渡部昇一さんが亡くなった(その魂は・・・) [スピリチュアルな話題]
心不全だという。
杉並の自宅で倒れたという話である。
自宅とは、ご自分の書斎を指しているのだろうか。そうであれば、本望であろう。15万冊の本に囲まれて倒れたなら、いかにも渡部先生らしい。
書斎の画像
https://www.google.co.jp/search?q=%E6%B8%A1%E9%83%A8%E6%98%87%E4%B8%80+%E6%9B%B8%E6%96%8E&hl=ja&rlz=1T4LEND_ja___JP513&tbm=isch&tbo=u&source=univ&sa=X&ved=0ahUKEwix0dKEsq3TAhUKWLwKHfurBcIQsAQINg&biw=1061&bih=536#spf=1
「保守派の評論家」「保守の論客」とされているが、正々堂々、自論を展開してこられたのではなかろうか。
当方は、先生のよい読者ではない。にわか読者である。上記書籍をとおして、たいへんな読書家であることを知り、近しく感じるようになった。
目次 1 『 渡部昇一 青春の読書 』1~3章 WAC刊
http://kankyodou.blog.so-net.ne.jp/2015-12-17
目次 2 『 渡部昇一 青春の読書 』 4~5章 WAC刊
http://kankyodou.blog.so-net.ne.jp/2015-12-18
先生は、山形の鶴岡の出身で、講談社の庶民的文化の影響を受けて育ち、のちに上智大学に入り、カトリックの教えを受け入れ、洗礼を受けた。つまり、カトリック教徒・信者である。
上記書籍をとおして当方は、カトリックとはこういう考え方をするのだという気付きを与えられもした。
当方未読であるが、アマゾンの著作リストをみると、先生はスピリチュアルな発言もなさっている。「変」に思われることを懼れて、そのような話題を人は避ける傾向があるが、避けることなく持論を展開し、死者の霊魂について言及している。
カトリックでは、煉獄と呼ばれる場所・状態から、死者の霊魂が天国に行くことができるよう信者に祈るようすすめているという。死ねば肉は朽ち果て、骨となって、ついには土壌の一部となり、あとは何もなくなる・・という考えではなく、死者の体とは別に霊魂と呼ばれるモノがあって、死後も霊魂として生き続けるという考え方を、カトリックは宗派として保持してきた。
しかし、『聖書』そのものは、そのように教えてはいない。実際に調べてみれば分かることであるのに、たいへん知的レベルの高い方たちが、その教義を信じ、カトリック信者となっているという事実がある。おもしろいことである。
その根拠については、以前、当該ブログに記した。ご覧いただければ、幸いである。
聖書は「霊魂不滅」を否定している
http://bookend.blog.so-net.ne.jp/2006-05-13
聖書は「霊魂不滅」を否定しているーその2-
http://bookend.blog.so-net.ne.jp/2006-05-14
聖書は霊魂不滅を否定している-その3-
http://bookend.blog.so-net.ne.jp/2006-08-09
これだけ記して終わりにしてしまうと、死後の希望は何もないかの印象を与えてしまうが、実のところ、希望はある。
熱心なクリスチャンであり、殉教の死を遂げたと考えられている使徒パウロの言葉に次のようなものがある。
「そしてわたしは神に対して希望を持っております……義者と不義者との “復活” があるということです」(使徒 24:15)
渡部先生も、神の定めの時に、“復活” なさるにちがいない。
杉並の自宅で倒れたという話である。
自宅とは、ご自分の書斎を指しているのだろうか。そうであれば、本望であろう。15万冊の本に囲まれて倒れたなら、いかにも渡部先生らしい。
書斎の画像
https://www.google.co.jp/search?q=%E6%B8%A1%E9%83%A8%E6%98%87%E4%B8%80+%E6%9B%B8%E6%96%8E&hl=ja&rlz=1T4LEND_ja___JP513&tbm=isch&tbo=u&source=univ&sa=X&ved=0ahUKEwix0dKEsq3TAhUKWLwKHfurBcIQsAQINg&biw=1061&bih=536#spf=1
「保守派の評論家」「保守の論客」とされているが、正々堂々、自論を展開してこられたのではなかろうか。
当方は、先生のよい読者ではない。にわか読者である。上記書籍をとおして、たいへんな読書家であることを知り、近しく感じるようになった。
目次 1 『 渡部昇一 青春の読書 』1~3章 WAC刊
http://kankyodou.blog.so-net.ne.jp/2015-12-17
目次 2 『 渡部昇一 青春の読書 』 4~5章 WAC刊
http://kankyodou.blog.so-net.ne.jp/2015-12-18
先生は、山形の鶴岡の出身で、講談社の庶民的文化の影響を受けて育ち、のちに上智大学に入り、カトリックの教えを受け入れ、洗礼を受けた。つまり、カトリック教徒・信者である。
上記書籍をとおして当方は、カトリックとはこういう考え方をするのだという気付きを与えられもした。
当方未読であるが、アマゾンの著作リストをみると、先生はスピリチュアルな発言もなさっている。「変」に思われることを懼れて、そのような話題を人は避ける傾向があるが、避けることなく持論を展開し、死者の霊魂について言及している。
カトリックでは、煉獄と呼ばれる場所・状態から、死者の霊魂が天国に行くことができるよう信者に祈るようすすめているという。死ねば肉は朽ち果て、骨となって、ついには土壌の一部となり、あとは何もなくなる・・という考えではなく、死者の体とは別に霊魂と呼ばれるモノがあって、死後も霊魂として生き続けるという考え方を、カトリックは宗派として保持してきた。
しかし、『聖書』そのものは、そのように教えてはいない。実際に調べてみれば分かることであるのに、たいへん知的レベルの高い方たちが、その教義を信じ、カトリック信者となっているという事実がある。おもしろいことである。
その根拠については、以前、当該ブログに記した。ご覧いただければ、幸いである。
聖書は「霊魂不滅」を否定している
http://bookend.blog.so-net.ne.jp/2006-05-13
聖書は「霊魂不滅」を否定しているーその2-
http://bookend.blog.so-net.ne.jp/2006-05-14
聖書は霊魂不滅を否定している-その3-
http://bookend.blog.so-net.ne.jp/2006-08-09
