地球帰還後に燃え尽きた「宇宙飛行士」の告白 [スピリチュアルな話題]
地球帰還後に燃え尽きた「宇宙飛行士」の告白
後悔なく生きるのは宇宙に行くより難しい
https://toyokeizai.net/articles/-/708854
地球帰還後に燃え尽きた「宇宙飛行士」とは誰のこと?と思ったら、野口聡一さんのことだという。東洋経済の記事を読むと、要するに新刊の宣伝である。
記事から思うことは・・・
人間という存在はゴーギャンの苦悩から逃れることはできない。
タヒチに行っても宇宙に行っても、である。
(以下、記事から抜粋)
宇宙は、地上で生活しているだけではわからない、たくさんのことを教えてくれました。
地球と人間は一対一の存在であり、地球は一人ひとりの人間の命の集合体であること。
宇宙空間には、重力も音も命の気配もなく、その中で地球だけが命を感じさせる存在であり、まぶしく輝いていること。
僕たちが普段、「当たり前」「絶対」だと思っていることは、宇宙では決して当たり前でも絶対でもないこと。
しかし一方で、宇宙に行くのはあくまでも「体験」にすぎず、宇宙に行ったからといって聖人君子になれるわけでもなければ、宇宙に何度も行っても見つからないもの、わからないこともあります。
たとえば、「自分は何者なのか」「自分は何のために生きているのか」「自分はどこに向かって歩いていきたいのか」「後悔のない人生を送るためにはどうしたらいいのか」といった問いへの答えは、宇宙へ行っただけではわかりません。
苦しんだ10年間、僕は縁あって大学の「当事者研究」に参加したり、論文や書籍の執筆をしたり、さまざまなことを行いながら、自分と必死で向き合い、過去2回の宇宙体験についても反芻しました。
そんな、もしかしたら「宇宙よりも遠い」といえるかもしれない、自分の心の中への旅を通して、僕にはようやくわかったことがあります。
それは、
「他者の価値観や評価を軸に、『自分はどういう人間なのか』というアイデンティティを築いたり、他者と自分を比べて一喜一憂したり、他者から与えられた目標ばかりを追いかけたりしているうちは、人は本当の意味で幸せにはなれない」
「自分らしい、充足した人生を送るためには、自分としっかり向き合い、自分一人でアイデンティティを築き、どう生きるかの方向性や目標、果たすべきミッションを自分で決めなければならない」
「自分がどう生きれば幸せでいられるか、その答えは自分の中にあり、自分の足の向くほうへ歩いていけばいい」
ということでした。
『我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか』
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%88%91%E3%80%85%E3%81%AF%E3%81%A9%E3%81%93%E3%81%8B%E3%82%89%E6%9D%A5%E3%81%9F%E3%81%AE%E3%81%8B_%E6%88%91%E3%80%85%E3%81%AF%E4%BD%95%E8%80%85%E3%81%8B_%E6%88%91%E3%80%85%E3%81%AF%E3%81%A9%E3%81%93%E3%81%B8%E8%A1%8C%E3%81%8F%E3%81%AE%E3%81%8B
後悔なく生きるのは宇宙に行くより難しい
https://toyokeizai.net/articles/-/708854
地球帰還後に燃え尽きた「宇宙飛行士」とは誰のこと?と思ったら、野口聡一さんのことだという。東洋経済の記事を読むと、要するに新刊の宣伝である。
記事から思うことは・・・
人間という存在はゴーギャンの苦悩から逃れることはできない。
タヒチに行っても宇宙に行っても、である。
どう生きるか つらかったときの話をしよう 自分らしく生きていくために必要な22のこと
- 作者: 野口 聡一
- 出版社/メーカー: アスコム
- 発売日: 2023/09/28
- メディア: 単行本(ソフトカバー)
(以下、記事から抜粋)
宇宙は、地上で生活しているだけではわからない、たくさんのことを教えてくれました。
地球と人間は一対一の存在であり、地球は一人ひとりの人間の命の集合体であること。
宇宙空間には、重力も音も命の気配もなく、その中で地球だけが命を感じさせる存在であり、まぶしく輝いていること。
僕たちが普段、「当たり前」「絶対」だと思っていることは、宇宙では決して当たり前でも絶対でもないこと。
しかし一方で、宇宙に行くのはあくまでも「体験」にすぎず、宇宙に行ったからといって聖人君子になれるわけでもなければ、宇宙に何度も行っても見つからないもの、わからないこともあります。
たとえば、「自分は何者なのか」「自分は何のために生きているのか」「自分はどこに向かって歩いていきたいのか」「後悔のない人生を送るためにはどうしたらいいのか」といった問いへの答えは、宇宙へ行っただけではわかりません。
苦しんだ10年間、僕は縁あって大学の「当事者研究」に参加したり、論文や書籍の執筆をしたり、さまざまなことを行いながら、自分と必死で向き合い、過去2回の宇宙体験についても反芻しました。
そんな、もしかしたら「宇宙よりも遠い」といえるかもしれない、自分の心の中への旅を通して、僕にはようやくわかったことがあります。
それは、
「他者の価値観や評価を軸に、『自分はどういう人間なのか』というアイデンティティを築いたり、他者と自分を比べて一喜一憂したり、他者から与えられた目標ばかりを追いかけたりしているうちは、人は本当の意味で幸せにはなれない」
「自分らしい、充足した人生を送るためには、自分としっかり向き合い、自分一人でアイデンティティを築き、どう生きるかの方向性や目標、果たすべきミッションを自分で決めなければならない」
「自分がどう生きれば幸せでいられるか、その答えは自分の中にあり、自分の足の向くほうへ歩いていけばいい」
ということでした。
『我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか』
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%88%91%E3%80%85%E3%81%AF%E3%81%A9%E3%81%93%E3%81%8B%E3%82%89%E6%9D%A5%E3%81%9F%E3%81%AE%E3%81%8B_%E6%88%91%E3%80%85%E3%81%AF%E4%BD%95%E8%80%85%E3%81%8B_%E6%88%91%E3%80%85%E3%81%AF%E3%81%A9%E3%81%93%E3%81%B8%E8%A1%8C%E3%81%8F%E3%81%AE%E3%81%8B
臨死体験の正体は死ぬ間際の「爆発的な脳活動」だった [スピリチュアルな話題]
「ナゾロジー」というサイトがあることを知ってはいたが、そのユーチューブチャンネルがあることは知らなかった。
https://bookend.blog.ss-blog.jp/2020-10-16
そこで臨死体験についてのミシガン大学での実験が報告されている。家族の了解を得て助かる見込みのない方の生命維持装置をはずして心停止させ、亡くなる間際の(臨死状態にある)脳活動を把握しようとした実験である。
臨死体験の正体は死ぬ間際の「爆発的な脳活動」だった
ナゾロジー 科学動画チャンネル
https://www.youtube.com/watch?v=uCr9QBdGJmY
死にゆく人間の脳では脳波が急増しているという研究結果、「臨死体験」の正体か?
GIGAZINE
https://gigazine.net/news/20230502-brain-activity-dying-people/
https://bookend.blog.ss-blog.jp/2020-10-16
そこで臨死体験についてのミシガン大学での実験が報告されている。家族の了解を得て助かる見込みのない方の生命維持装置をはずして心停止させ、亡くなる間際の(臨死状態にある)脳活動を把握しようとした実験である。
臨死体験の正体は死ぬ間際の「爆発的な脳活動」だった
ナゾロジー 科学動画チャンネル
https://www.youtube.com/watch?v=uCr9QBdGJmY
死にゆく人間の脳では脳波が急増しているという研究結果、「臨死体験」の正体か?
