷である預言者たち,聖なる人たち,あなたの名を畏れる人たちが,小さな者も大きな者も報われる時であり,地を損なっている人々が滅ぼされる時です」 啓示11章17、18節
https://wol.jw.org/ja/wol/b/r7/lp-j/nwtsty/66/11#study=discover

地球の創造者であり主権者である全能の神の権威に逆らい、地球を「損なっている」者たちが地球上から追い出される。そして、その後に生じることとしては・・

その時,王座から大きな声がした。「見なさい! 神の天幕が人々と共にあり,神は人々と共に住み,人々は神の民となります。神が人々と共にいるようになるのです。 神は人々の目から全ての涙を拭い去ります。もはや死はなくなり,悲しみも嘆きも苦痛もなくなります。以前のものは過ぎ去ったのです」啓示21章3、4節
https://wol.jw.org/ja/wol/b/r7/lp-j/nwtsty/66/21#study=discover

幸いなことに、五島氏が言うように「海の向こうから怪物がゴーッと出てきて、人間をみんな飲み込んじゃうというような話」にはならないことになっている。

舊新約聖書―文語訳クロス装ハードカバー JL63

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  • 作者: 日本聖書協会
  • 出版社/メーカー: 日本聖書協会
  • 発売日: 1993/11/01
  • メディア: 大型本




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死をタブー視しすぎる日本人の考えにモノ申す [スピリチュアルな話題]

東洋経済ONLINE7月16日に解剖学者の養老孟子氏と 小堀 鷗一郎 : 堀ノ内病院 地域医療センター医師 の対談がでている。

死をタブー視しすぎる日本人の考えにモノ申す
「死を受け入れる」とは一体どういうことなのか
https://toyokeizai.net/articles/-/361529

というものだ。

多くの死を実際に見てきた方々の意見は貴重だ。


当方が、死について考えるようになったのは、50過ぎてからだろうか。ということは、つい最近ということだ(ということにしておこう)。

学齢前から一家の代表のようにして祖母と葬式や法事に出かけて、坊主にあこがれるほどだったのだけれど、自分の死について考えることはほとんど無かった。

それは若くして亡くなった叔父が焼かれるのを、火葬炉ののぞき穴から見ても同じだったように思う。

よく知る人やおなじ年頃の人が亡くなる報道を聞くようになって、やっぱり人間て死ぬんだと実感するようになった。その延長として自分の死が出てきたというわけだ。
島森路子、逝く。
https://bookend.blog.ss-blog.jp/2013-04-24

なかには幼児期から自分の死をつよく意識するような人もいるようだ。そういう方は自分の人生を充実させることに気をくばるようになるのも早いかもしれない。

死は避けることができない怖れの対象とされているが、実態を知れば受け入れやすくなる。

聖書には、死とはどのようなものかはっきり示されている。

伝道の書 9:4~6

生きているなら希望が持てる。生きている犬は死んだライオンよりはましだからだ。 生きている人は自分が死ぬことを知っている。しかし,死んだ人は何も知らない。何かを得ることもない。思い出されず,忘れ去られる。また,彼らには愛も憎しみも嫉妬もすでになく,太陽の下で行われることに何の関わりも持たない。
https://wol.jw.org/ja/wol/b/r7/lp-j/nwtsty/21/9#study=discover

以上の記述を見ると、死(者)の特徴は、なんにも知らないこと。感情もなく、他になんの影響を与えることがないこと。

だから、いわゆる「霊魂不滅」という考えを聖書は教えていない。死んだカラダから離れて残るタマシイがあって、ものごとを知覚し、生き残った家族や知人になんらかの影響を与えることができるとは教えていない。

では、無になって終わりかというと、そうではない。麻酔によって何も知らず感じることもない人が、ふたたび眠りからさめるように、再び地上に生き返ることが示されている。それが、いわゆる「復活」だ。聖書が示す希望である。

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アマビエは、神様それとも妖怪? [スピリチュアルな話題]

最近話題の「アマビエ」のことだが、もっぱら「妖怪」ということになっている。しかし、疫病の災禍から身を守るために、自分を拝めと言ったらしいから、神様あつかいして欲しがっていたのは確かなようである。