これだけ記して終わりにしてしまうと、死後の希望は何もないかの印象を与えてしまうが、実のところ、希望はある。
熱心なクリスチャンであり、殉教の死を遂げたと考えられている使徒パウロの言葉に次のようなものがある。
「そしてわたしは神に対して希望を持っております……義者と不義者との “復活” があるということです」(使徒 24:15)
渡部先生も、神の定めの時に、“復活” なさるにちがいない。
須賀敦子と宮沢賢治にまつわる話を聞く [スピリチュアルな話題]
雨のなか、東京へ出向く。とうとう一日降り続く。
行きがけ、須賀敦子と宮沢賢治にまつわる話を聞く。NHKラジオ第2で放送していた。
詩句の説明だけならいいが、解釈を加えられると、なんとなくオモシロくない。筋のとおった解釈に思えはしても、どこかで「ソレだけではナイ」という思いが同時に起こる。
自分が一番よく詩人たちを理解しているかのような気がしているからだろう。
しかし、それは錯覚にちがいない。
話を聞きつつ、そういう錯覚に多くを巻きこむのが、真の詩人かも・・など思った。
行きがけ、須賀敦子と宮沢賢治にまつわる話を聞く。NHKラジオ第2で放送していた。
詩句の説明だけならいいが、解釈を加えられると、なんとなくオモシロくない。筋のとおった解釈に思えはしても、どこかで「ソレだけではナイ」という思いが同時に起こる。
自分が一番よく詩人たちを理解しているかのような気がしているからだろう。
しかし、それは錯覚にちがいない。
話を聞きつつ、そういう錯覚に多くを巻きこむのが、真の詩人かも・・など思った。
石原慎太郎さんの「棺をおおいて」定まる評価は・・・ [スピリチュアルな話題]
「まっとうする」とはいい言葉だ。
なんであれ、まっとうすることができたなら、賞賛に値するように思う。
なんらかの仕事をまっとうするというだけでなく、人生をまっとうするとは、まっとうした姿とはどういうものだろう・・・。
社会的立場、知名度が高いほど、人々の注目は集まり、期待が大きければ、いろいろ言われることになる。
『棺を蓋いて事定まる』という言葉がある。人の評価が定まるのは亡くなってお棺のフタを閉じてからという意味だという。出典は晋書だそうだ。
その点、石原慎太郎という人物は、どのように評価できるのだろう。上の言葉には、『棺を蓋いて事定まる』だけに、生きているうちに評価を安易にしないようにという意味もあるという。「晩節を汚す」のではなく、「晩節をまっとう」して欲しいものだ。
『聖書』にも「晋書」同様の言葉がある。『名は良い油に(まさり)、死ぬ日は生まれる日に勝る』という言葉だ。
そのことを過去に書いた気がして、調べたら、10年も前の記事が出てきた。ちょうど盂蘭盆の時期に書いている。やはり彼岸や盆にはなんとなく、思いがそのような方に向うらしい。きのう今日と臨死体験やらお棺やらの話になってしまった。
「盂蘭盆」に“聖書”の言葉を一つ
http://bookend.blog.so-net.ne.jp/2007-08-13-1
石原さんのことは、ここでは書かない。それでも当該ブログで、過去に記事を15ほど書いている。以下、参考まで
http://bookend.blog.so-net.ne.jp/search/?keyword=%E7%9F%B3%E5%8E%9F%E6%85%8E%E5%A4%AA%E9%83%8E
***********
(以下「晩節を けがす」ではなく「晩節を まっとうする」の例文)
『晩節を全うするに非ざれば/吉田松陰一日一言』
国強く勢盛んなる時は、孰(た)れも忠勤を励(はげ)むものなり。国(くに)衰(おとろ)へ勢(いきおい)去(さ)るに至りては、志を変じ敵に降(くだ)り主(あるじ)を売る類(たぐい)寡(すくな)からず。
故に人は晩節を全うするに非ざれば、何程(なにほど)才智学芸ありと雖(いえど)も、亦(また)何ぞ尊(たっと)ぶに足らんや。明主(めいしゅ)に忠あるは珍しからず、暗主に忠なるこそ真忠なれ。
安政二年十一月十二日「講孟箚記」
【訳】
国が強く、勢いが盛んな時には、誰でもまごころを尽くすものである。しかし、国が衰え、勢いが去ってしまうと、志を変えて敵に降参し、主人を売るようなタイプの人間も少なくない。
だから、人は晩年の節操を全うするのでなければ、どれ程才能があり、頭の回転が速く、幅広い知識があったとしても、尊敬するほどの価値はない。
立派な主人に仕えてまごころを尽くすことは、珍しいことではない。おろかな主人にまごころを尽くすことこそ、本当の忠臣である。
https://www.facebook.com/syoin.yosida/posts/498385750196759から引用
なんであれ、まっとうすることができたなら、賞賛に値するように思う。
なんらかの仕事をまっとうするというだけでなく、人生をまっとうするとは、まっとうした姿とはどういうものだろう・・・。
社会的立場、知名度が高いほど、人々の注目は集まり、期待が大きければ、いろいろ言われることになる。
『棺を蓋いて事定まる』という言葉がある。人の評価が定まるのは亡くなってお棺のフタを閉じてからという意味だという。出典は晋書だそうだ。
その点、石原慎太郎という人物は、どのように評価できるのだろう。上の言葉には、『棺を蓋いて事定まる』だけに、生きているうちに評価を安易にしないようにという意味もあるという。「晩節を汚す」のではなく、「晩節をまっとう」して欲しいものだ。
『聖書』にも「晋書」同様の言葉がある。『名は良い油に(まさり)、死ぬ日は生まれる日に勝る』という言葉だ。
そのことを過去に書いた気がして、調べたら、10年も前の記事が出てきた。ちょうど盂蘭盆の時期に書いている。やはり彼岸や盆にはなんとなく、思いがそのような方に向うらしい。きのう今日と臨死体験やらお棺やらの話になってしまった。
「盂蘭盆」に“聖書”の言葉を一つ
http://bookend.blog.so-net.ne.jp/2007-08-13-1
石原さんのことは、ここでは書かない。それでも当該ブログで、過去に記事を15ほど書いている。以下、参考まで
http://bookend.blog.so-net.ne.jp/search/?keyword=%E7%9F%B3%E5%8E%9F%E6%85%8E%E5%A4%AA%E9%83%8E
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(以下「晩節を けがす」ではなく「晩節を まっとうする」の例文)
『晩節を全うするに非ざれば/吉田松陰一日一言』
国強く勢盛んなる時は、孰(た)れも忠勤を励(はげ)むものなり。国(くに)衰(おとろ)へ勢(いきおい)去(さ)るに至りては、志を変じ敵に降(くだ)り主(あるじ)を売る類(たぐい)寡(すくな)からず。