GIGAZINE
https://gigazine.net/news/20230502-brain-activity-dying-people/
徳島県の剣山に「契約の箱」( 失われたアーク《聖櫃》)が [スピリチュアルな話題]
徳島県にある剣山に古代イスラエルから消えた「契約の箱」があるのだと言う。
日本人の祖先が2700年前にアッシリア人に追放されたイスラエルの失われた十支族の一つとする説がある。「日猶(ユダヤ)同祖論」と呼ばれる考えである。
そうした根拠として、伊勢神宮にある「カゴメ紋」が「ユダヤ民族(イスラエル)のシンボル」と言われる「ダビデの星」と同じ形状であることなどが取り上げられてきた。
とはいえ、インディー・ジョーンズで有名な(と書きながら、当方は見ていないのだが)「失われたアーク《聖櫃》」が剣山に隠されてあるという話は初耳で、驚く。
歴史、特に証拠に乏しい時代ほど、いろいろ想像をめぐらすことができてロマンを感じさせる。本当かどうかは別としてである。
剣山に関するお話しは以下の動画で知った。タイトルにある「エリ・コーヘン氏」は「2004年から2007年まで駐日イスラエル大使を務めた」方(ウィキペディア)。
見ていると「日猶(ユダヤ)同祖論」を無下に否定できない気分になってくる。
「エリ・コーヘン氏、同行記録 徳島・剣山史跡巡りツアー」発想の旅、第1部 「剣山を昇る」
https://www.youtube.com/watch?v=Jmg2FFAjyFA
「エリ・コーヘン氏、同行記録 徳島・剣山史跡巡りツアー」発想の旅、第2部「囲み座談会
https://www.youtube.com/watch?v=EdKReRhaRhY
「エリ・コーヘン氏、同行記録 徳島・剣山史跡巡りツアー」発想の旅、第3部「史跡めぐり」
https://www.youtube.com/watch?v=RvhG-FzYW4U
日本人の祖先が2700年前にアッシリア人に追放されたイスラエルの失われた十支族の一つとする説がある。「日猶(ユダヤ)同祖論」と呼ばれる考えである。
そうした根拠として、伊勢神宮にある「カゴメ紋」が「ユダヤ民族(イスラエル)のシンボル」と言われる「ダビデの星」と同じ形状であることなどが取り上げられてきた。
とはいえ、インディー・ジョーンズで有名な(と書きながら、当方は見ていないのだが)「失われたアーク《聖櫃》」が剣山に隠されてあるという話は初耳で、驚く。
歴史、特に証拠に乏しい時代ほど、いろいろ想像をめぐらすことができてロマンを感じさせる。本当かどうかは別としてである。
剣山に関するお話しは以下の動画で知った。タイトルにある「エリ・コーヘン氏」は「2004年から2007年まで駐日イスラエル大使を務めた」方(ウィキペディア)。
見ていると「日猶(ユダヤ)同祖論」を無下に否定できない気分になってくる。
「エリ・コーヘン氏、同行記録 徳島・剣山史跡巡りツアー」発想の旅、第1部 「剣山を昇る」
https://www.youtube.com/watch?v=Jmg2FFAjyFA
「エリ・コーヘン氏、同行記録 徳島・剣山史跡巡りツアー」発想の旅、第2部「囲み座談会
https://www.youtube.com/watch?v=EdKReRhaRhY
「エリ・コーヘン氏、同行記録 徳島・剣山史跡巡りツアー」発想の旅、第3部「史跡めぐり」
https://www.youtube.com/watch?v=RvhG-FzYW4U
インディ・ジョーンズ レイダース 失われたアーク《聖櫃》 [DVD]
- 出版社/メーカー: パラマウント ホーム エンタテインメント ジャパン
- 発売日: 2008/06/06
- メディア: DVD
日本とユダヤの古代史&世界史 - 縄文・神話から続く日本建国の真実 -
- 出版社/メーカー: ワニブックス
- 発売日: 2023/06/09
- メディア: Kindle版
日本超古代文明の謎―「新・日猶(ユダヤ)同祖論」 日本は世界文明発祥の地だった (ラクダブックス)
- 作者: 鈴木 旭
- 出版社/メーカー: 日本文芸社
- 発売日: 2023/08/29
- メディア: ペーパーバック
日本人のイジワル性が証明された⁈ [スピリチュアルな話題]
日本人は「世界一礼儀正しい」が「世界一イジワル」だった...「自分の利益より他人の不幸を優先する度合い」を測る実験で「日本人ダントツ」の衝撃結果がヤバすぎ
https://gendai.media/articles/-/114362?imp=0
週刊現代の記事がmsnなどネット上に拡散している。実験で日本人のイジワル性が証明されたという。記事をみると南カリフォルニア大生より筑波大生の方が5倍イジワルになっている。日本人は総じてイジワルのようだ。その理由を見れば、国民一律同調する傾向の裏返しのようである。
記事にはギリシャ神話やユダヤの伝承からイジワルの起源が示唆されている。人間からイジワルは切っても切れないもののようだ。
自分が損をしても相手に得をさせない。自分の立場が少々危うくなっても相手に優位を与えない。自分も相手も共に良いものを得られるならその方がいいと思うが、抜け駆け、タダ乗りするような者を見かけたなら、ゴキブリのように追い回し叩きのめす。
そこまでは書いていないが、オモシロイ記事だ。読んでいて『イソップ物語』にあったお話を思い出した。船に敵同士が乗っていて、ふたりは舳:船首と艫:船尾に分かれた。船は嵐に遭遇する。カタキのどちらかが言うには、沈むときにはアッチの方が先に沈むので、それが嬉しい。
ひどい要約だがそんな話である。憎き相手には、自分以上に苦しい思いをさせてやりたい。たとえ、自分の身に不利益が及んでもそうなると嬉しい。
とても世界三大宗教の教義に推奨される精神態度ではナイ。フツウの人のフツウの精神状態においてはヨシとされるものではない。第一に良心が機能する。しかし、それでも何事かあるとイジワルが露呈する。個々の良心を押しのける。イジワルが集団化すると度し難くなる。
こうして書いていて、ウクライナとロシアのことが想起された。集団化したイジワルにイジワルが結びついて、そのうち「死なばもろとも」などとならなければいいと思う。
***************
『2人の敵同士』(イソップ物語(寓話))
https://www.libral.jp/968
2人の敵同士が、同じ船に乗り合わせました。彼らはお互いに距離を置きたかったので、1人は船首へと上がって行き、もう1人は船尾へと行きました。お互いに、しばらくその場にいました。
すぐに激しい嵐が吹き荒れ、船が沈没しはじめました。船尾に立っていた男は、舵取り人に、船はどの部分から先に沈むのかを尋ねました。「船首だよ。」と舵取り人は言いました。「そうなればいいんだ。」と男は言いました。「死ぬことなんて怖くないさ。自分の敵が先に死ぬのを見ることができるのならね。」
人々は、互いに大きな敵意を感じると、恐ろしさに苦しむことをあえて選ぶことがあるのです。そうすれば、自分と共に相手も苦しんでいるのを見ることができるからです。
旧・統一「教会」はキリスト教と言えるか? [スピリチュアルな話題]
ここのところずっと旧・統一教会がらみのニュースが世間を騒がせている。「教会」を名乗っているので、キリスト教の一派とされているし、多くの人がそう思っているにちがいない。
ほんとうにキリスト教であれば「キリスト」の「教」えを守っているはずである。そして、イエス・キリストの教えは『聖書』に記されている。
その聖書が、人に死について一貫して教えているのは、人は死ぬと無になる、土に返るという教えだ。統一教会だけでなく、その点ではカトリックもプロテスタントの諸宗派の多くも、聖書の教えと一致しナイことを信者に教えている。
それは、いわゆる「霊魂不滅の教え」である。それゆえにカトリック教会は、煉獄や地獄という死者の行く場所をもちだす。統一教会も、亡くなった家族が、死後の地獄の苦しみから解放されるように、生きている者たちがあれやこれやしなければならないと教える。仏教でいうなら供養が必要であることをを説く。「そうしないと苦しみ続ける。それでいいのか・・」と心理的に追い詰める。あやしげはツボなどを売りつける。
霊魂不滅が聖書の教えでないことは、だいぶ以前に書いたが、『聖書』の教える死んで無になった者たちの希望は、復活である。それは、全能の神が時をさだめて亡くなった者たちを再び(あの世ではなく)地上によみがえらせるという教えだ。無くなった者のすべてを記憶に留めおくことのできる神にのみ可能な業である。
聖書は「霊魂不滅」を否定している。
https://bookend.blog.ss-blog.jp/2006-05-13
聖書は「霊魂不滅」を否定しているーその2-
https://bookend.blog.ss-blog.jp/2006-05-14
聖書は霊魂不滅を否定している-3-
https://bookend.blog.ss-blog.jp/2006-08-09
ほんとうにキリスト教であれば「キリスト」の「教」えを守っているはずである。そして、イエス・キリストの教えは『聖書』に記されている。
その聖書が、人に死について一貫して教えているのは、人は死ぬと無になる、土に返るという教えだ。統一教会だけでなく、その点ではカトリックもプロテスタントの諸宗派の多くも、聖書の教えと一致しナイことを信者に教えている。
それは、いわゆる「霊魂不滅の教え」である。それゆえにカトリック教会は、煉獄や地獄という死者の行く場所をもちだす。統一教会も、亡くなった家族が、死後の地獄の苦しみから解放されるように、生きている者たちがあれやこれやしなければならないと教える。仏教でいうなら供養が必要であることをを説く。「そうしないと苦しみ続ける。それでいいのか・・」と心理的に追い詰める。あやしげはツボなどを売りつける。
霊魂不滅が聖書の教えでないことは、だいぶ以前に書いたが、『聖書』の教える死んで無になった者たちの希望は、復活である。それは、全能の神が時をさだめて亡くなった者たちを再び(あの世ではなく)地上によみがえらせるという教えだ。無くなった者のすべてを記憶に留めおくことのできる神にのみ可能な業である。
聖書は「霊魂不滅」を否定している。
https://bookend.blog.ss-blog.jp/2006-05-13
聖書は「霊魂不滅」を否定しているーその2-
https://bookend.blog.ss-blog.jp/2006-05-14
聖書は霊魂不滅を否定している-3-
https://bookend.blog.ss-blog.jp/2006-08-09
YouTubeで「河合隼雄 - 京大最終講義」と「対談:佐渡裕氏×河合俊雄氏」を見る [スピリチュアルな話題]
YouTubeに、河合隼雄先生の京大最終講義の模様がアップされている。1992年とクレジットされている。30年前だ。黒板に白墨である。
書籍化されたものを読んではいたが、感謝である。
河合隼雄 - 京大最終講義 コンステレーションについて
https://www.youtube.com/watch?v=TcW40V9pzpw&t=4s
その関係で指揮者の佐渡裕と隼雄先生の子息の対談も見た。
対談:佐渡裕氏×河合俊雄氏「こころの子育ての未来」
https://www.youtube.com/watch?v=TJL8g1cvRDY
培風館の『ユング心理学入門』はたぶん5冊は買っている。友人にあげたりした。当時はハードカバーだった。今手元にあるものはペーパーバックである。
書籍化されたものを読んではいたが、感謝である。
河合隼雄 - 京大最終講義 コンステレーションについて
https://www.youtube.com/watch?v=TcW40V9pzpw&t=4s
その関係で指揮者の佐渡裕と隼雄先生の子息の対談も見た。
対談:佐渡裕氏×河合俊雄氏「こころの子育ての未来」
https://www.youtube.com/watch?v=TJL8g1cvRDY
培風館の『ユング心理学入門』はたぶん5冊は買っている。友人にあげたりした。当時はハードカバーだった。今手元にあるものはペーパーバックである。
どうしてみんな「天国」へ [スピリチュアルな話題]
一昨日の更新に伊良部のことを取り上げた。
彼の死後10年目についての記事を読んでのことだ。
その記事タイトルは『天国へ旅立ち10年…伊良部秀輝さんを改めてリスペクトする』である。
どうして、伊良部が「天国」へ旅立ち、天国にいると分かるのだろうと不思議である。
だいたい、その道で際立った才能をもつ人物は「鬼才」などと呼ばれ、いわば「鬼」扱いになる。「野球の鬼」とか「文学の鬼」とか・・である。