『ウィキペディア』には、次のように説明されている。

【アマビエは、江戸時代後期に製作されたとみられる瓦版に類する刷り物に、絵と文とが記されている。肥後国(現・熊本県)の夜ごとに海に光り物がおこったため、土地の役人がおもむいたところ、アマビエと名乗るものが出現し、役人に対して「当年より6ヶ年の間[注 2]は諸国で豊作がつづく。しかし同時に疫病が流行するから、私の姿を描き写した絵を人々に早々に見せよ。」と予言めいたことを告げ、海の中へと帰って行ったとされる[1]】。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%9E%E3%83%93%E3%82%A8

神様か、妖怪かというと、人騒がせな仕方で海から現れたというのが、まず妖怪的である。そして、これから「6年間、諸国で豊作がつづき、同時に疫病が流行する」という予言もあやしく妖怪的である。諸国は広く、広い世の中のどこかでは”同時に”豊作も疫病もありそうだ。それらは、広い世の中のいつの時代にも生起していたにちがいない。

ノストラダムスの予言が、そうだと聞くが、いずれにでも解釈できるような怪しげな言葉をのたまうようでは、神様にはなれない。それに、第一、その後の6年間に、アマビエが言うとおりになったという事実は無いようである。それ以前に経験したことがないような、だれもが「これまでにない豊作だ」と意識し、あるいは「疫病だ」と感じられるものが、歴史のなかで起きなければならないと思うのだが、そのような記録は残っていない。ということは、やはりアマビエの予言はハズレタ、イイカゲンであったということになるだろう。

しかし、それにしても、ずいぶんズウズウしいヤツだと思う。直接に「拝め」とは言ってないが、「私の姿を描き映した絵を、見せよ」とは、つまり、「見て、拝め、崇拝せよ」と間接的に要求しているということになる。神様あつかいせよ、ということだ。しかし、その絵を見て疫病を癒されたとか、はやり病全体を世間から実際に終息させて、困った人々を窮地から救ったという話は伝わっていないもようである。フツウ、病気を癒したり、災いを終わらせたりしてくれるというご利益を経験できたので、その結果として人々から神様として祀られるのだろうが、そうした事実はなさそうである。

「私の姿を描き写した絵」とは、今日的に言えば「ブロマイド」、江戸時代なら「役者絵」ということになるだろうか。紙の貴重だった時代である。それを使って、自分を描かせようとするなど、これもまたずうずうしい。自己顕示欲まるだしである。

逆に言えば、よっぽど自己承認欲求がつよいのだろう。泰然自若、安心立命の境地に達していない。他者の注目がないと身の置きどころがない可哀そうな感じがする。つまりは、やはり、妖怪なんだろうなあ、と思う。



ちなみに、聖書のなかにも数々の予言が出てくる。アマビエの「6年」という記述から、『創世記』に出てくるヨセフのことを思い出した。ヨセフは、イスラエル民族の祖(ヤコブ)の12人の息子のひとりで、エジプトに生じる7年の豊作と、それにつづく7年の飢饉を予言をした人物として記録されている。もっとも、その内容をヨセフに伝えたのは神様であると、ヨセフ自身が言っている。その予言がたしかであったので、エジプトでファラオに次ぐ立場についた。モーセによってイスラエル民族が、奴隷状態にあったエジプトから『出エジプト』する前の話である。『創世記』、『出エジプト記』は、単なる物語として読んでも面白い。聖書に親しむはじめとするにはイイ本である。

創世記40、41章にそのくだりがある。以下は41章の記述

https://wol.jw.org/ja/wol/b/r7/lp-j/nwtsty/1/41#study=discover


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「渡部昇一は篤いクリスチャン」?(松崎 之貞著『評伝 渡部昇一』から) [スピリチュアルな話題]

『評伝 渡部昇一』の最終章最後のパラグラフは「渡部昇一は篤いクリスチャンであった。」と始まる。

しかし、書籍中、渡部さんが「篤いクリスチャン」であったことを示す記述は多くはない。


「知の巨人」の人間学 -評伝 渡部昇一

「知の巨人」の人間学 -評伝 渡部昇一

  • 作者: 松崎 之貞
  • 出版社/メーカー: ビジネス社
  • 発売日: 2017/10/28
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)