故に人は晩節を全うするに非ざれば、何程(なにほど)才智学芸ありと雖(いえど)も、亦(また)何ぞ尊(たっと)ぶに足らんや。明主(めいしゅ)に忠あるは珍しからず、暗主に忠なるこそ真忠なれ。
安政二年十一月十二日「講孟箚記」
【訳】
国が強く、勢いが盛んな時には、誰でもまごころを尽くすものである。しかし、国が衰え、勢いが去ってしまうと、志を変えて敵に降参し、主人を売るようなタイプの人間も少なくない。
だから、人は晩年の節操を全うするのでなければ、どれ程才能があり、頭の回転が速く、幅広い知識があったとしても、尊敬するほどの価値はない。
立派な主人に仕えてまごころを尽くすことは、珍しいことではない。おろかな主人にまごころを尽くすことこそ、本当の忠臣である。
https://www.facebook.com/syoin.yosida/posts/498385750196759から引用
鶴見俊輔 水木しげるを語る [スピリチュアルな話題]
水木しげるさんの亡くなるほんの少しまえ(7月20日)に、鶴見俊輔さんは亡くなっている。だから、水木さんの訃報を聞いて、鶴見俊輔が語るなどありえない。あれば、ゲゲゲの妖怪談義になってしまう。
科学技術とは怖ろしいもので、妖怪並みのわざをおこなう。VTRで死んだ人をよみがえらせることもできる。
しばらく前、2008年だと思うが、NHK・ETV特集で、「鶴見俊輔 戦後日本 人民の記憶」という番組が放映された。それは、DVDになって発売されているが、その番組のさいご、86歳の鶴見さんが「死」について語る場面がある。
本日、昼食をとりながら、そのVTRを見て、ありし日の鶴見さんを、よみがえらせてみた。鶴見さんは、水木しげるを引き合いにだしつつ、さらには、ハーヴァード留学時代、直接ホワイトヘッドから聞いた最終講義のもよう、ワーズワースの詩のことなどをとりあげつつ、「死」について語っていくのだが・・・
司馬遼太郎の数学嫌いと「数学嫌いな人のための数学」(小室直樹著)
http://kankyodou.blog.so-net.ne.jp/2013-05-20
(以下、鶴見さんの談話から)
***********
水木しげるがね、小学校に行ったときに、人間ってみんな死ぬんだって聞いた。びっくりして、ウソだと思った・・・。
その気分は、わかるね。つまり、人間みんな、だれもかれもが死ぬってことは、生まれたとき、わからないね。だけど、その気分は86歳になっても、小さなかけらとして、ワン・パーティクルとして、自分がいま生きているという感覚のなかに残っているね。
今、86歳だから、ひじょうに死ぬことが近いってことがわかってるんだけど、にもかかわらず、自分がいま生きているという自覚のなかに、かけらとして、自分のなかに永遠がある・・・
永遠の感覚は、生きている感覚のなかにある。さいごの一息のなかにもある。かけらとして永遠の感覚はある。
だから、今もわたしは、あとわずかの時間で死ぬだろうとおもってるし、死と背中あわせって感じがあるんだけれども、自分にかけらとして永遠の感覚はあるね。(笑)
***********
「神はまた人の心に永遠を思う思いを授けられた」伝道の書3:11
鶴見 俊輔(つるみ しゅんすけ、1922年〈大正11年〉6月25日 - 2015年〈平成27年〉7月20日)は、日本の哲学者、評論家、政治運動家、大衆文化研究者。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B6%B4%E8%A6%8B%E4%BF%8A%E8%BC%94
水木 しげる(みずき しげる、男性、1922年[1]3月8日 - 2015年11月30日[2])は、日本の漫画家。文化功労者、傷痍軍人。本名は武良 茂(むら しげる)。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%B4%E6%9C%A8%E3%81%97%E3%81%92%E3%82%8B
科学技術とは怖ろしいもので、妖怪並みのわざをおこなう。VTRで死んだ人をよみがえらせることもできる。
しばらく前、2008年だと思うが、NHK・ETV特集で、「鶴見俊輔 戦後日本 人民の記憶」という番組が放映された。それは、DVDになって発売されているが、その番組のさいご、86歳の鶴見さんが「死」について語る場面がある。
本日、昼食をとりながら、そのVTRを見て、ありし日の鶴見さんを、よみがえらせてみた。鶴見さんは、水木しげるを引き合いにだしつつ、さらには、ハーヴァード留学時代、直接ホワイトヘッドから聞いた最終講義のもよう、ワーズワースの詩のことなどをとりあげつつ、「死」について語っていくのだが・・・
司馬遼太郎の数学嫌いと「数学嫌いな人のための数学」(小室直樹著)
http://kankyodou.blog.so-net.ne.jp/2013-05-20
(以下、鶴見さんの談話から)
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水木しげるがね、小学校に行ったときに、人間ってみんな死ぬんだって聞いた。びっくりして、ウソだと思った・・・。
その気分は、わかるね。つまり、人間みんな、だれもかれもが死ぬってことは、生まれたとき、わからないね。だけど、その気分は86歳になっても、小さなかけらとして、ワン・パーティクルとして、自分がいま生きているという感覚のなかに残っているね。
今、86歳だから、ひじょうに死ぬことが近いってことがわかってるんだけど、にもかかわらず、自分がいま生きているという自覚のなかに、かけらとして、自分のなかに永遠がある・・・
永遠の感覚は、生きている感覚のなかにある。さいごの一息のなかにもある。かけらとして永遠の感覚はある。
だから、今もわたしは、あとわずかの時間で死ぬだろうとおもってるし、死と背中あわせって感じがあるんだけれども、自分にかけらとして永遠の感覚はあるね。(笑)
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「神はまた人の心に永遠を思う思いを授けられた」伝道の書3:11
鶴見 俊輔(つるみ しゅんすけ、1922年〈大正11年〉6月25日 - 2015年〈平成27年〉7月20日)は、日本の哲学者、評論家、政治運動家、大衆文化研究者。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B6%B4%E8%A6%8B%E4%BF%8A%E8%BC%94