そして、鬼がいるのは「地獄」と相場が決まっている。であるのに、死んだ人についてコメントが求められると、みんな「天国」へ旅立つことになり、天国から愛する者たちを見守っていることになる。
むかしは、「故人も、草葉の陰で・・・」などと言ったものである。
・・と、ここまで記して、以前におなじような記事を当該ブログで更新したような気がしてきた。
調べると、4年前に書いている。
「故人も地獄に落ちてさぞ本望でしょう」
https://bookend.blog.ss-blog.jp/2017-03-06
過去記事を覚えているということは、まだボケてはいないようである。
以下URLは、落語「らくだ」の長演である。
三遊亭圓生 らくだ
https://www.youtube.com/watch?v=wlMpd1ipvhs
ふつう後半をカットして演じられることがおおいが、全体を演じている。さすが圓生「落語の鬼」である。1時間超の噺を飽くことなく聞くことができる。
「らくだ」は主人公のあだ名で、長屋の憎まれ者。「らくだ」が死んで発見されるところから話は始まる。その死を皆がよろこぶ。とはいえ、死人がでれば葬儀をだす必要が生じる。この落語は、弔いをめぐる噺である。
死者が、即物的に扱われる。本来であれば、死んだ人は「ほとけ」として宗教的に扱うべきことを皆承知している。しかし、宗教性よりも、葬儀をだすための出費や犠牲のことに思いが向けられ、長屋の住人が右往左往するところが面白い。
それにしても、人の死を笑いにしてしまうとは・・・。
落語の精神は強靭である。
彼の死後10年目についての記事を読んでのことだ。
その記事タイトルは『天国へ旅立ち10年…伊良部秀輝さんを改めてリスペクトする』である。
どうして、伊良部が「天国」へ旅立ち、天国にいると分かるのだろうと不思議である。
だいたい、その道で際立った才能をもつ人物は「鬼才」などと呼ばれ、いわば「鬼」扱いになる。「野球の鬼」とか「文学の鬼」とか・・である。
そして、鬼がいるのは「地獄」と相場が決まっている。であるのに、死んだ人についてコメントが求められると、みんな「天国」へ旅立つことになり、天国から愛する者たちを見守っていることになる。
むかしは、「故人も、草葉の陰で・・・」などと言ったものである。
・・と、ここまで記して、以前におなじような記事を当該ブログで更新したような気がしてきた。
調べると、4年前に書いている。
「故人も地獄に落ちてさぞ本望でしょう」
https://bookend.blog.ss-blog.jp/2017-03-06
過去記事を覚えているということは、まだボケてはいないようである。
以下URLは、落語「らくだ」の長演である。
三遊亭圓生 らくだ
https://www.youtube.com/watch?v=wlMpd1ipvhs
ふつう後半をカットして演じられることがおおいが、全体を演じている。さすが圓生「落語の鬼」である。1時間超の噺を飽くことなく聞くことができる。
「らくだ」は主人公のあだ名で、長屋の憎まれ者。「らくだ」が死んで発見されるところから話は始まる。その死を皆がよろこぶ。とはいえ、死人がでれば葬儀をだす必要が生じる。この落語は、弔いをめぐる噺である。
死者が、即物的に扱われる。本来であれば、死んだ人は「ほとけ」として宗教的に扱うべきことを皆承知している。しかし、宗教性よりも、葬儀をだすための出費や犠牲のことに思いが向けられ、長屋の住人が右往左往するところが面白い。
それにしても、人の死を笑いにしてしまうとは・・・。
落語の精神は強靭である。
孤独について(ガーシュイン:Someone To Watch Over Me から) [スピリチュアルな話題]
昨日、高齢者の孤独についてのニュースをとりあげて記事を更新したが、若い女性の孤独のほうがはるかに深刻なようだ。
「さみしい」コロナで深刻 若年女性の孤独
https://news.livedoor.com/article/detail/20352944/
そもそも、人間は孤独な存在である。多くの愛情に取り囲まれていようとも、突き詰めて考えれば、ひとりで生まれて、ひとりで死んでいかざるを得ない。こればかりは、どうしようもない。
ガーシュインに、Someone To Watch Over Me という曲がある。恋人(配偶者)を慕い求める女性のこころを歌ったように解釈される場合が多いようだが、歌詞にある「Tell me where's the shepherd for this lost lamb...」などを鑑みると、まだ見ることのない実際の恋人を慕うというより、「迷える子羊」を救済してくれる存在に思いを向けているようでもある。聖書的に、「迷える羊」は人間存在であり、「牧者」は神様ということになっている。であれば、この曲は、自分を顧み保護してくれる存在としての神様を慕う曲ということもできる。そもそも、人間という存在に、他者を常時「 Watch Over」することなど不可能である。
Someone To Watch Over Me (1968) Julie Andrews
https://www.youtube.com/watch?v=6vOUyORUHpE
Sarah Vaughan - Someone to Watch Over Me
https://www.youtube.com/watch?v=Z4hQizZDk0c
Ella Fitzgerald Someone to Watch Over Me + lyrics
https://www.youtube.com/watch?v=9n6da8XmT-4
およげ!対訳くん(Someone Who'll Watch Over Me エラ・フィツィジェラルド)
https://oyogetaiyakukun.blogspot.com/2018/02/someone-wholl-watch-over-me-ella.html
自分をいつも「 Watch Over」してくれる神様がいて、その方といつでも相互にコミュニケートできるとしたら、孤独感などなくなるにちがいない。
賢治の『銀河鉄道の夜』にでてくる「セロのような声」。
モーセが聞いた、燃える柴のなかから語りかける「声」。
それを、聴くことができるとすれば・・・。
https://kankyodou.blog.ss-blog.jp/2018-06-07
「さみしい」コロナで深刻 若年女性の孤独
https://news.livedoor.com/article/detail/20352944/
そもそも、人間は孤独な存在である。多くの愛情に取り囲まれていようとも、突き詰めて考えれば、ひとりで生まれて、ひとりで死んでいかざるを得ない。こればかりは、どうしようもない。
ガーシュインに、Someone To Watch Over Me という曲がある。恋人(配偶者)を慕い求める女性のこころを歌ったように解釈される場合が多いようだが、歌詞にある「Tell me where's the shepherd for this lost lamb...」などを鑑みると、まだ見ることのない実際の恋人を慕うというより、「迷える子羊」を救済してくれる存在に思いを向けているようでもある。聖書的に、「迷える羊」は人間存在であり、「牧者」は神様ということになっている。であれば、この曲は、自分を顧み保護してくれる存在としての神様を慕う曲ということもできる。そもそも、人間という存在に、他者を常時「 Watch Over」することなど不可能である。
Someone To Watch Over Me (1968) Julie Andrews
https://www.youtube.com/watch?v=6vOUyORUHpE
Sarah Vaughan - Someone to Watch Over Me
https://www.youtube.com/watch?v=Z4hQizZDk0c
Ella Fitzgerald Someone to Watch Over Me + lyrics
https://www.youtube.com/watch?v=9n6da8XmT-4
およげ!対訳くん(Someone Who'll Watch Over Me エラ・フィツィジェラルド)
https://oyogetaiyakukun.blogspot.com/2018/02/someone-wholl-watch-over-me-ella.html
自分をいつも「 Watch Over」してくれる神様がいて、その方といつでも相互にコミュニケートできるとしたら、孤独感などなくなるにちがいない。
賢治の『銀河鉄道の夜』にでてくる「セロのような声」。
モーセが聞いた、燃える柴のなかから語りかける「声」。
それを、聴くことができるとすれば・・・。
https://kankyodou.blog.ss-blog.jp/2018-06-07
小説家 山本周五郎と聖書 [スピリチュアルな話題]
ここのところずっと『ユーチューブ』で古い日本映画ばかりを見ている。見ては、なにかしら当該ブログに書き留めてきた。
そうしていたら、日本テレビで放映されていた『知ってるつもり?!』がアップされている。そこには、「松竹(映画の)三羽烏」といわれたうちのお二人佐野周二と上原謙の息子たちが出演している。言わずと知れた司会の関口宏とゲストの加山雄三である。おまけに、先ごろ倒れて病院に搬送された中村吉右衛門もゲスト出演している。アタリマエだが、みんな若い。
知ってるつもり?!山本周五郎
https://www.youtube.com/watch?v=Caw6AguT5jw
取り扱われていたのは作家『山本周五郎』である。以前、映画監督 篠田正浩の論考をとりあげたときには、知らなかったことが示されていた。要するに「知ってるつもり」でいただけであるということが分かった。
「日本のドストエフスキー」山本周五郎のこと
https://bookend.blog.ss-blog.jp/2014-08-12
「知らなかったこと」とは、周五郎が、『聖書』をたいへん高く評価していたということだ。そればかりか、「現代の聖書」を書くことを使命としていたようだ。「弱者に対する温かい眼差し、庶民の哀しみ喜びを活き活きと描き、読む者に生きる勇気を与えてくれる小説の数々」は、そうした使命感の現れであったようだ。
番組は、黒澤明が周五郎作品に惚れ込み、『赤ひげ』『どですかでん』など映画化したことから始まる。
周五郎の生い立ちが示される。周囲から結婚を認められない両親のもとで貧しかったこと、物置で生まれたことが示される。父親は自堕落で、3歳のときに一度、母子ともに捨てられたという。実の父親でありながら、自分の「真実の父」親のように見なせなかった様子がうかがえる。
後に周五郎は、聖書を読んで、イエス・キリストが貧しく馬小屋で生まれたこと、イエスの父親ヨセフが養父であって真実の父親でなかったことを知るときに、自分とイエスを重ね合わせていたのではなかろうか。
山本周五郎というペンネームは、丁稚奉公先の質店のご主人の名前であるという。ご主人は小説を書く風流人で、奉公人たちの教育に熱心であったという。その主人から周五郎は観察眼をうえ付けられる。無利子無期限無催促で貧しい人にお金(壱円)を貸し出す主人の姿を見、教えを受ける。周五郎は主人の精神を受け継ぐ。主人のことを「真実の父」親と見なすようになる。
23歳の時に文壇デビューしている。しかし、菊池寛に酷評される。実際のところ、その作品は菊池のいうように「観念的で青くさい文学少年の域を出ていない」ものだったのであろう。大評判となった『日本婦道記』で直木賞の推薦を受け(しかし、辞退し)たのは、それから20年弱経過した40歳の時である。
その間、漁師町(浦安)でありのままに生きる庶民たちとの触れ合いや、後妻となった吉村きんの「下町育ちで明るくあけっぴろげな」性格が山本周五郎の文学的世界を大きく変えたようだ。それは、今日読まれている膨大な作品群につながっていく。
周五郎「晩年」についての番組ナレーションは以下のとおりである。
《満足に食事を口に運べないほど体は衰弱している。だが彼は、何かを求めるように聖書に向かいはじめる。少年時代から慣れ親しんでいた聖書を真っ黒になるまで読みふける周五郎。
昭和41年、最後の力を振り絞るように周五郎はふたたびペンをにぎる。『おごそかな渇き』
周五郎はこの作品にかける思いを(つぎのように)書いている。
貧しいひとたち
汗を流して
その日その日のために
働いている人
そういう人たち
そういう社会を描きながら
人生とは?神とは?
罪とは?
人にはどう対すべきか?