「カトリックへの改宗」において、上智大の哲学教授で神父でもあったボッシュから洗礼をほどこされたことが記されている。仏教からカトリックへの改宗の決断となったのが、パスカルの『瞑想録』中にある「神が存在するか否か」をめぐる「賭の精神」(ラフュマ版の断章418)に出会っての衝撃であったという。

その部分を引用すると・・・

じっさい、「神は存在する」に賭けて、神がいたら大いなる悦びを得るが、神が存在しなくてもそれだけの話である。逆に、「神は存在しない」に賭けて、神がいなかったら、やはりそれまでの話だが、もし神が存在したなら・・・そのギャンブラーは神からどれほどの怒りを買うことだろう。そうであれば、ためらうことなく「神は存在する」のほうに賭けるべきだというのがパスカルの意見であった。 / 若き渡部昇一はこのくだりを読み、そしてパスカルが二度までも神の奇蹟を体験し、回心したことを知ってキリスト教への改宗を考えはじめた。・・中略・・『パンセ』の「賭けの精神」とパスカルの二度におよぶ奇蹟体験は一種のスプリングボードとなった。青年・渡部はしばらく迷った挙句、カトリックの洗礼を受けた。霊名は神学者トマス・アクィナスにちなんだ「トマス」であった。p40-42


また、「きちんと洗礼を受けたカトリック男性」渡部昇一わかき日の印象を奥さま(渡部夫人)が語っての記述。

主人のことは母がとても気に入ったんです。教師をしていた母の教え子の方の紹介でしたし、きちんと洗礼を受けたカトリックの男性というのは当時だって珍しかったから。ええ、うちもカトリックなんです。それに、カトリックは離婚ができないでしょう。一度嫁に出せば一生安心じゃありませんか(笑)・・中略・・デートの日にちを決めたら絶対に変更しない。遅刻しない。それから、機嫌がいい日と悪い日がないんです。それはいいことだなと思いました。
(「追悼『知の巨人』渡部昇一」(WAC)に寄せた「30回目のお見合い結婚」)




そして、最終章「エピローグ」、2017年5月30日の渡部昇一追悼ミサの記述となる。

上智大で長く渡部の同僚としてすごしてきた司祭のピーター・ミルワードがミサを司り・・・

「山形県の鶴岡市に生まれたワタナベ先生は田舎者でした。ストラッドフォードのシェイクスピアも、ナザレのイエスも、いい人はみな田舎者です。心の田舎者です。さいわいなるかな、心の田舎者よ」と説いた。p268,9

(ちなみに、弔辞に立ったのは石原慎太郎、参列者のなかには麻生太郎などの姿が見られ、「献花がはじまったとき駆けつけたのが首相・安倍晋三と防衛大臣の稲田朋美であった」と記されている。)


宗教(カトリック)に直接言及しているのは、以上がすべてであるように思う。洗礼を受けて、死に至るまで、離婚することなく、立派に家族を養い治め、子どもたちを社会に送り出したこと、教育者・文化人として明るい人柄で慕われたこと、それ自体りっぱな宗教の実践といえる。

ただしかし・・である。次のイエス・キリストの「山上の垂訓」にある有名な言葉が思い浮かぶ。

その言葉は、イエス・キリストを「主」と呼ぶ者、自分はクリスチャンであると称する者らに、常に自己吟味を促す言葉となっている。


「わたしに向かって,『主よ,主よ』と言う者がみな天の王国に入るのではなく,天におられるわたしの父のご意志を行なう者が入るのです。 その日には,多くの者がわたしに向かって,『主よ,主よ,わたしたちはあなたの名において預言し,あなたの名において悪霊たちを追い出し,あなたの名において強力な業を数多く成し遂げなかったでしょうか』と言うでしょう。 しかしその時,わたしは彼らにはっきり言います。わたしは決してあなた方を知らない,不法を働く者たちよ,わたしから離れ去れ,と。」 (マタイ7:21~23)

この場合の「天におられるわたしの父のご意志」とは、イエス・キリストが地上で行った活動であり、命じたことを指している。それは、今もクリスチャンの担うべきつとめである。

その時からイエスは伝道を開始して,「あなた方は悔い改めなさい。天の王国は近づいたからです」と言いはじめられた。(マタイ4:17)

すると,イエスは近づいて来て,彼らにこう話された。「わたしは天と地におけるすべての権威を与えられています。 それゆえ,行って,すべての国の人々を弟子とし,父と子と聖霊との名において彼らにバプテスマを施し, わたしがあなた方に命令した事柄すべてを守り行なうように教えなさい」(マタイ28:18-20)