水木 しげる(みずき しげる、男性、1922年[1]3月8日 - 2015年11月30日[2])は、日本の漫画家。文化功労者、傷痍軍人。本名は武良 茂(むら しげる)。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%B4%E6%9C%A8%E3%81%97%E3%81%92%E3%82%8B
中国のテレビドラマ「宮廷画師 郎世寧」を見ながら思ったこと [スピリチュアルな話題]
しばらくぶりに、中国のテレビドラマ「宮廷画師 郎世寧」(別のタイトルとして「康煕 雍正 乾隆」) 全8巻 を、ここのところ見ている。
そもそも、中国のテレビドラマを見るようになったのは、「康熙王朝」を見てからなのだが・・・
中国のTVドラマ
http://bookend.blog.so-net.ne.jp/2012-03-18
「皇太子廃位」をだれも言わない
http://bookend.blog.so-net.ne.jp/2012-04-07
「宮廷画師 郎世寧」を見ていてつくづく感じるのは、同じく清朝宮廷を舞台にしたドラマでありながら、「康熙王朝」とのスケール感のチガイである。皇帝が黄色い朝服(「朝袍」チャンパオ)を着て登場するのは同じなわけだが、そこから受ける印象はまったく「別物」である。
だいいち注ぎ込まれている「制作費」がチガウのだから当然過ぎると言えば当然なのだが、「宮廷画師 郎世寧」から受けるのは、宮廷の体裁を備えてはいるものの、どこまでいっても「ホームドラマ」・・・。
構造をおなじくするという点で、どの人間も基本的に、アタマがあり、胴体があり、四肢がある点で、一緒だが、ふたつのドラマから感じられるように、立っているだけで、存在してあるだけで、受けるスケール感のチガイというのは、人間においても、やはりあるのだろうな・・など思ったりしながら、今、見ている。
「品格」を身に着けるために・・:持田盛二師範のこと
http://bookend.blog.so-net.ne.jp/2007-03-05-1
「品格」を身に着けるために(2):福沢諭吉先生のこと
http://bookend.blog.so-net.ne.jp/2007-03-09
「品格」を身に着けるために(3):富士山のこと
http://bookend.blog.so-net.ne.jp/2007-03-10
「品格」を身につけるために(4):C・G・ユングのこと
http://bookend.blog.so-net.ne.jp/2007-03-11
「品格」を身に着けるために(5):生きている「神話」
http://bookend.blog.so-net.ne.jp/2007-03-12
「品格」を身に着けるために(6):聖書の「神話」を生きた人
http://bookend.blog.so-net.ne.jp/2007-03-13-1
そもそも、中国のテレビドラマを見るようになったのは、「康熙王朝」を見てからなのだが・・・
中国のTVドラマ
http://bookend.blog.so-net.ne.jp/2012-03-18
「皇太子廃位」をだれも言わない
http://bookend.blog.so-net.ne.jp/2012-04-07
「宮廷画師 郎世寧」を見ていてつくづく感じるのは、同じく清朝宮廷を舞台にしたドラマでありながら、「康熙王朝」とのスケール感のチガイである。皇帝が黄色い朝服(「朝袍」チャンパオ)を着て登場するのは同じなわけだが、そこから受ける印象はまったく「別物」である。
だいいち注ぎ込まれている「制作費」がチガウのだから当然過ぎると言えば当然なのだが、「宮廷画師 郎世寧」から受けるのは、宮廷の体裁を備えてはいるものの、どこまでいっても「ホームドラマ」・・・。
構造をおなじくするという点で、どの人間も基本的に、アタマがあり、胴体があり、四肢がある点で、一緒だが、ふたつのドラマから感じられるように、立っているだけで、存在してあるだけで、受けるスケール感のチガイというのは、人間においても、やはりあるのだろうな・・など思ったりしながら、今、見ている。
「品格」を身に着けるために・・:持田盛二師範のこと
http://bookend.blog.so-net.ne.jp/2007-03-05-1
「品格」を身に着けるために(2):福沢諭吉先生のこと
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「品格」を身に着けるために(3):富士山のこと
http://bookend.blog.so-net.ne.jp/2007-03-10
「品格」を身につけるために(4):C・G・ユングのこと
http://bookend.blog.so-net.ne.jp/2007-03-11
「品格」を身に着けるために(5):生きている「神話」
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「品格」を身に着けるために(6):聖書の「神話」を生きた人
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ジャック・ロンドンと薩摩武士道 [スピリチュアルな話題]
日本経済新聞(3/18p44文化欄)に、森孝晴・鹿児島国際大学教授が寄稿している。「米作家が見た薩摩武士道」と題されている。
米作家とは、「野性の呼び声」で有名なジャック・ロンドンのことだ。副題には「ジャック・ロンドンと鹿児島との関り 作品から研究」とある。
日本でのジャック・ロンドンの写真が掲載されている。キャプションに「日露戦争を取材中のロンドン」とある。肋骨服を着た日本人将兵らとほぼ同じ背丈だから、大きな人ではなさそうだ。それとも、若干、手前に位置して写っているのでそう見えるだけだろうか。いずれにしても、ハンティングをかぶったロンドンの身体つきは、胸板が厚く、がっちりしていて、野性味を感じる。いかにも当方のイメージにある作家の姿である。
森教授は、新聞特派員として日本に来たときのロンドンが、日本軍当局から同行するように言われた人物、薩摩藩出身の黒木為楨(ためもと)陸軍大将と、黒木と同じく下級武士出身で、薩摩藩留学生として渡英し、さらに米国に渡り、後に「カリフォルニアのワイン王」と呼ばるようになる長沢鼎に言及している。
黒木について記すにあたり、教授は「ロンドンはこのときまでに新渡戸稲造の『武士道』を読んで感銘を受け、エッセーに書いている。だから本物の武士である黒木にはきっと興味を持ったに違いない」と書き、ロンドンの絶筆「チェリー」に登場する「ハワイの農場で庭師として働くノムラ・ナオジロウという青年が」「寡黙で周囲から恐れられている人物で作家本人が文中で『多くの日本人が彼を黒木さんに似ていると言う」と説明していることに触れている。