死後は?
苦難に対しては?
など真面目に生きる人の
真面目な問に
自分なりに答え
慰め、励ましに
なるような
小説を書きたい
(朝日新聞 昭和42年2月26日)
人々の救いとなる「現代の聖書」を書く
それは周五郎の遺書でもあった》。
番組を見て、周五郎を、そして『聖書』をいよいよ読みたくなった。
オンライン 日本語聖書
https://wol.jw.org/ja/wol/binav/r7/lp-j
そうしていたら、日本テレビで放映されていた『知ってるつもり?!』がアップされている。そこには、「松竹(映画の)三羽烏」といわれたうちのお二人佐野周二と上原謙の息子たちが出演している。言わずと知れた司会の関口宏とゲストの加山雄三である。おまけに、先ごろ倒れて病院に搬送された中村吉右衛門もゲスト出演している。アタリマエだが、みんな若い。
知ってるつもり?!山本周五郎
https://www.youtube.com/watch?v=Caw6AguT5jw
取り扱われていたのは作家『山本周五郎』である。以前、映画監督 篠田正浩の論考をとりあげたときには、知らなかったことが示されていた。要するに「知ってるつもり」でいただけであるということが分かった。
「日本のドストエフスキー」山本周五郎のこと
https://bookend.blog.ss-blog.jp/2014-08-12
「知らなかったこと」とは、周五郎が、『聖書』をたいへん高く評価していたということだ。そればかりか、「現代の聖書」を書くことを使命としていたようだ。「弱者に対する温かい眼差し、庶民の哀しみ喜びを活き活きと描き、読む者に生きる勇気を与えてくれる小説の数々」は、そうした使命感の現れであったようだ。
番組は、黒澤明が周五郎作品に惚れ込み、『赤ひげ』『どですかでん』など映画化したことから始まる。
周五郎の生い立ちが示される。周囲から結婚を認められない両親のもとで貧しかったこと、物置で生まれたことが示される。父親は自堕落で、3歳のときに一度、母子ともに捨てられたという。実の父親でありながら、自分の「真実の父」親のように見なせなかった様子がうかがえる。
後に周五郎は、聖書を読んで、イエス・キリストが貧しく馬小屋で生まれたこと、イエスの父親ヨセフが養父であって真実の父親でなかったことを知るときに、自分とイエスを重ね合わせていたのではなかろうか。
山本周五郎というペンネームは、丁稚奉公先の質店のご主人の名前であるという。ご主人は小説を書く風流人で、奉公人たちの教育に熱心であったという。その主人から周五郎は観察眼をうえ付けられる。無利子無期限無催促で貧しい人にお金(壱円)を貸し出す主人の姿を見、教えを受ける。周五郎は主人の精神を受け継ぐ。主人のことを「真実の父」親と見なすようになる。
23歳の時に文壇デビューしている。しかし、菊池寛に酷評される。実際のところ、その作品は菊池のいうように「観念的で青くさい文学少年の域を出ていない」ものだったのであろう。大評判となった『日本婦道記』で直木賞の推薦を受け(しかし、辞退し)たのは、それから20年弱経過した40歳の時である。
その間、漁師町(浦安)でありのままに生きる庶民たちとの触れ合いや、後妻となった吉村きんの「下町育ちで明るくあけっぴろげな」性格が山本周五郎の文学的世界を大きく変えたようだ。それは、今日読まれている膨大な作品群につながっていく。
周五郎「晩年」についての番組ナレーションは以下のとおりである。
《満足に食事を口に運べないほど体は衰弱している。だが彼は、何かを求めるように聖書に向かいはじめる。少年時代から慣れ親しんでいた聖書を真っ黒になるまで読みふける周五郎。
昭和41年、最後の力を振り絞るように周五郎はふたたびペンをにぎる。『おごそかな渇き』
周五郎はこの作品にかける思いを(つぎのように)書いている。
貧しいひとたち
汗を流して
その日その日のために
働いている人
そういう人たち
そういう社会を描きながら
人生とは?神とは?
罪とは?
人にはどう対すべきか?
死後は?
苦難に対しては?
など真面目に生きる人の
真面目な問に
自分なりに答え
慰め、励ましに
なるような
小説を書きたい
(朝日新聞 昭和42年2月26日)
人々の救いとなる「現代の聖書」を書く
それは周五郎の遺書でもあった》。
番組を見て、周五郎を、そして『聖書』をいよいよ読みたくなった。
オンライン 日本語聖書
https://wol.jw.org/ja/wol/binav/r7/lp-j
自殺を考えているなら、相談を、ただし、生きるために [スピリチュアルな話題]
続く著名人の自殺、精神科医「安易な推測、連鎖を助長」
https://news.yahoo.co.jp/articles/b4d7df99be5f00cdc83b1c55b0cf960a127a81d3
上の記事を紙の(朝日)新聞で読んだ。紙で読んでも、ネットで読んでも、同じ内容だが、紙の紙面は印象が薄い。新聞1ページのなかでの、その部分の大きさを考えると、それほど大きな扱いではない。ネットで見れば、ディスプレイ画面全体を占めるものが、新聞では紙面のほんの一部分を占めるだけである。いのちの重要さを考慮するなら、紙面全体をつかってもイイほどの内容である。
その記事から、自殺を考えているなら、まずは相談してみることの大切さが分かる。記事中に紹介されているが、そういうボランティア団体がある。よく聴いてもらうと、自分の悩みがカタチをとってくる。漠然とした悩みが、解決すべき問題として立ち現れてくる。そうなれば、どのように立ち向かっていくべきかも分かる。最終的には、自分で対処していかなければならないが、聴いてもらう相手がいるだけでもこころ強いにちがいない。
しかし、残念ながら、そうする前に、自殺を選んで実行してしまう。
今朝の「読売新聞」に、神奈川県座間市で、自殺志願者を次々9人殺した猟奇殺人事件のことが出ていた。殺された人たちは、相談する相手を間違えていたといえる。本来なら、生きるために相談すべきであるのに、死ぬ手助けをしてくれる人物を探して、相談している。9人のひとりひとりのプロフィルも出ていたが、どうしても死ななければならない理由はナイように感じられる。かえって、恵まれすぎていて、暗い方面にあこがれてしまったのかとさえ感じる。
座間9遺体事件
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BA%A7%E9%96%939%E9%81%BA%E4%BD%93%E4%BA%8B%E4%BB%B6
それほど真剣に死を考えていなかったのに、犯人とのSNSのやりとりの中で、死へと誘導されてしまったのだろう。であれば、そのような、怪しげな個人とのやりとりは最初から敬遠(というより遮断)したほうがいいにちがいない。
当方、「いのちの電話」主催の連続(たしか5回)講演会に出たことがある。それに出席して、さらに講習をうけると「いのちの電話」のボランティア相談員になれると聞いた。そこまでの意向はなかったので、講演会に出ただけで終わった。相談員としての責任を果たすには、やはりそれなりの知識や資格が求められて当然に思う。
しかし、世の中には、資格もなく、やさしく寄り添うフリをして、実のところは、性的欲望を満たすことや金銭的見返りを求めるだけのオオカミのような輩がいる。
くれぐれも、相談相手をまちがえないようにする必要がある。
以下、当方未読
https://news.yahoo.co.jp/articles/b4d7df99be5f00cdc83b1c55b0cf960a127a81d3
上の記事を紙の(朝日)新聞で読んだ。紙で読んでも、ネットで読んでも、同じ内容だが、紙の紙面は印象が薄い。新聞1ページのなかでの、その部分の大きさを考えると、それほど大きな扱いではない。ネットで見れば、ディスプレイ画面全体を占めるものが、新聞では紙面のほんの一部分を占めるだけである。いのちの重要さを考慮するなら、紙面全体をつかってもイイほどの内容である。
その記事から、自殺を考えているなら、まずは相談してみることの大切さが分かる。記事中に紹介されているが、そういうボランティア団体がある。よく聴いてもらうと、自分の悩みがカタチをとってくる。漠然とした悩みが、解決すべき問題として立ち現れてくる。そうなれば、どのように立ち向かっていくべきかも分かる。最終的には、自分で対処していかなければならないが、聴いてもらう相手がいるだけでもこころ強いにちがいない。
しかし、残念ながら、そうする前に、自殺を選んで実行してしまう。
今朝の「読売新聞」に、神奈川県座間市で、自殺志願者を次々9人殺した猟奇殺人事件のことが出ていた。殺された人たちは、相談する相手を間違えていたといえる。本来なら、生きるために相談すべきであるのに、死ぬ手助けをしてくれる人物を探して、相談している。9人のひとりひとりのプロフィルも出ていたが、どうしても死ななければならない理由はナイように感じられる。かえって、恵まれすぎていて、暗い方面にあこがれてしまったのかとさえ感じる。
座間9遺体事件
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BA%A7%E9%96%939%E9%81%BA%E4%BD%93%E4%BA%8B%E4%BB%B6
それほど真剣に死を考えていなかったのに、犯人とのSNSのやりとりの中で、死へと誘導されてしまったのだろう。であれば、そのような、怪しげな個人とのやりとりは最初から敬遠(というより遮断)したほうがいいにちがいない。
当方、「いのちの電話」主催の連続(たしか5回)講演会に出たことがある。それに出席して、さらに講習をうけると「いのちの電話」のボランティア相談員になれると聞いた。そこまでの意向はなかったので、講演会に出ただけで終わった。相談員としての責任を果たすには、やはりそれなりの知識や資格が求められて当然に思う。
しかし、世の中には、資格もなく、やさしく寄り添うフリをして、実のところは、性的欲望を満たすことや金銭的見返りを求めるだけのオオカミのような輩がいる。
くれぐれも、相談相手をまちがえないようにする必要がある。
以下、当方未読
竹内結子の死について [スピリチュアルな話題]
今朝、竹内結子・自殺のニュースに驚いた。
ここのところ俳優、それも売れっ子が自殺している。「またかい・・」という思いである。コロナ禍で、仕事量が減ってタイヘンであることは聞いているが、なにも死ななくてもと思う。売れっ子たちは、売れていただけに、売れないことの落差についていけなくなるのだろうか。
もとより売れていない役者なら、「役者なんてむかしは『河原乞食』と言われていた。食えなくて当然」という思いや覚悟があるのだろうけど、芸能界に入った初めから苦労知らずでスター的存在になった人ほど、対応力に欠けているかもしれない。