そして,王国のこの良いたよりは,あらゆる国民に対する証しのために,人の住む全地で宣べ伝えられるでしょう。それから終わりが来るのです。 (マタイ24:14)


「篤いクリスチャン」であるかどうか、あったかどうかは、聖書の言葉で計られねばならない。

これは、クリスチャンを自称する者すべてにとって、たいへん身の引き締まる言葉である。


オンライン聖書(新世界訳)
https://www.jw.org/ja/%E5%87%BA%E7%89%88%E7%89%A9/%E8%81%96%E6%9B%B8/bi12/%E5%90%84%E6%9B%B8/

口語訳聖書
http://bible.salterrae.net/kougo/html/

文語訳
http://jcl.ibibles.net/

舊新約聖書―文語訳クロス装ハードカバー JL63

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  • 作者: 日本聖書協会
  • 出版社/メーカー: 日本聖書協会
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死と再生 (日野原重明先生亡くなる) [スピリチュアルな話題]

日野原先生が亡くなった。105歳だという。

107歳まで生きた昇地三郎先生を超えるかと思っていたが・・・


106歳を越えて、私がいま伝えたいこと

106歳を越えて、私がいま伝えたいこと

  • 作者: 昇地三郎
  • 出版社/メーカー: こう書房
  • 発売日: 2012/08/02
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)



日野原先生で思い浮かぶのは、よど号ハイジャック事件で命拾いした話だ。福岡に飛ぶ飛行機がハイジャックされ、乗客乗員が人質になる。先生もその中にいて、解放された時のことを、次のように語っている。

幸い、私は無事に帰還できました。解放されて韓国の金浦空港の土を靴底で踏んだとき、感謝の念とともに「これからの人生は与えられたものだ。誰かのために使うべきだ」と感じました。還暦を目前にして、そう思えたことが私の人生の後半を決めてくれたのです。

まさかの「よど号事件」遭遇で得た、人生後半戦への決意 -聖路加国際病院理事長 日野原重明氏
PRESIDENT 2011年12月5日号
http://president.jp/articles/-/9320

ハイジャックに遭って死ぬはずのものが命拾いをし、解放されて死から命へ移行した。死から蘇えるかのような経験をした。いわば、ユング心理学でいうところの「死と再生」の儀式を経験したといえる。千日回峰行の最後の「堂入り」で、「死と再生」の体験をしたのち、修行者は人格が変わるという。『行とは何か』では、満行した方のエゴグラムの検査結果がでていた。父親的母親的要素が強くなり、宗教家として望ましい成長を遂げたことが示されていたと思う。

行とは何か (新潮選書)

行とは何か (新潮選書)

  • 作者: 藤田 庄市
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 1997/08
  • メディア: 単行本



日野原先生のその後の生き方にも、それは自ずと反映されて、医師としての活動の中に、より宗教家的側面がつよく現れるようになっていったにちがいない。


ちなみに、よど号ハイジャック事件のとき、人質を解放のための身代わりとなった方がいる。山村新治郎運輸政務次官だ。聖書的観点でいくなら、人を死から解放するため、死の原因である罪を取り除くための代価である「贖(あがな)い」を神(創造者)に支払う役回りを果たしたイエス・キリストに相当するといえる。

イエスが地上にいたとき、死人を復活させたという記述が『福音書』にある。奇跡である。それは、イエスが将来「神の王国」の王として統治するとき大々的になされることを予告するものであり、イエスがたしかに「神の子」として創造者である神の是認と後ろ盾を得ていることを証明するものだった。

(モーセが、エジプトでの奴隷状態にあったイスラエルの民を救出するために、神から遣わされたときに、彼のおこなう奇跡もやはり、神の是認と後ろ盾を得ていることを証明するものとなった。)

当時、イエスのおこなった奇跡によって復活した人たちは、しばらくして亡くなったが、近い将来(「神の王国」が全地を支配するようになった後)、これまで亡くなってきた人々は復活して、エデン(喜び)の園のようになった地球上での生活を永遠に楽しむことができるようになると聖書は教えている。