森教授は、ロンドンと武士道との関係を次にように締めくくっている。「ロンドンは日本人の脅威を説いたこともあるが、強い関心の裏返しだろう。日本が中国と手を組めば恐ろしいことになる、と書いた評論もある。キリスト教精神に背を向けたロンドンにとって、宗教でもなければ政治思想でもない武士道は新鮮に見えたのではないだろうか」。
そもそも、森教授がロンドンに引かれるようになったのは、大学生の頃、「20世紀初頭の米国の格差社会を描いた『マーティン・イーデン』に衝撃を受け」「貧富の差が大きな時代にどう生きるか悩む青年の姿に共感を覚え」さらには、「恩師がロンドン研究会を始めたのを機に」取り組むようになったのだという。
「新潮世界文学辞典(1990年)をみると、教授が衝撃を受けた『マーティン・イーデン』について、「自殺に終わる一作家の数奇な生涯を描く半自伝小説」と簡単に説明されている。
実際、ロンドンは自殺して果てたようである。その理由については「カリフォルニアに大邸宅を構え、作品を次から次へと書き続け、一時は名声と富をほしいままにする感があったが、そうした本能的な名誉欲や金銭欲と、自己の表明する主義主張との矛盾に苦しんだ」と(同じ辞典には)ある。
ロンドンの経歴や武士道への親近感から、当方は、猟銃自殺したA・ヘミングウェーを想起し、さらには、三島由紀夫も想起した。そこにあるのは、「ファリック(phallic)・ナルシシズム」である。その言葉を、三島はN・メイラーに当てはめ、さらには自分もそうであるように書いていたと思う。(出典忘却)。
ここ数ヶ月のことだが、某有名彫刻家に、三島が彫らせたという彫像(三島の全裸像)を見る機会があった。新聞に掲載されていたのに目が留まった。初めて見るものだったので、資料としてスクラップするか迷ったが、結局、やめた。趣味のワルサを感じたのである。
いま、ここまで、書いてきて気づいたのであるが、ソレはまさに屹立するファリックに見えたのであろう。本来、隠しておくべきもので、見せるものではないものを、見せつけられた気分になったのではないかと思う。ギリシャ彫刻やミケランジェロによる全裸像を見るときの印象とはチガウ、なにかヘンな印象をのみ、その時は感じていたのだが・・・
話しがヘンな方向に発展してしまった。あえて結論を書かずともいいのだろうが、武士道への親近感と自分自身への極度の誠実さは、「ファリック(phallic)・ナルシシズム」に近似し、死に至るという仮説を立てて終わりとする。
ウィキペディア「ジャック・ロンドン」の項目
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%83%83%E3%82%AF%E3%83%BB%E3%83%AD%E3%83%B3%E3%83%89%E3%83%B3
米作家とは、「野性の呼び声」で有名なジャック・ロンドンのことだ。副題には「ジャック・ロンドンと鹿児島との関り 作品から研究」とある。
日本でのジャック・ロンドンの写真が掲載されている。キャプションに「日露戦争を取材中のロンドン」とある。肋骨服を着た日本人将兵らとほぼ同じ背丈だから、大きな人ではなさそうだ。それとも、若干、手前に位置して写っているのでそう見えるだけだろうか。いずれにしても、ハンティングをかぶったロンドンの身体つきは、胸板が厚く、がっちりしていて、野性味を感じる。いかにも当方のイメージにある作家の姿である。
森教授は、新聞特派員として日本に来たときのロンドンが、日本軍当局から同行するように言われた人物、薩摩藩出身の黒木為楨(ためもと)陸軍大将と、黒木と同じく下級武士出身で、薩摩藩留学生として渡英し、さらに米国に渡り、後に「カリフォルニアのワイン王」と呼ばるようになる長沢鼎に言及している。
黒木について記すにあたり、教授は「ロンドンはこのときまでに新渡戸稲造の『武士道』を読んで感銘を受け、エッセーに書いている。だから本物の武士である黒木にはきっと興味を持ったに違いない」と書き、ロンドンの絶筆「チェリー」に登場する「ハワイの農場で庭師として働くノムラ・ナオジロウという青年が」「寡黙で周囲から恐れられている人物で作家本人が文中で『多くの日本人が彼を黒木さんに似ていると言う」と説明していることに触れている。
森教授は、ロンドンと武士道との関係を次にように締めくくっている。「ロンドンは日本人の脅威を説いたこともあるが、強い関心の裏返しだろう。日本が中国と手を組めば恐ろしいことになる、と書いた評論もある。キリスト教精神に背を向けたロンドンにとって、宗教でもなければ政治思想でもない武士道は新鮮に見えたのではないだろうか」。
そもそも、森教授がロンドンに引かれるようになったのは、大学生の頃、「20世紀初頭の米国の格差社会を描いた『マーティン・イーデン』に衝撃を受け」「貧富の差が大きな時代にどう生きるか悩む青年の姿に共感を覚え」さらには、「恩師がロンドン研究会を始めたのを機に」取り組むようになったのだという。
「新潮世界文学辞典(1990年)をみると、教授が衝撃を受けた『マーティン・イーデン』について、「自殺に終わる一作家の数奇な生涯を描く半自伝小説」と簡単に説明されている。
実際、ロンドンは自殺して果てたようである。その理由については「カリフォルニアに大邸宅を構え、作品を次から次へと書き続け、一時は名声と富をほしいままにする感があったが、そうした本能的な名誉欲や金銭欲と、自己の表明する主義主張との矛盾に苦しんだ」と(同じ辞典には)ある。
ロンドンの経歴や武士道への親近感から、当方は、猟銃自殺したA・ヘミングウェーを想起し、さらには、三島由紀夫も想起した。そこにあるのは、「ファリック(phallic)・ナルシシズム」である。その言葉を、三島はN・メイラーに当てはめ、さらには自分もそうであるように書いていたと思う。(出典忘却)。
ここ数ヶ月のことだが、某有名彫刻家に、三島が彫らせたという彫像(三島の全裸像)を見る機会があった。新聞に掲載されていたのに目が留まった。初めて見るものだったので、資料としてスクラップするか迷ったが、結局、やめた。趣味のワルサを感じたのである。
いま、ここまで、書いてきて気づいたのであるが、ソレはまさに屹立するファリックに見えたのであろう。本来、隠しておくべきもので、見せるものではないものを、見せつけられた気分になったのではないかと思う。ギリシャ彫刻やミケランジェロによる全裸像を見るときの印象とはチガウ、なにかヘンな印象をのみ、その時は感じていたのだが・・・
話しがヘンな方向に発展してしまった。あえて結論を書かずともいいのだろうが、武士道への親近感と自分自身への極度の誠実さは、「ファリック(phallic)・ナルシシズム」に近似し、死に至るという仮説を立てて終わりとする。
ウィキペディア「ジャック・ロンドン」の項目
