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世は「ステルス」性に満ちて・・・ [スピリチュアルな話題]

昨日の記事でも示したが、世のステルス化が進んでいる。人間と人間が直接触れ合う機会なしに物事が進められるようになっている。昔ながらの小売店での売買が煩わしくなって、人々はコンビニのマニュアル化されたレジ対応を求め、さらにはインターネット上での商品入手を求め・・・。だんだん相手の顔の見えない、見えにくい隠蔽された世界になってきている。

ステルス性
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%83%86%E3%83%AB%E3%82%B9%E6%80%A7

人間つき合いは、煩わしいもので敬遠すべきものなのであろう。すくなくとも、そのように認識されるようになってきているのだろう。

そもそもが、「つき合い」は「突き合い」であるようなハナシもある。角を突き合うことは争いを連想させる。争いはできるなら避けたい。本当のところは(語源などからいくと)どうか分からないが、実生活の様相を見ると、まんざら間違っているように思えなくもない。

以前であれば、面倒に決まっている人間関係を、やんわり上手にいなしたり、捌いたりしながら、生きてきた。それが、核家族化によって「年寄り」が敬遠され、彼ら・彼女たちから世渡りの方法を教えられる機会も減少し、若い者たちは、対人関係をやんわり捌くことができない。直接ツノ突き合うようになる。お互いケガをしたくないので、適度に離れて生きるしかなく、山アラシのジレンマを生きることになる。

山アラシのジレンマ (ダイヤモンド現代選書)

山アラシのジレンマ (ダイヤモンド現代選書)

  • 作者: レオポルド・ベラック
  • 出版社/メーカー: ダイヤモンド社
  • 発売日: 1974/01
  • メディア: 単行本

近所の外出する人に向かって、挨拶がてら 「どちらへ?」 と言う。それを受けて 「ちょっとそこまで・・」 と答える。具体的なことはなにも言わない。それで、分かれる。あるいは、さらにちょっと会話する。そのように以前は(「年寄りたちは)していた。プライバシーを守りながら、相手を無視するわけでもない。それで、お互いうまくやり過ごしてきた。
国立国語研究所 暮らしに生きることば
http://www.ninjal.ac.jp/publication/catalogue/kokken_mado/18/01/

小学校で、英語を教えるより、そうした日常の決まり文句を教えた方がいいのではないかと思う。そのようにすれば、そうした「決まり文句」を知らないままに成長し、相手を無視していると思われるのも困るし、かといって何を話していいかも分からないので、スマホの画面をじっと凝視し、相手が目の前からいなくなるの待つ、そのようにして時をやり過ごすなどという(オトナゲない)大人になることはないように思う。


最近、ステルス化をとくに感じるのは、偵察機でも人間関係でもない。「政府」である。政府のステルス化。国民が知るべき情報を隠す。「法令に則った適切な扱い」などと言って、隠しおおす。公表するのを、逃げる。国会での質問に、一般論をのみ述べて時間稼ぎをする。国民の信を受けて機能する集団が国民を無知のうちに留めて平気でいる。どうせ、国民の大多数は、目の前の生活に必死である。その間隙をねらっての振る舞いに思える。それが、国民一般の知識・情報を上回る高い見地による確かな方針に基づくもので、現時点においては国民の理解を得るのがたいへん困難なので、秘密としておこうというなら、それはそれでいい(ようにも思う)。しかし、そういう判断をした根拠となる文書を日本の行政は処分してしまう。それでは、将来において、当時は理解できなかったどんな理由で政府、行政が判断し、行動していたかを知るスベもない。そして、ただ利己的な動機による隠蔽工作でしかなかったのでは・・との疑惑をもたざるを得なくなる。そうした不信感は、さらに将来に引きつがれる。

「法の番人」役割放棄で、日本は前・近代・・
http://bookend.blog.so-net.ne.jp/2015-10-24

「秘密」をアメリカ並みにしたいのなら、まずは「情報公開」の方から http://bookend.blog.so-net.ne.jp/2013-11-15

もっとも、人間の政府に過度に期待するのがそもそも間違っている。人間には、統治能力がないことを、聖書は示している。そのことは、人類の歴史を見れば分かることだ。自国民全員に永続するかに思える幸福感を与えた政府など世界のどこを探してもない。それでも、聖書は現行の人間の政府を、神がお許しになった権威として認め、その法令に服すること、税を納めること、敬意を示すことを求めている。どのような政府であれ、ある程度の社会秩序を保つ機能を果たすからだ。そのようにしながらクリスチャンは「神の御国」を待つことになっている。キリスト信者が「御国(ミクニ)の来たらんことを」と祈るさいの「御国」である。現代語なら「王国」である。それは政府を指す。神の立てる政府を待ち望み、それをふれ告げるのが、クリスチャンの勤めである。いまも熱心な活動がなされている。それを本当に聞くなら、その現実性を吟味するなら、本当に確かなものであることを知ることができる。問題は、「神の王国」をふれ告げ、その政府について教えているグループを見分けることである。あとは、時間をとって、きちんと調べるなら、その現実性を確信できる。目に見えない政府でありながら、つまり、まさにステルス性をもつものでありながら、目に見える人間の政府以上に現実に機能している政府であることを知ることができる。隠されてはいないことを実感できる。


旧新約聖書―文語訳

旧新約聖書―文語訳

  • 作者:
  • 出版社/メーカー: 日本聖書協会
  • 発売日: 1996/12
  • メディア: 単行本



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