たとえていえば、苦労なくスターになった人は、豪華クルーザー。苦労人はヨット。ヨットは大波をくらって転覆してもセンターボード+バラストのおかげで復元できるが、クルーザーは転覆すればそれまでである。苦労がすくないとそうした対応力、復元力に欠けるように思う。
もっとも以下の動画では、転覆に強いはずのヨットが転覆し、復元できないまま浸水が進み、乗員が救助を求めた事例が出ている。Reconstructionとあるので、いわゆる「再現ビデオ」と思うが、当時の状況がよく分かる。
Miraculous Survival at Sea
https://www.youtube.com/watch?v=FjbBTvnM1ZM
さっきNHK/FMで「グッチ裕三の日曜ヒルは話半分」を聞いていた。途中から聞いたので、ほんとうに話し半分で、当初ゲストが誰か分からなかった。だれかと思えば小柳ルミ子である。なんでも、このコロナ禍で仕事が無くなり、引退も考えたという。自分は必要とされていないんだと考えて悲観したと話していた。芸歴50年の歌謡スターが、である。
番組終了後、スマホを見たら、明日(28日)『徹子の部屋』にもゲストで呼ばれて、引退を考えた話をするようだ。しばらく前に、小柳が引退を考えているようなハナシをネット上で読んだように思う。相次いで、ふたつの番組にひっぱり出されたのは、そのハナシを番組関係者が聞き及んでのことだろうか。
自分は必要とされていると“感じている”ことは大切だ。子どもに対する接し方で、褒めることは望ましく、叱ることも相手への関心の表れで望ましく、無視するのが最悪の対応であるように聞く。これは子供にかぎらず、大人でも同様だろう。
社会的に無視されているように“感じて”しまうことは、悲劇につながりかねない。小柳は、サザンの桑田が褒めてくれているのを雑誌で読んで、号泣したと話していた。それまで、よっぽどツライ気持ちでいたであろうことが分かるはなしだ。
自分は必要とされていると“感じ”られるように、お互いに接したいものだ。
その点、竹内結子の場合、愛する家族があり、子どもがいて、仕事もそこそこあって、死に急ぐ理由などないように思うが、もしかすると、売れに売れまくっているときのチヤホヤ感が自分の存在を証拠づけるもので、ソレがナイということは、存在していないも同然と“感じて”しまったのカモしれない。そして、存在しないも同然の人間は実際に存在しなくてもイイと、行動に移ってしまったのだろうか。
統合失調症(分裂病)の症状に、離人症というのがある。ふつうの人でもある程度の現実喪失感は時に経験するものだが、実世界の現実感が如実に失われる。そこにアルものがアルものとして感じられなくなる。世界がガラス板をとおして見たようになる。自分自身もそうした対象になる。意味を喪失する。そうした感覚は、世界との別れにつながる可能性がある。人知れず、そうした悩みをもっていたのカモしれない。
しかし、それにしても、なんとも痛ましいことである。残されたご家族がたいへん気の毒である。
ここのところ俳優、それも売れっ子が自殺している。「またかい・・」という思いである。コロナ禍で、仕事量が減ってタイヘンであることは聞いているが、なにも死ななくてもと思う。売れっ子たちは、売れていただけに、売れないことの落差についていけなくなるのだろうか。
もとより売れていない役者なら、「役者なんてむかしは『河原乞食』と言われていた。食えなくて当然」という思いや覚悟があるのだろうけど、芸能界に入った初めから苦労知らずでスター的存在になった人ほど、対応力に欠けているかもしれない。
たとえていえば、苦労なくスターになった人は、豪華クルーザー。苦労人はヨット。ヨットは大波をくらって転覆してもセンターボード+バラストのおかげで復元できるが、クルーザーは転覆すればそれまでである。苦労がすくないとそうした対応力、復元力に欠けるように思う。
もっとも以下の動画では、転覆に強いはずのヨットが転覆し、復元できないまま浸水が進み、乗員が救助を求めた事例が出ている。Reconstructionとあるので、いわゆる「再現ビデオ」と思うが、当時の状況がよく分かる。
Miraculous Survival at Sea
https://www.youtube.com/watch?v=FjbBTvnM1ZM
さっきNHK/FMで「グッチ裕三の日曜ヒルは話半分」を聞いていた。途中から聞いたので、ほんとうに話し半分で、当初ゲストが誰か分からなかった。だれかと思えば小柳ルミ子である。なんでも、このコロナ禍で仕事が無くなり、引退も考えたという。自分は必要とされていないんだと考えて悲観したと話していた。芸歴50年の歌謡スターが、である。
番組終了後、スマホを見たら、明日(28日)『徹子の部屋』にもゲストで呼ばれて、引退を考えた話をするようだ。しばらく前に、小柳が引退を考えているようなハナシをネット上で読んだように思う。相次いで、ふたつの番組にひっぱり出されたのは、そのハナシを番組関係者が聞き及んでのことだろうか。
自分は必要とされていると“感じている”ことは大切だ。子どもに対する接し方で、褒めることは望ましく、叱ることも相手への関心の表れで望ましく、無視するのが最悪の対応であるように聞く。これは子供にかぎらず、大人でも同様だろう。
社会的に無視されているように“感じて”しまうことは、悲劇につながりかねない。小柳は、サザンの桑田が褒めてくれているのを雑誌で読んで、号泣したと話していた。それまで、よっぽどツライ気持ちでいたであろうことが分かるはなしだ。
自分は必要とされていると“感じ”られるように、お互いに接したいものだ。
その点、竹内結子の場合、愛する家族があり、子どもがいて、仕事もそこそこあって、死に急ぐ理由などないように思うが、もしかすると、売れに売れまくっているときのチヤホヤ感が自分の存在を証拠づけるもので、ソレがナイということは、存在していないも同然と“感じて”しまったのカモしれない。そして、存在しないも同然の人間は実際に存在しなくてもイイと、行動に移ってしまったのだろうか。
統合失調症(分裂病)の症状に、離人症というのがある。ふつうの人でもある程度の現実喪失感は時に経験するものだが、実世界の現実感が如実に失われる。そこにアルものがアルものとして感じられなくなる。世界がガラス板をとおして見たようになる。自分自身もそうした対象になる。意味を喪失する。そうした感覚は、世界との別れにつながる可能性がある。人知れず、そうした悩みをもっていたのカモしれない。
しかし、それにしても、なんとも痛ましいことである。残されたご家族がたいへん気の毒である。
ムハンマド風刺画を「再・掲載」、再・襲撃情報も・・ [スピリチュアルな話題]
フランスの週刊紙「シャルリーエブド」を覚えておられるだろうか。預言者ムハンマドを風刺したために、イスラム過激派にその編集部が襲撃され、12人が殺害された。
その事件から5年が経つが、再びムハンマドの風刺画を掲載し、「シャルリーエブド」は売れに売れているという。そして、十分考えられることだが過激派による 再・襲撃の情報もあるという。
日本でも、「悪魔の詩 訳者殺人事件」というのがあった。1991年「ムスリム社会では冒涜的であると受けとられ、激しい反発を招いた」『悪魔の詩』の翻訳者:筑波大学助教授の五十嵐一氏が筑波大学のキャンパス内で殺されている。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%82%AA%E9%AD%94%E3%81%AE%E8%A9%A9%E8%A8%B3%E8%80%85%E6%AE%BA%E4%BA%BA%E4%BA%8B%E4%BB%B6
出版されたことで殺人に発展した事件として、(当方の知るところでは)ほかに嶋中事件というのがある。深沢七郎の小説「風流夢譚」が皇室に対して不敬であるとして、出版社社長宅が襲撃され家政婦が殺害されている。こちらも、ある意味、宗教がらみと言ってイイだろう。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B6%8B%E4%B8%AD%E4%BA%8B%E4%BB%B6
「言論の自由」「表現の自由」というものがある。しかし、それが他者のこころを傷つけることもある。その辺の絡みはむずかしい。その点、フランスはある意味、先進国と言っていいだろう。
本日(9/21)の「朝日新聞」に、パリ支局長:疋田多揚氏のレポートが出ていた。
興味深いので以下に引用してみる。
****以下、全文引用****
冒涜さえ自由
フランスの礎
フランスの週刊紙「シャルリーエブド」が今月、イスラム教の預言者ムハンマドの風刺画を再掲載した。2015年1月にパリの同社編集部がイスラム過激派に襲撃され12人が殺害された事件のきっかけとなった作品だ。イスラム教徒の反発をよそに多くのフランス人は掲載を当然と受け止めている。
同紙は普段の3倍にあたる20万部を2日に発行。朝から売り切れる店が続出し、さらに20万部増刷した。紙面に掲載された世論調査によれば、59%の市民が表現の自由を理由にムハンマドの風刺画掲載を支持すると答えた。
マクロン大統領は4日、「フランス人であることは、風刺する自由を擁護することだ。冒涜の自由も保障されている」と同紙を擁護した。
パキスタンでは風刺画掲載への抗議デモが起き、エジプトのスンニ派最高権威機関アズハルは「共存を妨げるものだ」と非難した。イスラム過激派が再び同紙編集部を襲うとの情報もある。
フランスで宗教への冒涜が罪でなくなったのは1791年。フランス革命の2年後にあたる。教会が絶対王制への権威を支え、宗教は権力そのものだった。だから民衆の破壊行為は教会にも向かった。
風刺画は当時からあった。ルイ16世を豚に見立てた作品が描かれ、聖職者も格好の題材になった。民衆にとっての真実を提示する、一種の抵抗手段だった。
その後もカトリックとの闘争を経て、ようやく1905年に政教分離法を制定するに至る。二度と政治権力が脅かされない、宗教の影響を徹底排除するための工夫だった。国家は個人の内面に踏み込まず、いかなる宗教的価値も代表しないとされる。いまのフランスの骨格をなす仕組みだ。
*****引用ここまで*****
つづく部分に 東大、宗教社会学准教授が次のタイトルで記している。併せて引用する。
傷つく人 置き去りでいいのか
東京大の伊達聖伸准教授(宗教社会学)は「表現の自由を行使して宗教と国家を切り離してきた歴史性ゆえに、政教分離は冒涜の自由と深く結びつけれられている」と指摘する。
政教分離は20世紀になって、イスラム教徒を社会にどう統合するかという文脈で使われるようになる。公共の場所である学校でスカーフを着用していいのか、顔以外を全て覆う女性用水着「ブルキニ」を海岸で認めるべきか。禁止論者の論拠となったのが政教分離だ。