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%83%83%E3%82%AF%E3%83%BB%E3%83%AD%E3%83%B3%E3%83%89%E3%83%B3
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- 発売日: 1994/02/01
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「クレヨンしんちゃん」作者の死因について・・・ [スピリチュアルな話題]
たまたま昨日、気づいて、アッと思ったことなのだ・・・
以下は、ただの思いつきで、憶測の域を出ないかもしれない・・・
それでも、「あるいは、もしかして・・・」と思えるところがあり、書くことにしたのだが・・・
須原一秀という哲学者がいる。もっとも、すでに故人となっている。
しばらく前に自殺した。遺作となった著書がある。「自死という生き方」である。
当該ブログで、「クレヨンしんちゃん」作者の死因・・・ 」と題して、しばらく前に記事を書いた。
そのとき、当方は、「クレヨンしんちゃん」の作者臼井儀人が、荒船山の高所から崖下をのぞき見た際に陥った変性意識状態によって、フラフラと誘われるようにして転落事故死したのでは・・と記した。
変性意識を取り扱った須原の著作(上記イメージとはまた別のもの)を思い起こして、その記事を書いた。
http://bookend.blog.so-net.ne.jp/2009-10-17
「クレヨンしんちゃん」の愛読者には、無論、言うまでもナイことと思うが、「・・しんちゃん」関連書籍は“双葉社”から発行されている。
上記イメージ書籍の発行元も、“双葉社”なのである。しかし、当方の感覚からいって、須原の記す哲学的な著作と“双葉社”とは、どうも縁がなさそうに思えるのである。
そもそも、須原の生前の著作は、もっぱら“新評論”という出版社から出されている。それが、どこをどう巡って遺作に関しては、“双葉社”が選ばれたのだろう。遺族のたっての依頼ででもあったのだろうか。不思議である。
須原が自死を遂げたのが、2006年4月。
上記イメージ書籍が双葉社から発行されたのが、2008年1月。
臼井儀人が、群馬県にある荒船山の崖上から転落死したのは、2009年9月である。
要するに、言いたいのは、臼井は、須原の上記書籍を読んでなんらかの影響を受けたのではなかろうか・・ということである。
ということであれば、須原と同じく、臼井の死も「覚悟して逝った」ということになるのだろうか?
当方は、興味はあるものの、まだ、須原の上記著作に関しては未読である。
読むと、臼井儀人の死に迫ることが、あるいは、できるかもしれない。
以下は、ただの思いつきで、憶測の域を出ないかもしれない・・・
それでも、「あるいは、もしかして・・・」と思えるところがあり、書くことにしたのだが・・・
須原一秀という哲学者がいる。もっとも、すでに故人となっている。
しばらく前に自殺した。遺作となった著書がある。「自死という生き方」である。
当該ブログで、「クレヨンしんちゃん」作者の死因・・・ 」と題して、しばらく前に記事を書いた。
そのとき、当方は、「クレヨンしんちゃん」の作者臼井儀人が、荒船山の高所から崖下をのぞき見た際に陥った変性意識状態によって、フラフラと誘われるようにして転落事故死したのでは・・と記した。
変性意識を取り扱った須原の著作(上記イメージとはまた別のもの)を思い起こして、その記事を書いた。
http://bookend.blog.so-net.ne.jp/2009-10-17
「クレヨンしんちゃん」の愛読者には、無論、言うまでもナイことと思うが、「・・しんちゃん」関連書籍は“双葉社”から発行されている。
上記イメージ書籍の発行元も、“双葉社”なのである。しかし、当方の感覚からいって、須原の記す哲学的な著作と“双葉社”とは、どうも縁がなさそうに思えるのである。
そもそも、須原の生前の著作は、もっぱら“新評論”という出版社から出されている。それが、どこをどう巡って遺作に関しては、“双葉社”が選ばれたのだろう。遺族のたっての依頼ででもあったのだろうか。不思議である。
須原が自死を遂げたのが、2006年4月。
上記イメージ書籍が双葉社から発行されたのが、2008年1月。
臼井儀人が、群馬県にある荒船山の崖上から転落死したのは、2009年9月である。
要するに、言いたいのは、臼井は、須原の上記書籍を読んでなんらかの影響を受けたのではなかろうか・・ということである。
ということであれば、須原と同じく、臼井の死も「覚悟して逝った」ということになるのだろうか?
当方は、興味はあるものの、まだ、須原の上記著作に関しては未読である。
読むと、臼井儀人の死に迫ることが、あるいは、できるかもしれない。
4「瞑想のすすめ」永井均 [スピリチュアルな話題]
またまた永井均の「瞑想のすすめ」からの引用(最終回)であるが・・・、
読んでいて、ひとつ思い出したことがある。
それは、「覚(さとり)」という妖怪のことだ。
ウィキペディアによると・・・
「覚(さとり)は、飛騨や美濃の山奥に住むと言われている妖怪で、こちらの思っていること全てを見透かし、こちらが口に出すよりも早くそれらをしゃべる」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A6%9A
と、ある。
当方が、妖怪事典なぞを見て、ほんと~に怖~く感じるのは、「トモカヅキ」である。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%88%E3%83%A2%E3%82%AB%E3%83%85%E3%82%AD
ひとり海中深くで作業する海部(あま)の前に立ち現れる妖怪が「トモカヅキ」であれば、ひとり山中深くで、作業する樵(きこり)の出会う妖怪が「覚(さとり)」であるように思う。
どちらも、ひとり、海・深く、山・深く、居ること、(つまり孤絶状態)から生じる。
一種の意識変容・変性意識がもたらす現象なのであろう。
まあ、それはそれとして、以下引用。
***********
そしてヴィパッサナー瞑想は、坐禅と違って、座っているときだけでなく一日中いつでもできる。通勤電車の中でも、歩きながらでも、食事をしながらでも。もし終日これを絶やさないことができたなら、あなたはもう仏陀(=目覚めた人)なのである!まあ、そこまでは行かなくとも、一日数十分ずつ半年ほどやってみただけの私にさえ、明らかな効果が実感できるのだ。