日野原先生のもそうした一人となることだろう。

『僕は頑固な子どもだった』日野原 重明著 株式会社ハルメク
http://kankyodou.blog.so-net.ne.jp/2016-12-03



舊新約聖書―文語訳クロス装ハードカバー JL63

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  • 作者: 日本聖書協会
  • 出版社/メーカー: 日本聖書協会
  • 発売日: 1993/11/01
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世は「ステルス」性に満ちて・・・ [スピリチュアルな話題]

昨日の記事でも示したが、世のステルス化が進んでいる。人間と人間が直接触れ合う機会なしに物事が進められるようになっている。昔ながらの小売店での売買が煩わしくなって、人々はコンビニのマニュアル化されたレジ対応を求め、さらにはインターネット上での商品入手を求め・・・。だんだん相手の顔の見えない、見えにくい隠蔽された世界になってきている。

ステルス性
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%83%86%E3%83%AB%E3%82%B9%E6%80%A7

人間つき合いは、煩わしいもので敬遠すべきものなのであろう。すくなくとも、そのように認識されるようになってきているのだろう。

そもそもが、「つき合い」は「突き合い」であるようなハナシもある。角を突き合うことは争いを連想させる。争いはできるなら避けたい。本当のところは(語源などからいくと)どうか分からないが、実生活の様相を見ると、まんざら間違っているように思えなくもない。

以前であれば、面倒に決まっている人間関係を、やんわり上手にいなしたり、捌いたりしながら、生きてきた。それが、核家族化によって「年寄り」が敬遠され、彼ら・彼女たちから世渡りの方法を教えられる機会も減少し、若い者たちは、対人関係をやんわり捌くことができない。直接ツノ突き合うようになる。お互いケガをしたくないので、適度に離れて生きるしかなく、山アラシのジレンマを生きることになる。

山アラシのジレンマ (ダイヤモンド現代選書)

山アラシのジレンマ (ダイヤモンド現代選書)

  • 作者: レオポルド・ベラック
  • 出版社/メーカー: ダイヤモンド社
  • 発売日: 1974/01
  • メディア: 単行本

近所の外出する人に向かって、挨拶がてら 「どちらへ?」 と言う。それを受けて 「ちょっとそこまで・・」 と答える。具体的なことはなにも言わない。それで、分かれる。あるいは、さらにちょっと会話する。そのように以前は(「年寄りたちは)していた。プライバシーを守りながら、相手を無視するわけでもない。それで、お互いうまくやり過ごしてきた。
国立国語研究所 暮らしに生きることば
http://www.ninjal.ac.jp/publication/catalogue/kokken_mado/18/01/

小学校で、英語を教えるより、そうした日常の決まり文句を教えた方がいいのではないかと思う。そのようにすれば、そうした「決まり文句」を知らないままに成長し、相手を無視していると思われるのも困るし、かといって何を話していいかも分からないので、スマホの画面をじっと凝視し、相手が目の前からいなくなるの待つ、そのようにして時をやり過ごすなどという(オトナゲない)大人になることはないように思う。


最近、ステルス化をとくに感じるのは、偵察機でも人間関係でもない。「政府」である。政府のステルス化。国民が知るべき情報を隠す。「法令に則った適切な扱い」などと言って、隠しおおす。公表するのを、逃げる。国会での質問に、一般論をのみ述べて時間稼ぎをする。国民の信を受けて機能する集団が国民を無知のうちに留めて平気でいる。どうせ、国民の大多数は、目の前の生活に必死である。その間隙をねらっての振る舞いに思える。それが、国民一般の知識・情報を上回る高い見地による確かな方針に基づくもので、現時点においては国民の理解を得るのがたいへん困難なので、秘密としておこうというなら、それはそれでいい(ようにも思う)。しかし、そういう判断をした根拠となる文書を日本の行政は処分してしまう。それでは、将来において、当時は理解できなかったどんな理由で政府、行政が判断し、行動していたかを知るスベもない。そして、ただ利己的な動機による隠蔽工作でしかなかったのでは・・との疑惑をもたざるを得なくなる。そうした不信感は、さらに将来に引きつがれる。