ただ、シャルリー紙が取り上げるのはイスラム教だけではない。昨年末んは、クリスマスを前にストライキでマヒする国鉄を揶揄しようと、素っ裸で駅に立ち尽くす子どものキリストを掲載。日産自動車前会長のカルロス・ゴーン被告がレバノンに逃亡した際は、トランクに押し込まれたさまを滑稽に描いた。
自由に批判できる市民の共和国、という理念は、こうして今日に引き継がれている。
しかし、その理念を理由に傷つきうる人の存在を忘れていいのかという問題は残る。異なる歴史と文化を持つ人々が共存する中で、表現の自由がどこまで普遍的なのかを改めて問いかけている。
****引用、ここまで****
「ライシテ」を理解しないとフランス人を理解したことにはならないように思っている。「ウィキペディア」に、その説明がある。当方いまだ不分明である。歴史もふくめてよくよく勉強しないと、芯から分からないように思う。
ライシテ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%82%B7%E3%83%86#%E3%83%A0%E3%83%8F%E3%83%B3%E3%83%9E%E3%83%89%E3%81%AE%E9%A2%A8%E5%88%BA%E7%94%BB
創刊90年、語学雑誌として最も古い 「ふらんす」
https://bookend.blog.ss-blog.jp/2015-04-21
・・と、書いて、最後に東大准教授の著書を紹介しようと、著者名でAmazon・検索したら、驚いたことに、以下の「ライシテ」関連本を著していることが分かった。准教授は「ライシテ」を専門とされているのであろう。これは、読んで学びなさいということにちがいない。
その事件から5年が経つが、再びムハンマドの風刺画を掲載し、「シャルリーエブド」は売れに売れているという。そして、十分考えられることだが過激派による 再・襲撃の情報もあるという。
日本でも、「悪魔の詩 訳者殺人事件」というのがあった。1991年「ムスリム社会では冒涜的であると受けとられ、激しい反発を招いた」『悪魔の詩』の翻訳者:筑波大学助教授の五十嵐一氏が筑波大学のキャンパス内で殺されている。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%82%AA%E9%AD%94%E3%81%AE%E8%A9%A9%E8%A8%B3%E8%80%85%E6%AE%BA%E4%BA%BA%E4%BA%8B%E4%BB%B6
出版されたことで殺人に発展した事件として、(当方の知るところでは)ほかに嶋中事件というのがある。深沢七郎の小説「風流夢譚」が皇室に対して不敬であるとして、出版社社長宅が襲撃され家政婦が殺害されている。こちらも、ある意味、宗教がらみと言ってイイだろう。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B6%8B%E4%B8%AD%E4%BA%8B%E4%BB%B6
「言論の自由」「表現の自由」というものがある。しかし、それが他者のこころを傷つけることもある。その辺の絡みはむずかしい。その点、フランスはある意味、先進国と言っていいだろう。
本日(9/21)の「朝日新聞」に、パリ支局長:疋田多揚氏のレポートが出ていた。
興味深いので以下に引用してみる。
****以下、全文引用****
冒涜さえ自由
フランスの礎
フランスの週刊紙「シャルリーエブド」が今月、イスラム教の預言者ムハンマドの風刺画を再掲載した。2015年1月にパリの同社編集部がイスラム過激派に襲撃され12人が殺害された事件のきっかけとなった作品だ。イスラム教徒の反発をよそに多くのフランス人は掲載を当然と受け止めている。
同紙は普段の3倍にあたる20万部を2日に発行。朝から売り切れる店が続出し、さらに20万部増刷した。紙面に掲載された世論調査によれば、59%の市民が表現の自由を理由にムハンマドの風刺画掲載を支持すると答えた。
マクロン大統領は4日、「フランス人であることは、風刺する自由を擁護することだ。冒涜の自由も保障されている」と同紙を擁護した。
パキスタンでは風刺画掲載への抗議デモが起き、エジプトのスンニ派最高権威機関アズハルは「共存を妨げるものだ」と非難した。イスラム過激派が再び同紙編集部を襲うとの情報もある。
フランスで宗教への冒涜が罪でなくなったのは1791年。フランス革命の2年後にあたる。教会が絶対王制への権威を支え、宗教は権力そのものだった。だから民衆の破壊行為は教会にも向かった。
風刺画は当時からあった。ルイ16世を豚に見立てた作品が描かれ、聖職者も格好の題材になった。民衆にとっての真実を提示する、一種の抵抗手段だった。
その後もカトリックとの闘争を経て、ようやく1905年に政教分離法を制定するに至る。二度と政治権力が脅かされない、宗教の影響を徹底排除するための工夫だった。国家は個人の内面に踏み込まず、いかなる宗教的価値も代表しないとされる。いまのフランスの骨格をなす仕組みだ。
*****引用ここまで*****
つづく部分に 東大、宗教社会学准教授が次のタイトルで記している。併せて引用する。
傷つく人 置き去りでいいのか
東京大の伊達聖伸准教授(宗教社会学)は「表現の自由を行使して宗教と国家を切り離してきた歴史性ゆえに、政教分離は冒涜の自由と深く結びつけれられている」と指摘する。
政教分離は20世紀になって、イスラム教徒を社会にどう統合するかという文脈で使われるようになる。公共の場所である学校でスカーフを着用していいのか、顔以外を全て覆う女性用水着「ブルキニ」を海岸で認めるべきか。禁止論者の論拠となったのが政教分離だ。
ただ、シャルリー紙が取り上げるのはイスラム教だけではない。昨年末んは、クリスマスを前にストライキでマヒする国鉄を揶揄しようと、素っ裸で駅に立ち尽くす子どものキリストを掲載。日産自動車前会長のカルロス・ゴーン被告がレバノンに逃亡した際は、トランクに押し込まれたさまを滑稽に描いた。
自由に批判できる市民の共和国、という理念は、こうして今日に引き継がれている。
しかし、その理念を理由に傷つきうる人の存在を忘れていいのかという問題は残る。異なる歴史と文化を持つ人々が共存する中で、表現の自由がどこまで普遍的なのかを改めて問いかけている。
****引用、ここまで****
「ライシテ」を理解しないとフランス人を理解したことにはならないように思っている。「ウィキペディア」に、その説明がある。当方いまだ不分明である。歴史もふくめてよくよく勉強しないと、芯から分からないように思う。
ライシテ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%82%B7%E3%83%86#%E3%83%A0%E3%83%8F%E3%83%B3%E3%83%9E%E3%83%89%E3%81%AE%E9%A2%A8%E5%88%BA%E7%94%BB
創刊90年、語学雑誌として最も古い 「ふらんす」
https://bookend.blog.ss-blog.jp/2015-04-21
・・と、書いて、最後に東大准教授の著書を紹介しようと、著者名でAmazon・検索したら、驚いたことに、以下の「ライシテ」関連本を著していることが分かった。准教授は「ライシテ」を専門とされているのであろう。これは、読んで学びなさいということにちがいない。
ライシテから読む現代フランス――政治と宗教のいま (岩波新書)
- 作者: 伊達 聖伸
- 出版社/メーカー: 岩波書店
- 発売日: 2018/03/21
- メディア: 新書
フランスにおける脱宗教性(ライシテ)の歴史 (文庫クセジュ)
- 出版社/メーカー: 白水社
- 発売日: 2009/05/01
- メディア: 単行本
残暑ー彼岸ー漱石ー生と死の境ー老成 [スピリチュアルな話題]
きょうは日差しが出てめっぽう暑い。勘弁してくださいという感じだ。
とはいえ、風がすこし秋めいてきた。暦のうえでは秋なのだから当然と言えば当然だが、この残暑の厳しさを思うと、「暑さ寒さも彼岸まで」は、ことし通用するだろうかなど考えてしまう。
「彼岸過迄(彼岸過ぎまで)」という漱石の小説がある。タイトルは、それくらいまでには書き終えることができるだろうという思いから、つけたという。
むかし、そう聞いた時には、いい加減な付け方をするものだと思った。
漱石先生も案外お気楽なものだなと軽く考えていたが、そこに自身の死も念頭にあったと考えると、当方のほうが軽かったと言わざるをえない。漱石の思いには、それまでに書き終えられるだろうかという思いと同時に、それまで生きていられるだろうかという思いも深いところで揺曳していたにちがいない。
ウィキペディアを見ると、その作品背景として次のように記されてある。
漱石は1910年の夏に病を悪化させ、危篤状態になった(修善寺の大患)。この1年半ののちに「彼岸過迄」の連載が始まったのだが、漱石は連載開始に当たり、初日(1月1日)に、「彼岸過迄に就て」という題の序文を発表している。これによれば、長く休んだために面白いものを書かなくてはいけないと感じているとしている。また、「彼岸過迄」という題名は、元日から始めて彼岸過ぎまで書くつもりだったので名づけたことがわかる。// 漱石は修善寺の大患のほかにも、発表前年の11月に、生後2年の五女ひな子が死亡している。また、江藤淳は漱石がこの時期に文壇で孤立化していたと指摘している[1]。
そして、連載が開始(1912年1/1)されてから5年後、1916年暮れに49歳で亡くなっている。
上記引用に「修善寺の大患」とある。漱石の人生を語るときについて回る言葉だ。ベートーヴェンの「ハイリゲンシュタットの遺書」のようなものだ。
修善寺温泉で吐血して生死のふちをさ迷った。その大患後の作品であれば、漱石の思いに、いのちの秋風が吹いていても不思議ではない。
「彼岸過迄」「行人」「こころ」「道草」「明暗」と代表作がつづくが、どんどん暗くなる。思索がふかくなる。「坊ちゃん」を書いた人とは思えないところに行く。
死は避けて通れないものだけに、それを真向に見つめると、人生への思索は深まるのだろう。
50歳など今では元気いっぱい働きざかりである。「老成」という言葉は似あわない。しかし、漱石は「いつも重厚、鈍重」な印象を漱石門下の面々に与えるたいへん深い人であったようだ。
「夏目先生の印象記」津田青楓
https://kankyodou.blog.ss-blog.jp/2013-03-17
むかしの人は、はやく老成した。「人生50年」と言われていたころ(日本人の平均寿命は1947年に初めて50歳を超えた)は、はやく老成せざるを得なかったのだろう。
明治の50歳は、令和の90歳に相当するかもしれない。
3;HATABI:子どもの日
https://bookend.blog.ss-blog.jp/2012-05-06
「彼岸過ぎまで」 / 死ぬのは気持ちいい?