たとえば私は今朝、東京駅でちょっと急いでいたのでエスカレーターの右側を歩いて上ろうとしたところ、私の前の若い男が、右側に乗ったくせに妙にのろのろと歩く。私はむっと来て「こっち側に乗ったのならもっと速く歩けよ」と思った。その瞬間、「怒り」「焦る気もち」・・・というサティ(自覚)が自動的に入って、その気持ちが対象化され一つの出来事となって、しゅわっと消えたのである。以前なら無自覚に没入してしまったであろう感情の生起に、瞬時に気づくことができたわけである。まあ、いつもこんなに上手くいくわけではないが、この程度の効果があることは確かである。
座禅が煩悩まみれのこの世の生活から離れたただ在るだけの世界に人を連れ戻すのに対して、ヴィパッサナー瞑想は煩悩まみれのこの世の生活から離れたただ在るだけの世界にこの世の生活を変える。それは間違いなく心の平安をもたらすだろうが、真の幸福をもたらすかといえば、それはまた別の、もっと大きな問題ではあるが・・・。
読んでいて、ひとつ思い出したことがある。
それは、「覚(さとり)」という妖怪のことだ。
ウィキペディアによると・・・
「覚(さとり)は、飛騨や美濃の山奥に住むと言われている妖怪で、こちらの思っていること全てを見透かし、こちらが口に出すよりも早くそれらをしゃべる」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A6%9A
と、ある。
当方が、妖怪事典なぞを見て、ほんと~に怖~く感じるのは、「トモカヅキ」である。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%88%E3%83%A2%E3%82%AB%E3%83%85%E3%82%AD
ひとり海中深くで作業する海部(あま)の前に立ち現れる妖怪が「トモカヅキ」であれば、ひとり山中深くで、作業する樵(きこり)の出会う妖怪が「覚(さとり)」であるように思う。
どちらも、ひとり、海・深く、山・深く、居ること、(つまり孤絶状態)から生じる。
一種の意識変容・変性意識がもたらす現象なのであろう。
まあ、それはそれとして、以下引用。
***********
そしてヴィパッサナー瞑想は、坐禅と違って、座っているときだけでなく一日中いつでもできる。通勤電車の中でも、歩きながらでも、食事をしながらでも。もし終日これを絶やさないことができたなら、あなたはもう仏陀(=目覚めた人)なのである!まあ、そこまでは行かなくとも、一日数十分ずつ半年ほどやってみただけの私にさえ、明らかな効果が実感できるのだ。
たとえば私は今朝、東京駅でちょっと急いでいたのでエスカレーターの右側を歩いて上ろうとしたところ、私の前の若い男が、右側に乗ったくせに妙にのろのろと歩く。私はむっと来て「こっち側に乗ったのならもっと速く歩けよ」と思った。その瞬間、「怒り」「焦る気もち」・・・というサティ(自覚)が自動的に入って、その気持ちが対象化され一つの出来事となって、しゅわっと消えたのである。以前なら無自覚に没入してしまったであろう感情の生起に、瞬時に気づくことができたわけである。まあ、いつもこんなに上手くいくわけではないが、この程度の効果があることは確かである。
座禅が煩悩まみれのこの世の生活から離れたただ在るだけの世界に人を連れ戻すのに対して、ヴィパッサナー瞑想は煩悩まみれのこの世の生活から離れたただ在るだけの世界にこの世の生活を変える。それは間違いなく心の平安をもたらすだろうが、真の幸福をもたらすかといえば、それはまた別の、もっと大きな問題ではあるが・・・。
感情とはそもそも何なのか:現代科学で読み解く感情のしくみと障害
- 作者: 乾 敏郎
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- 発売日: 2018/09/20
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3「瞑想のすすめ」永井均 [スピリチュアルな話題]
またまた永井均の「瞑想のすすめ」の引用なのであるが・・、
ふつう瞑想というと、思いを空無にしておこなうものとされている。しかし、そもそものところ、ブッダが教えたのは、ソノヨウナものでは、ない、と永井はいう。
それだけでもたいへん興味深いことである。それで、ご苦労さまなことに、新聞記事を引き移しているのだ。
引用文をご覧になるとわかるように、「気付き」という言葉が重要であるのがワカル。そうすると・・、
「ああ、アウェアネスのことね」などと、小賢しい思いが沸いてくる。
永井の実行している瞑想は、そういう時、
「ああ、今、自分は、『ああ、アウェアネスのことね』と、考えている」
と、気づくことの大切さを教えている。
そうすることで、自分の本意を知ることができ、知ることができると、ソレが引き起こすつまらぬ感情(たとえば、思いあがり)を、除去して、今回(の更新)もまた読んでみようか・・と、謙遜な思いを保つこともできる。
永井の説く瞑想は、総じて、曲がりがちな人間精神を、健全に保つ土台となる貴重な「気付き」をもたらすもののようである。
(と、本当に永井が、そう言っているかどうかは、どうぞご当人の書くところを見て判断してくださいませ)
************
ちょっと哲学用語を使わせてもらえば、心の状態には「志向性」と呼ばれる働きがあって、これが働くと思ったことは客観的世界に届いてしまう。世界の客観的事実として「あの野郎」が何か酷いことをしたことになってしまうわけである。すると、作られたその「事実」に基づいて二次的な感情も湧き起こり、さらに行動に移されもする。その観点からの世界の見え方が次々と自動的に膨らんでいってしまうわけである。
志向性は言語の働きなのだが、ちょっと内観してみればすぐに分かるように、言語を持つわれわれは、黙っているときでも頭の中で言語を喋り続け、想念を流し続けている。ヴィパッサーナ瞑想の標的はまさにこれなのである。そうした想念の存在が気づかれ、客観的観点から明らかに見られると、想念のもつ志向性は奪われ、それが連鎖的に膨らんでいくことも、それに基づいた二次的な感情が起こって行動に移されることも、止められる。志向性が遮断されれば、心の状態は心の中で現に起こっている単なる出来事として、ただそれだけのものとなるからだ。
この世のあらゆる悩み苦しみは、われわれがつねに頭の中で流し続けている想念(のもつ志向性)が作り出しているものなので、それらが生まれる瞬間を捉えて、それを単なる出来事として見ることができれば、われわれはあらゆる苦悩から逃れることができることになる。過去に届く後悔や未来に届く心配も、瞬間的にその届かせる力を奪われてしまうことになる。想念が膨らんで力を持ってしまう前に気づくことが重要なので、気づきは早ければ早いほどよい。だから、ヴィパッサーナ瞑想では退屈している暇はない。
つづく
