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ま逆 1(仕事に対する見方) [スピリチュアルな話題]

動物の死体を取り扱う仕事はさげすみ見られてきた。動物の皮をなめす仕事をするのはエタと呼ばれる低い身分の人たちだったと聞く。江戸時代の「士農工商」の身分制の外にあって、差別を受けたような話も聞く。

野生動物の生態についての記事を更新してきたが、捕食動物の狩りの場面を見れば、血がながれ、肉がひき裂かれ、すさまじい様相を示す。人間は、もっときれいに取り扱うが、食肉を得るためには、屠殺し、解体し、部分に分けるといった作業が必要になる。その場面でも、やはり血が流れる。誰もが自分の意識のなかになるべく上らないようにしているが、実際のところそうした過程を経なければ、われわれの口には入らない。食肉業者のお蔭で、夏の暑さのなかでも元気に過ごすことができる。

昨日、聖書を読んでいて改めて気づいたことがある。『レビ記』というモーセが記したとされている部分だ。そこでは、神への捧げものに関する規定がある。動物の犠牲をささげる。犠牲をささげるにも、いくつかの理由があるのだが、いずれにしろ、動物の命を奪うことが求められる。そこで、働くのが祭司たちだ。彼らの仕事をみると、まるで肉屋である。肉屋というと聞こえがいい。屠殺・解体業者と言ったほうが近い。次のように記されている。

その若い牛は、“主”の前でほふり、祭司であるアロンの子らは、その血をもって行って、会見の天幕の入口にある祭壇の回りに、その血を注ぎかけなさい。また、その全焼のいけにえの皮をはぎ、いけにえを部分に切り分けなさい。祭司であるアロンの子らは祭壇の上に火を置き、その火の上にたきぎを整えなさい。祭司であるアロンの子らは、その切り分けた部分と、頭と、脂肪とを祭壇の上にある火の上のたきぎの上に整えなさい。内臓と足は、水で洗わなければならない。祭司はこれら全部を祭壇の上で全焼のいけにえとして焼いて煙にする。これは、“主”へのなだめのかおりの火によるささげ物である。
レビ記1:5~9「新改訳聖書(いのちのことば社)」
https://wol.jw.org/ja/wol/b/r7/lp-j/nwtsty/3/1#study=discover

祭司のつとめとは、人間と神との仲介である。神への贖罪(罪のゆるし)を一般のイスラエル国民に代わって願いでたりする立場である。ということは、一般人より、ある意味において、上位の立場にあると言っていい。

何を言いたいかというと、動物の死体を取り扱うような仕事(をする人間)を低く卑しめる傾向が世界的にあるようだが、イスラエル国民の間では逆であったということだ。

ずっと後の時代になるが、イエス・キリストが弟子たちに語った言葉に次のようなものがある。

「あなたたちは,国々の支配者が威張り,偉い人たちが権威を振るうことを知っています。 あなたたちの間ではそうであってはなりません。偉くなりたい人は奉仕者でなければならず,1番でありたい人は奴隷でなければなりません。 人の子も,仕えてもらうためではなく仕えるために,また多くの人と引き換える贖いとして自分の命を与えるために来ました」。
https://wol.jw.org/ja/wol/b/r7/lp-j/nwtsty/40/20#study=discover

「人の子」とはイエス・キリスト自身である。人類全体の罪のゆるしを神に願いでるために自分の命を犠牲にした。クリスチャンはその弟子で、イエスの生き方に倣う人々だ。彼らも、神と他の人々への奉仕のために、自分の命を差し出す。イエスの時代以来、その一番重要な活動は、宣教活動であり、神の王国をふれ告げ、キリストの弟子となる人々を集めることだ。

その弟子たちの間では、より低いもの、謙遜に仕える者となるようイエスは命じている。そして、より卑しい(と思われる)立場で奉仕する者こそ偉いという見方を持つよう勧めている。これはプライドばかりを気にする人には到底受け入れられない見方だろう。

と、いうように聖書の見方と世間(世界)一般の見方では大きく異なることが多い。


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