「法の番人」役割放棄で、日本は前・近代・・
http://bookend.blog.so-net.ne.jp/2015-10-24

「秘密」をアメリカ並みにしたいのなら、まずは「情報公開」の方から http://bookend.blog.so-net.ne.jp/2013-11-15

もっとも、人間の政府に過度に期待するのがそもそも間違っている。人間には、統治能力がないことを、聖書は示している。そのことは、人類の歴史を見れば分かることだ。自国民全員に永続するかに思える幸福感を与えた政府など世界のどこを探してもない。それでも、聖書は現行の人間の政府を、神がお許しになった権威として認め、その法令に服すること、税を納めること、敬意を示すことを求めている。どのような政府であれ、ある程度の社会秩序を保つ機能を果たすからだ。そのようにしながらクリスチャンは「神の御国」を待つことになっている。キリスト信者が「御国(ミクニ)の来たらんことを」と祈るさいの「御国」である。現代語なら「王国」である。それは政府を指す。神の立てる政府を待ち望み、それをふれ告げるのが、クリスチャンの勤めである。いまも熱心な活動がなされている。それを本当に聞くなら、その現実性を吟味するなら、本当に確かなものであることを知ることができる。問題は、「神の王国」をふれ告げ、その政府について教えているグループを見分けることである。あとは、時間をとって、きちんと調べるなら、その現実性を確信できる。目に見えない政府でありながら、つまり、まさにステルス性をもつものでありながら、目に見える人間の政府以上に現実に機能している政府であることを知ることができる。隠されてはいないことを実感できる。


旧新約聖書―文語訳

旧新約聖書―文語訳

  • 作者:
  • 出版社/メーカー: 日本聖書協会
  • 発売日: 1996/12
  • メディア: 単行本



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“怪”女列伝?(安倍昭恵~桜井よしこ~藤田小女姫) [スピリチュアルな話題]

けさほど、グーグルニュースを見たら、

安倍昭恵「別居生活」と「偽装ツーショット」の修羅現場!(2)食事の時だけ撮影用に同席http://www.excite.co.jp/News/politics_g/20170506/Asagei_80084.html

が、目にとまり、

そのページにある「社会ニュースランキング」にある

もはや狂気!安倍首相が北朝鮮への軍事行動を示唆! トランプですら対話に舵を切るなか、ただひとり北朝鮮危機を煽り続けhttp://www.excite.co.jp/News/society_g/20170504/Litera_3132.html

が、目にとまり、

"極右の女神"櫻井よしこは「神社」に住んでいた! 神社本庁と改憲運動の一方、神社の所有地に520㎡の豪邸
http://www.excite.co.jp/News/society_g/20170506/Litera_3135.html?_p=6

が、目にとまった。

とりわけ、“極右の女神”桜井よしこ・・のなかで紹介されている別冊正論「一冊まるごと桜井よしこさん」の表紙写真を見て、ふと思い出した人物がいる。

一冊まるごと櫻井よしこさん。 (別冊正論29)

一冊まるごと櫻井よしこさん。 (別冊正論29)

  • 作者: 産経新聞社 別冊正論編集部
  • 出版社/メーカー: 日本工業新聞社
  • 発売日: 2017/03/24
  • メディア: ムック



どこでどういう経路で、思い出すのかはわからない。潜在意識にあるものが、記事や画像に触発されて浮かび上がってくるのだろう。そこの過程が明瞭でないと、霊能者扱いされかねないので、なんとか論理的筋道をつけようとしたいところだが、とりあえず結論だけいうと・・・


藤田小女姫(ふじたこととめ)という女占い師である。

そのスキャンダラスな(殺人)死がスポーツ紙の一面を飾ったときにはじめて藤田を知った。政財界とのつながりが深く、「ソニー」の名付け親であるとか、歴代総理とも親しく、彼らに情報を提供(つまりは、占いを)していたヨウナことが記されてあった。

それを読んで、「総理大臣も占い師の世話になるのか・・」という思いと、「そんなアヤシゲナ情報をアリガタガラレ真に受けられて政治が動いては困るな」という思いを当時もったように思う。

“極右の女神”桜井よしこ・・など、上記記事は、「リテラ」に掲載されたもので、要するに「右」と呼ばれる一群からは、「偏向」しているとされている情報源である。それでも、その中身を見ると、キチンと取材がなされているようであり、ソレ相応に評価して、つまり信頼していいように思う。

