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早朝、歓楽街を歩く [スピリチュアルな話題]

当市の繁華街を歩く機会があった。繁華街というより、歓楽街といったほうがいいかもしれない。仕事の関係でいくことになった。

スナックの戸口には、営業自粛の張り紙がしてある。ある店は、しばらく休業とあるし、別の店はカラオケはできない、一緒に入店するのは6人までなどと書いてある。

早朝、人は、ほとんどいない。若い男女が騒いでいたが、五指に満たない。

歓楽街は特有だ。裏道は猥雑なにおいがあるし、表のほうは甘いのこり香が漂っていたりする。人間の残すにおいや香りはどこも共通しているのだろう。新宿のゴールデン街もあるいたことがあるが、その点あちらの方が強烈だ。気持ち悪くなって吐いた女性も知っている。酒を飲みすぎてではなく、その場のにおいに参ってしまったのだ。酒とゴミとその他もろもろがないまぜになった空気にまいってしまった。

当方はおおよそ歓楽街とは無縁の生活をおくっている。そもそも、そうした場所に足を向けることもない。聖書のなかでは「良い名は良い油よりも価値がある。死ぬ日は生まれる日よりも価値がある。宴会が開かれる家に行くよりも,死を悼む家に行く方がよい。死は全ての人が迎える終わりであり,生きている人はそれを心に留めなければならない。笑うよりも,苦悩する方がよい。悲しい顔をすることで心が正されるからだ。 賢い人の心は,死を悼む家にあるが,愚かな人の心は,楽しいことが行われる家にある(伝道の書7:1~4)」と、ある。
https://wol.jw.org/ja/wol/b/r7/lp-j/nwtsty/21/7#study=discover

楽しむことがワルイというのではない。イエス・キリストでさえ、友人の結婚式に参加し、大量の水をワインに変えるという奇跡をおこなっている。喜ぶ人と共に喜びなさいという聖書の言葉もある。他の人の幸福にともにあずかり、大いに喜ばせたいという願いの持ち主であったことがうかがえる。キリストはただの堅物ではなかったということになる。上の「伝道の書」にあるソロモンの言葉は、要するに、自分の人生をまじめに考えるうえで、葬式という死を悼む空気の中にいることは良いことだと言いたいのだ。

当方も、親しい仲間と語らうのは好きだ。知的な話が特に好きだ。知らないことを学べる機会はありがたい。逆をいえば、ただの莫迦騒ぎはご免である。

いや、今朝そうした場を歩いていて、思ったことがある。それはよく言われることだ。「年をとって遊びをおぼえるとたいへんなことになる」と聞くが、そうだろうなと思った。年をとって「遊び」をおぼえるということは、それまで「遊び」を知らなかったということだ。それまで過ごした自分の人生が徒労に思え、ムダなことをしたと後悔し、「遊び」の日々を取り戻そうということになるのであれば、それはタイヘンなことになるにちがいない。

自分の「今」をつねに満ち足りたものとしてきた人は、年をとってタイヘンなことになることはないだろう。しかし、そのことがなかなか難しいので多くの人が人生を誤まるのは事実だ。そうではあっても、聖書的な観点からいくと、そのことは非常に簡単だと言える。人間が神様によって創られたのであれば、創ったその方が人間のツクリをいちばんよくご存知のはずだ。どんな機械もマニュアルどおりにしないとうまく作動しないし、壊れたりする。人間もおなじだ。聖書を学んだ人間として、世の中をみるときに、聖書にある神様の教えに目を留めて従ってさえいれば、そんな悲しくつらい目に会わないですむのにと思うことが多い。とりわけ、芸能人の不倫や離婚についての騒動を見聞きすると、聖書の原則を守ってさえいればとつくづく思う。

「日本語聖書」
https://wol.jw.org/ja/wol/binav/r7/lp-j


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