https://bookend.blog.ss-blog.jp/2017-03-19
とはいえ、風がすこし秋めいてきた。暦のうえでは秋なのだから当然と言えば当然だが、この残暑の厳しさを思うと、「暑さ寒さも彼岸まで」は、ことし通用するだろうかなど考えてしまう。
「彼岸過迄(彼岸過ぎまで)」という漱石の小説がある。タイトルは、それくらいまでには書き終えることができるだろうという思いから、つけたという。
むかし、そう聞いた時には、いい加減な付け方をするものだと思った。
漱石先生も案外お気楽なものだなと軽く考えていたが、そこに自身の死も念頭にあったと考えると、当方のほうが軽かったと言わざるをえない。漱石の思いには、それまでに書き終えられるだろうかという思いと同時に、それまで生きていられるだろうかという思いも深いところで揺曳していたにちがいない。
ウィキペディアを見ると、その作品背景として次のように記されてある。
漱石は1910年の夏に病を悪化させ、危篤状態になった(修善寺の大患)。この1年半ののちに「彼岸過迄」の連載が始まったのだが、漱石は連載開始に当たり、初日(1月1日)に、「彼岸過迄に就て」という題の序文を発表している。これによれば、長く休んだために面白いものを書かなくてはいけないと感じているとしている。また、「彼岸過迄」という題名は、元日から始めて彼岸過ぎまで書くつもりだったので名づけたことがわかる。// 漱石は修善寺の大患のほかにも、発表前年の11月に、生後2年の五女ひな子が死亡している。また、江藤淳は漱石がこの時期に文壇で孤立化していたと指摘している[1]。
そして、連載が開始(1912年1/1)されてから5年後、1916年暮れに49歳で亡くなっている。
上記引用に「修善寺の大患」とある。漱石の人生を語るときについて回る言葉だ。ベートーヴェンの「ハイリゲンシュタットの遺書」のようなものだ。
修善寺温泉で吐血して生死のふちをさ迷った。その大患後の作品であれば、漱石の思いに、いのちの秋風が吹いていても不思議ではない。
「彼岸過迄」「行人」「こころ」「道草」「明暗」と代表作がつづくが、どんどん暗くなる。思索がふかくなる。「坊ちゃん」を書いた人とは思えないところに行く。
死は避けて通れないものだけに、それを真向に見つめると、人生への思索は深まるのだろう。
50歳など今では元気いっぱい働きざかりである。「老成」という言葉は似あわない。しかし、漱石は「いつも重厚、鈍重」な印象を漱石門下の面々に与えるたいへん深い人であったようだ。
「夏目先生の印象記」津田青楓
https://kankyodou.blog.ss-blog.jp/2013-03-17
むかしの人は、はやく老成した。「人生50年」と言われていたころ(日本人の平均寿命は1947年に初めて50歳を超えた)は、はやく老成せざるを得なかったのだろう。
明治の50歳は、令和の90歳に相当するかもしれない。
3;HATABI:子どもの日
https://bookend.blog.ss-blog.jp/2012-05-06
「彼岸過ぎまで」 / 死ぬのは気持ちいい?
https://bookend.blog.ss-blog.jp/2017-03-19
黒人は人間? ローマ法王の回答 [スピリチュアルな話題]
アメリカの人種差別デモが勢いを増している。
昨日更新したニューヨーク在住の医師加藤友朗氏が言うように、そこに居なければそのヒドサが分からないものがある。分からなければ、そこにいる人と同様な見方をもったり同情したりすることはできない。できる人は、並々ならぬすばらしい想像力の持ち主ということになるだろう。しかし、それで本当に分かるなら、報道関係の特派員や現地リポーターは不要となるにちがいない。
日本人で、留学などで海外に出た人は、一様に愛国者になって帰ってくるような話も聞く。日本にいては受けることのなかった差別を実際に受け、実際の差別を目の当たりにし、いやおうなく日本人であることを自覚させられ、日本に帰ってくるという話だ。
激しい感情が渦巻いているようすはニュース映像を見れば分かる。が、やはり現地で問題の渦中にある当事者や関係者のほんとうの気持ちを理解するのは、なかなか難しいにちがいない。
人種差別の問題は根っこが深い。
最近読んで興味ふかく思った話がある。もちろん、黒人差別に関する話だ。たしか、苫米地英人氏の本だと思う。氏はカトリック系の上智大学出身なので、その辺の事情・情報に通じていて、書いたにちがいない。書籍タイトルとページ数を、いま提示できないのが残念なのだが、そこには、驚くべきことが記されてあった。
それは、黒人を人間とみなすべきかどうかについて、アフリカに派遣された宣教師が、ローマ法王にお伺いを立てたところ、その回答が、人間として扱う必要はナイという結論だった"という”話だ。(記憶に拠って書いているので「という」と書いておく)。
ネット上にも、同様の内容がでているかと調べたら、「ヤフー知恵袋」に出ていた。ただし、その回答者は、どの会議でいつ宣言されたのかを明確にしていない。
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1031567330
また、次の質問への回答をみていくと、当方が読んだ苫米地氏の本に見た内容を裏付けるものに思える。(どちらの質問も、ベスト解答者は同一人物のようである)
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1412478959
これまで当該ブログで「ノアの洪水」、「ノアの箱舟」について書いてきた。聖書の記述にある出来事(つまり「ノアの洪水」)を事実であるとすれば、現在地球上にいる人間は皆、ノアの子どもたち、セム、ハム、ヤペテの子孫ということになる。その子孫のなかから、人種的なちがいが生まれてきたことになる。であれば、人種、肌の色、言語は違えど、人類はみな共通の祖先をもつ兄弟のハズなのだ。
そのハズなのだが、実際のところ「人類は兄弟」というのは美しい願望であり標語になってしまっている。それでも、世界をよくよく見ていくと、国籍、人種、肌の色は違っていても、文字通り兄弟のように暮らしている人たちもいる。口先だけでなく、聖書福音書にあるキリストの教えに従っている人たちだ。ちなみに、福音書には次のようなイエス自身の言葉がある。命令といってよい。
あなたたちは,ラビ(先生)と呼ばれてはなりません。あなたたちの先生はただひとりであり,あなたたちは皆,兄弟だからです。また,地上の誰をも父と呼んではなりません。あなたたちの父はただひとり,天にいる方だからです。 また,指導者と呼ばれてもなりません。あなたたちの指導者はキリストひとりだからです。あなたたちの間で一番偉い人は奉仕者でなければなりません。マタイ23:8~11
https://wol.jw.org/ja/wol/b/r7/lp-j/nwtsty/40/23#study=discover
このイエスの言葉に則して言えば、ローマ法王を「父:ポープ」と呼んで最高の権威を与え(「ローマ法王・教皇」は英語でthe Pope、その語源はギリシャ語で「父」)、その人間的(で、聖書に基づかない)見解に従ったことが、黒人差別の(はじめとは言わないまでも)問題を大きくした要因になったと言っていいように思う。
歴史的に見るなら、黒人問題についてのカトリック教会の責任はたいへん大きいと言える。
昨日更新したニューヨーク在住の医師加藤友朗氏が言うように、そこに居なければそのヒドサが分からないものがある。分からなければ、そこにいる人と同様な見方をもったり同情したりすることはできない。できる人は、並々ならぬすばらしい想像力の持ち主ということになるだろう。しかし、それで本当に分かるなら、報道関係の特派員や現地リポーターは不要となるにちがいない。
日本人で、留学などで海外に出た人は、一様に愛国者になって帰ってくるような話も聞く。日本にいては受けることのなかった差別を実際に受け、実際の差別を目の当たりにし、いやおうなく日本人であることを自覚させられ、日本に帰ってくるという話だ。
激しい感情が渦巻いているようすはニュース映像を見れば分かる。が、やはり現地で問題の渦中にある当事者や関係者のほんとうの気持ちを理解するのは、なかなか難しいにちがいない。
人種差別の問題は根っこが深い。
最近読んで興味ふかく思った話がある。もちろん、黒人差別に関する話だ。たしか、苫米地英人氏の本だと思う。氏はカトリック系の上智大学出身なので、その辺の事情・情報に通じていて、書いたにちがいない。書籍タイトルとページ数を、いま提示できないのが残念なのだが、そこには、驚くべきことが記されてあった。
それは、黒人を人間とみなすべきかどうかについて、アフリカに派遣された宣教師が、ローマ法王にお伺いを立てたところ、その回答が、人間として扱う必要はナイという結論だった"という”話だ。(記憶に拠って書いているので「という」と書いておく)。
ネット上にも、同様の内容がでているかと調べたら、「ヤフー知恵袋」に出ていた。ただし、その回答者は、どの会議でいつ宣言されたのかを明確にしていない。
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1031567330
また、次の質問への回答をみていくと、当方が読んだ苫米地氏の本に見た内容を裏付けるものに思える。(どちらの質問も、ベスト解答者は同一人物のようである)
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1412478959
これまで当該ブログで「ノアの洪水」、「ノアの箱舟」について書いてきた。聖書の記述にある出来事(つまり「ノアの洪水」)を事実であるとすれば、現在地球上にいる人間は皆、ノアの子どもたち、セム、ハム、ヤペテの子孫ということになる。その子孫のなかから、人種的なちがいが生まれてきたことになる。であれば、人種、肌の色、言語は違えど、人類はみな共通の祖先をもつ兄弟のハズなのだ。
そのハズなのだが、実際のところ「人類は兄弟」というのは美しい願望であり標語になってしまっている。それでも、世界をよくよく見ていくと、国籍、人種、肌の色は違っていても、文字通り兄弟のように暮らしている人たちもいる。口先だけでなく、聖書福音書にあるキリストの教えに従っている人たちだ。ちなみに、福音書には次のようなイエス自身の言葉がある。命令といってよい。
あなたたちは,ラビ(先生)と呼ばれてはなりません。あなたたちの先生はただひとりであり,あなたたちは皆,兄弟だからです。また,地上の誰をも父と呼んではなりません。あなたたちの父はただひとり,天にいる方だからです。 また,指導者と呼ばれてもなりません。あなたたちの指導者はキリストひとりだからです。あなたたちの間で一番偉い人は奉仕者でなければなりません。マタイ23:8~11
https://wol.jw.org/ja/wol/b/r7/lp-j/nwtsty/40/23#study=discover
このイエスの言葉に則して言えば、ローマ法王を「父:ポープ」と呼んで最高の権威を与え(「ローマ法王・教皇」は英語でthe Pope、その語源はギリシャ語で「父」)、その人間的(で、聖書に基づかない)見解に従ったことが、黒人差別の(はじめとは言わないまでも)問題を大きくした要因になったと言っていいように思う。