“極右の女神”は、神社本庁から土地の提供を受け、そこに「豪邸」を建ててお住まいのようであり、“女神”の思想信条は、神社との関係によって、以前とおおきく変わってきている旨がソコには示されている。記者が桜井氏に送った質問状への回答ナシということは、そこで質問されていることは、事実とみなしてイイということなのだろう。

安倍昭江夫人のニューエイジ好みや夫である安倍首相による(自民党のこれまでの憲法改正論議の経緯を逸脱無視するかのような)突然のビデオ発言(ソレは桜井よしこ氏と関係の深い団体「日本会議」でなされた)や、「トランプですら対話に舵を切るなか、ただひとり北朝鮮危機を煽り続け」るソノ様子からは、人間を超えた霊的な勢力からの影響を受け、操られているのでは・・と心配である。

ついでながら、「世界びっくりニュース」に掲載されていた記事に、

森友学園だけではない、安倍昭恵夫人の奇怪な活動6つ! 霊能者、中国人スパイ、大麻、謎の水…!!http://www.excite.co.jp/News/odd/Tocana_201703_post_12459.html?_p=8

たいへんアヤシゲではあるが、そこに「永田町のウワサによると、岸信介が毎晩安倍首相の枕元に立っているらしい・・・」とある。

首相の動きを見ていると、あながち、ウワサだけでないように思われもする。夜毎ジージにウナサレルとは。たいへんお気の毒ではある。

細木数子の占いは当たる?
http://bookend.blog.so-net.ne.jp/2006-08-18-1


霊性・霊界ガイド  物質世界の向こう側―あの世を感じて生きる (別冊正論28)

霊性・霊界ガイド 物質世界の向こう側―あの世を感じて生きる (別冊正論28)

  • 作者:
  • 出版社/メーカー: 日本工業新聞社
  • 発売日: 2016/11/21
  • メディア: ムック



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海に落ちた孫を助けようとして(『銀河鉄道・・』『のんのんばあ』『紅の豚』) [スピリチュアルな話題]

海に落ちた孫を助けようとして、祖父が重態というニュースを聞いた。

たいてい犠牲になるのは、溺れた人より、助けようとした方だ。分かってはいても、ついぞ飛び込んでしまうものなのだろう。それでも、この手の話を聞くと、こころ打たれる。

最近も、線路に落ちた人を、助けようとした人が、落ちた人といっしょに亡くなったという話もあった。あとで、落ちた理由が「酔っ払っていて・・」などと聞くと、助けようとした方が、なおさら気の毒でもあり、心を打たれる。

自己犠牲を示す話は、有り難いだけに、こころ打たれるのだろう。

原発再稼働:シナリオは決まっている
http://bookend.blog.so-net.ne.jp/2012-04-25


新編 銀河鉄道の夜 (新潮文庫)

新編 銀河鉄道の夜 (新潮文庫)

  • 作者: 宮沢 賢治
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 1989/06/19
  • メディア: 文庫



『銀河鉄道の夜』のカンパネルラも、溺れた友人ザネリを助けようとして、犠牲になったのだったと思う。ザネリがジョバンニをからかったとき、気の毒そうな顔をしたのもカンパネルラだ。たいへん同情的で愛のある人物としてカンパネルラは描かれている。

そのカンパネルラとジョバンニが、銀河鉄道を旅したことになっている。そうして、夢から現実に戻ったジョバンニに届いた知らせが、カンパネルラの死だった。それを、聞かされたのは、カンパネルラの父親からだ。

アルバイトをするために、カンパネルラと一緒に、お祭りに出かけることのできなかったジョバンニが、仕事がえりの丘のうえで眠りに落ちて見た夢が、カンパネルラとの銀河鉄道の旅だった。それが物語りの設定だったと思う。

結局のところ、『銀河鉄道の夜』は、銀河をめぐる孤独の物語なのだろうな・・・。


のんのんばあとオレ [DVD]

のんのんばあとオレ [DVD]