歴史的に見るなら、黒人問題についてのカトリック教会の責任はたいへん大きいと言える。
ヘレン・ケラーとスウェデンボルグ [スピリチュアルな話題]
昨日の更新時、TVドラマ『奇跡の人』(アン・バンクロフト主演)のURLを示すのに、ユーチューブを見た。すると、ヘレン・ケラーの著作にもとづく、かなりしっかりした(つまり正確な、信用していい)ドキュメンタリー番組がアップされていた。それを、見始め、ついつい、全部を見てしまった。予想外のことがあって、惹きつけられてしまったのだ。
ヘレン・ケラー 輝ける魂
https://www.youtube.com/watch?v=HGoYZ4oOmYU
ヘレン・ケラーといえば大きな身体的な障害を克服した偉人というイメージが強くある。それで、もうお腹いっぱい十分な気分になって、あえて伝記など読まずにきた。だが、そのドキュメンタリーで紹介されている、障害を克服していく過程において、その動機付けとなったモノが興味深かった。予想外だった。
それは、スウェデンボルグの影響だ。
スウェデンボルグを「霊能者」と簡単にくくってしまうと、語弊があるかもしれない。が、そう言っていいように思う。日本でいえば、出口王仁三郎みたいなものではないかと思う。イマジネーション能力が強大で、事実でないこと存在しないものまで見(え)てしまうと言ったらいいだろうか。
エマヌエル・スヴェーデンボリ(ウィキペディア)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%9E%E3%83%8C%E3%82%A8%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%82%B9%E3%83%B4%E3%82%A7%E3%83%BC%E3%83%87%E3%83%B3%E3%83%9C%E3%83%AA
世の中には、自分のイメージした、そのイメージに取り込まれて、あたかも行って見てきたかのように、まるで事実であるかのように、物語ることのできる人間がいるのだ。それを聞き、読む人間にも、「ウソだろう?」と思わせないくらいに、迫真性をもって語ることのできる人間がいるのである。語るイメージのなかに、人々を取り込んでしまうことのできる人間がいるのだ。簡単に言えば、「幻(覚)」を見せることのできる人といっていい。そうした見てきたもの、見せるものの中には、天国や地獄も入る。
故・筑波大教授の小田晋さんが『人はなぜ、幻覚するのか?―幻覚・妄想を人生に活かす』という本を書いている。そこには、弘法大師空海がそうであったし、目黒祐天寺の祐天上人がそうであったと記されている。
などと書いていながら、当方は実際にスウェデンボルグや出口王仁三郎の著作を読んだことはない。それにもかかわらず、彼らを怪しげな霊能者あつかいすると、その信者の方たちから、読んでもいないのにとお叱りを受けそうでもあるが、これまで聞き及んだことから推して、そうではないかと思う。
ただ、そのスウェデンボルグの思想(当方から見れば、事実ではなくあくまでも思想)の影響のおかげで、将来目が見え耳が聞こえるようになる時がくることに信仰をもったことが、ヘレンの生きる力、希望となったことは事実のようである。
そのことは、見方を変えて言えば、ヘレン・ケラーは(アメリカ合衆国の人だから、元来どこかのキリスト教会に帰属していたはずであるが、それも含め)既存の教会から慰めを得ていなかったと言えるように思う。得ていたのであれば、スウェデンボルグを待つまでもなく、その影響を受けるまでもなく、既存の教会から聖書の言葉を聞いて慰めと励みを得ていたハズだからである。たとえば、以下のような言葉である。
その時,目が見えない人は見えるようになり,耳が聞こえない人は聞こえるようになる。その時,足が不自由な人は鹿のように跳びはね,口が利けない人は歓声を上げる。イザヤ35:5,6
https://wol.jw.org/ja/wol/b/r7/lp-j/nwtsty/23/35#study=discover&v=23:35:5-23:35:7
しかし、ここまで書いてきて思うに、ヘレン・ケラーはたぶん、聖書の言葉に信仰をもっていなかったわけではないのだろう。スウェデンボルグの聖書解釈が、既存の教会の説明より、彼女にとって納得のいく説得力のある魅力的なものだったということなのだろう。結局のところヘレンは、言わば「キリスト教スウェデンボルグ派」に入信したカタチになったのではないかと、当方は、思う。
ちなみに、ウィキペディアの「ヘレン・ケラー」の項には、スウェデンボルグの影響はひとことも出ていない。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%98%E3%83%AC%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%82%B1%E3%83%A9%E3%83%BC
以下、蛇足だが・・
キリスト教と称する教派、団体はたくさんある。日本の仏教と同じだ。しかし、聖典として聖書を戴いているのは共通である。創世記からヨハネの啓示(黙示録)に至る66の部分からなる聖書を権威として(外典や独自の追加した「聖書」を用いることなく)、66冊のうちに一貫性、調和ある理解を求めていくなら、さまざまな教派に分かれるようなことにはならないはずである。そもそも、聖書は神の霊感を受けて人間が書いたとされているが、その霊感を与えた神様は唯一なのであるから、分裂しようはずもない。それが、分裂しているのは、教派によって独自の解釈や都合のイイ解釈を加えているからだ。聖書を学ぼうという方は、そうした余分なものを排除して聖書全巻を学んでいく必要がある。そうすれば、おのずと神ご自身のお考えに至るはずなのである。
ユタ州で思いだした、モルモン教
https://bookend.blog.ss-blog.jp/2012-05-19
ヘレン・ケラー 輝ける魂
https://www.youtube.com/watch?v=HGoYZ4oOmYU
ヘレン・ケラーといえば大きな身体的な障害を克服した偉人というイメージが強くある。それで、もうお腹いっぱい十分な気分になって、あえて伝記など読まずにきた。だが、そのドキュメンタリーで紹介されている、障害を克服していく過程において、その動機付けとなったモノが興味深かった。予想外だった。
それは、スウェデンボルグの影響だ。
スウェデンボルグを「霊能者」と簡単にくくってしまうと、語弊があるかもしれない。が、そう言っていいように思う。日本でいえば、出口王仁三郎みたいなものではないかと思う。イマジネーション能力が強大で、事実でないこと存在しないものまで見(え)てしまうと言ったらいいだろうか。
エマヌエル・スヴェーデンボリ(ウィキペディア)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%9E%E3%83%8C%E3%82%A8%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%82%B9%E3%83%B4%E3%82%A7%E3%83%BC%E3%83%87%E3%83%B3%E3%83%9C%E3%83%AA
世の中には、自分のイメージした、そのイメージに取り込まれて、あたかも行って見てきたかのように、まるで事実であるかのように、物語ることのできる人間がいるのだ。それを聞き、読む人間にも、「ウソだろう?」と思わせないくらいに、迫真性をもって語ることのできる人間がいるのである。語るイメージのなかに、人々を取り込んでしまうことのできる人間がいるのだ。簡単に言えば、「幻(覚)」を見せることのできる人といっていい。そうした見てきたもの、見せるものの中には、天国や地獄も入る。
故・筑波大教授の小田晋さんが『人はなぜ、幻覚するのか?―幻覚・妄想を人生に活かす』という本を書いている。そこには、弘法大師空海がそうであったし、目黒祐天寺の祐天上人がそうであったと記されている。
などと書いていながら、当方は実際にスウェデンボルグや出口王仁三郎の著作を読んだことはない。それにもかかわらず、彼らを怪しげな霊能者あつかいすると、その信者の方たちから、読んでもいないのにとお叱りを受けそうでもあるが、これまで聞き及んだことから推して、そうではないかと思う。
ただ、そのスウェデンボルグの思想(当方から見れば、事実ではなくあくまでも思想)の影響のおかげで、将来目が見え耳が聞こえるようになる時がくることに信仰をもったことが、ヘレンの生きる力、希望となったことは事実のようである。
そのことは、見方を変えて言えば、ヘレン・ケラーは(アメリカ合衆国の人だから、元来どこかのキリスト教会に帰属していたはずであるが、それも含め)既存の教会から慰めを得ていなかったと言えるように思う。得ていたのであれば、スウェデンボルグを待つまでもなく、その影響を受けるまでもなく、既存の教会から聖書の言葉を聞いて慰めと励みを得ていたハズだからである。たとえば、以下のような言葉である。
その時,目が見えない人は見えるようになり,耳が聞こえない人は聞こえるようになる。その時,足が不自由な人は鹿のように跳びはね,口が利けない人は歓声を上げる。イザヤ35:5,6
https://wol.jw.org/ja/wol/b/r7/lp-j/nwtsty/23/35#study=discover&v=23:35:5-23:35:7
しかし、ここまで書いてきて思うに、ヘレン・ケラーはたぶん、聖書の言葉に信仰をもっていなかったわけではないのだろう。スウェデンボルグの聖書解釈が、既存の教会の説明より、彼女にとって納得のいく説得力のある魅力的なものだったということなのだろう。結局のところヘレンは、言わば「キリスト教スウェデンボルグ派」に入信したカタチになったのではないかと、当方は、思う。
ちなみに、ウィキペディアの「ヘレン・ケラー」の項には、スウェデンボルグの影響はひとことも出ていない。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%98%E3%83%AC%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%82%B1%E3%83%A9%E3%83%BC
以下、蛇足だが・・
キリスト教と称する教派、団体はたくさんある。日本の仏教と同じだ。しかし、聖典として聖書を戴いているのは共通である。創世記からヨハネの啓示(黙示録)に至る66の部分からなる聖書を権威として(外典や独自の追加した「聖書」を用いることなく)、66冊のうちに一貫性、調和ある理解を求めていくなら、さまざまな教派に分かれるようなことにはならないはずである。そもそも、聖書は神の霊感を受けて人間が書いたとされているが、その霊感を与えた神様は唯一なのであるから、分裂しようはずもない。それが、分裂しているのは、教派によって独自の解釈や都合のイイ解釈を加えているからだ。聖書を学ぼうという方は、そうした余分なものを排除して聖書全巻を学んでいく必要がある。そうすれば、おのずと神ご自身のお考えに至るはずなのである。
ユタ州で思いだした、モルモン教
https://bookend.blog.ss-blog.jp/2012-05-19