  • 出版社/メーカー: TOEI COMPANY,LTD.(TOE)(D)
  • メディア: DVD



水木しげるの少年時代を描いたテレビ・ドラマがあった。NHKで放映された。その『のんのんばあとオレ』のなかで、結核を病んで療養のためにやってきた親戚の少女とオレとの関係が描かれる。その年上の都会育ちの少女から田舎者のオレは軽侮されたり、マンガの才能ゆえに尊敬されたりする。しかし、そうした日々に、ついに終りがやってくる。オレは、死をひかえた少女に読んでもらうためにマンガを必死で描く。描きながら眠り込んでしまう。そして、夢をみる。ふたりは二羽のおおきな白鳥の背にそれぞれ乗せられて、天へと向かう。そのうち少女の白鳥だけが、先になり、オレの白鳥はあとを追おうとしない。なぜだ、と問うと、白鳥はこたえる。「あなたにはお分かりのはずです」。そして、夢からさめる。オレは、少女が亡くなったことをのんのんばあから伝えられる。


紅の豚 [DVD]

紅の豚 [DVD]

  • 出版社/メーカー: ウォルト・ディズニー・ジャパン株式会社
  • メディア: DVD



同じイメージが、宮崎駿の『紅の豚』にも登場する。ポルコがまだ人間だったころ、戦友と一緒に空中戦を戦う。戦友たちの飛行機が上空たかく高度をあげていくなか、自分ひとりだけ取り残される。それら戦友たちは、みな死んでいった。いい奴はみんなポルコを残して死んだ・・・。それを、ポルコはフィオに語って聞かせる。そのとき、フィオがポルコの横顔を見ると、豚のはずのポルコが人間にもどって見えた。

きょうは、日ざしが強く、五月をひかえて紫外線がつよくなるので、注意したいなどと書くつもりが、たいへん暗い話になった。日ざしが強い分だけ、にんげんの影の部分に思いがいたったということなのかもしれない。


(『銀河鉄道の夜』の物語設定のことなど、みんな記憶にしたがって書いているまで。どうぞご注意されたし)。


影の現象学 (講談社学術文庫)

影の現象学 (講談社学術文庫)

  • 作者: 河合 隼雄
  • 出版社/メーカー: 講談社
  • 発売日: 1987/12/10
  • メディア: 文庫



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失言を避ける方法は、たっ「た」の6つ [スピリチュアルな話題]

「今村雅弘前復興相の更迭を巡り、今村氏が所属する自民党二階派の伊吹文明元衆院議長」が、「27日の同派会合で失言を防ぐための注意点として六つの「た」を訴えた。

と、本日の『毎日新聞』p5 に出ている。

それは以下のようなもの。

1 「た」ちば(立場)をわきまえる:有権者に恥をかかせないように

2 「た」だ(正)しいと思うことを言う時

3 「た」にんずう(多人数)がいる時;人によって見方が違うので

4 「た」びさき(旅先)で:旅先・地方でサービス精神から舌をすべらすことがあるので

5 「た」にん(他人)を批判する時

6 「た」とえ話;誤解を招きやすいので

その記事は、つづいて、「この日の自民各派の会合では『緩み』を戒める発言が続出」とある。


記事を読んで思いだしたのは・・・

小学生の頃、転校とともに学級委員長にされた。それは、今から考えると、一種のイジメであったと思うのだが、選任された委員長は、学級運営(?)に熱心に取り組んだ。

ある日の授業中、委員長は、うるさい生徒を叱った。

「先生に、怒られるから静かにしろよ」

とたんに、先生に怒られたのは委員長であった。

「悪いからヤメルのであって、怒られるからヤメルというのはおかしい」。


自民党各派の「緩み」を引き締めることや、6つの「た」の戒めを読むと、どうも小学生の学級委員長の思考レベルを出ていない感がある。失言が「なぜ」ワルイことなのかを深く知ることこそ重要であるように思うのだが、「失言」を招かない方策にのみ思いが走っている。

『六法全書』は年毎に厚みを増していくが、『聖書』の、たっ「た」一つのオキテを・・・

「『あなたは姦淫を犯してはならない。殺人をしてはならない。盗んではならない。貪ってはならない。』そしてほかにどんなおきてがあるにしても、その法典は、この言葉、すなわち、『あなたは隣人を自分自身のように愛さねばならない』に要約されるからです。愛は自分の隣人に対して悪を行ないません。ですから、愛は律法を全うするものなのです。」(ローマ人への手紙13章9,10節)

社会悪の根っこにあるもの
http://bookend.blog.so-net.ne.jp/2007-02-18


旧新約聖書―文語訳

旧新約聖書―文語訳

  • 作者:
  • 出版社/メーカー: 日本聖書協会
  • 発売日: 1996/12
  • メディア: 単行本



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