ふつう瞑想というと、思いを空無にしておこなうものとされている。しかし、そもそものところ、ブッダが教えたのは、ソノヨウナものでは、ない、と永井はいう。
それだけでもたいへん興味深いことである。それで、ご苦労さまなことに、新聞記事を引き移しているのだ。
引用文をご覧になるとわかるように、「気付き」という言葉が重要であるのがワカル。そうすると・・、
「ああ、アウェアネスのことね」などと、小賢しい思いが沸いてくる。
永井の実行している瞑想は、そういう時、
「ああ、今、自分は、『ああ、アウェアネスのことね』と、考えている」
と、気づくことの大切さを教えている。
そうすることで、自分の本意を知ることができ、知ることができると、ソレが引き起こすつまらぬ感情(たとえば、思いあがり)を、除去して、今回(の更新)もまた読んでみようか・・と、謙遜な思いを保つこともできる。
永井の説く瞑想は、総じて、曲がりがちな人間精神を、健全に保つ土台となる貴重な「気付き」をもたらすもののようである。
(と、本当に永井が、そう言っているかどうかは、どうぞご当人の書くところを見て判断してくださいませ)
************
ちょっと哲学用語を使わせてもらえば、心の状態には「志向性」と呼ばれる働きがあって、これが働くと思ったことは客観的世界に届いてしまう。世界の客観的事実として「あの野郎」が何か酷いことをしたことになってしまうわけである。すると、作られたその「事実」に基づいて二次的な感情も湧き起こり、さらに行動に移されもする。その観点からの世界の見え方が次々と自動的に膨らんでいってしまうわけである。
志向性は言語の働きなのだが、ちょっと内観してみればすぐに分かるように、言語を持つわれわれは、黙っているときでも頭の中で言語を喋り続け、想念を流し続けている。ヴィパッサーナ瞑想の標的はまさにこれなのである。そうした想念の存在が気づかれ、客観的観点から明らかに見られると、想念のもつ志向性は奪われ、それが連鎖的に膨らんでいくことも、それに基づいた二次的な感情が起こって行動に移されることも、止められる。志向性が遮断されれば、心の状態は心の中で現に起こっている単なる出来事として、ただそれだけのものとなるからだ。
この世のあらゆる悩み苦しみは、われわれがつねに頭の中で流し続けている想念(のもつ志向性)が作り出しているものなので、それらが生まれる瞬間を捉えて、それを単なる出来事として見ることができれば、われわれはあらゆる苦悩から逃れることができることになる。過去に届く後悔や未来に届く心配も、瞬間的にその届かせる力を奪われてしまうことになる。想念が膨らんで力を持ってしまう前に気づくことが重要なので、気づきは早ければ早いほどよい。だから、ヴィパッサーナ瞑想では退屈している暇はない。
つづく
2「瞑想のすすめ」永井均 [スピリチュアルな話題]
先回につづき、
永井均が日経新聞に寄稿した「瞑想のすすめ」からの抜粋。
「ヴィパッサナー瞑想」なるものについて、
「ヴィパッサナー瞑想」の方法、
「ヴィパッサナー瞑想」の核心、
「ヴィパッサナー瞑想」の重要な点について知ることができる。
(以下、抜粋。日経2/10 p32)
**********
今やっているのは、見かけは座禅とそっくりだが中身はまったく違うヴィパッサナー瞑想といわれるもの。
ヴィパッサナーとは「明らかに見る」という意味のパーリ語で、原始仏教の経典に拠るものなのでこちらの方が仏陀自身の瞑想法に近いともいわれる。
わかりやすい根拠を一つ挙げれば、岩波文庫の『ブッダのことば』(中村元訳)の中で、仏陀は、学生アジタの「煩悩の流れをせき止めるものは何か」という問いに、それは「気をつけることである」と答えている。
随分つまらない答えだなと思われるかもしれないが、中村訳で「気をつける」と訳されているのは「気づく」「自覚する」という意味のパーリ語の「サティ」で、実はこれこそがヴィパッサナー瞑想の核心なのである。
やり方は簡単である。まずは座禅の格好で座り、呼吸に意識を集中する。
座禅と違うところは、次々と浮かんでくる想念を単なる夾雑物とみなさないで、いちいち気づいて、明らかに見ていくところである。呼吸に集中するのは、そうするための手段にすぎない。
重要なことは、浮かんでくる想念と一体化して、その立場に立って世界を見てしまわずに、逆に、客観的視点に立って、その想念を一つの出来事として見ることである。
感覚の場合なら、「鼻がかゆい」と捉えずに「そこにかゆみがある」と捉える。
同僚の誰かの姿が思い浮かび、「あの野郎~しやがって」と思ったなら、そう感じているその立場に没入してしまわずに、客観的視点から「誰誰の顔が思い浮かんで、あの野郎~しやがって、という思いが生じた」と見る。
客観的視点に立てれば、それをたとえば「嫉妬」と本質洞察することもできる。嫉妬している視点に没入してしまえば「嫉妬している」という本質は決して見えないが、客観視できればその本質を見ることも可能となるからである。
(だが、次の段階では、この本質洞察それ自体もまた一つの出来事として見ることができなければならない)
つづく
永井均が日経新聞に寄稿した「瞑想のすすめ」からの抜粋。
「ヴィパッサナー瞑想」なるものについて、
「ヴィパッサナー瞑想」の方法、
「ヴィパッサナー瞑想」の核心、
「ヴィパッサナー瞑想」の重要な点について知ることができる。
(以下、抜粋。日経2/10 p32)
**********
今やっているのは、見かけは座禅とそっくりだが中身はまったく違うヴィパッサナー瞑想といわれるもの。
ヴィパッサナーとは「明らかに見る」という意味のパーリ語で、原始仏教の経典に拠るものなのでこちらの方が仏陀自身の瞑想法に近いともいわれる。
わかりやすい根拠を一つ挙げれば、岩波文庫の『ブッダのことば』(中村元訳)の中で、仏陀は、学生アジタの「煩悩の流れをせき止めるものは何か」という問いに、それは「気をつけることである」と答えている。
随分つまらない答えだなと思われるかもしれないが、中村訳で「気をつける」と訳されているのは「気づく」「自覚する」という意味のパーリ語の「サティ」で、実はこれこそがヴィパッサナー瞑想の核心なのである。
やり方は簡単である。まずは座禅の格好で座り、呼吸に意識を集中する。
座禅と違うところは、次々と浮かんでくる想念を単なる夾雑物とみなさないで、いちいち気づいて、明らかに見ていくところである。呼吸に集中するのは、そうするための手段にすぎない。
重要なことは、浮かんでくる想念と一体化して、その立場に立って世界を見てしまわずに、逆に、客観的視点に立って、その想念を一つの出来事として見ることである。
感覚の場合なら、「鼻がかゆい」と捉えずに「そこにかゆみがある」と捉える。
同僚の誰かの姿が思い浮かび、「あの野郎~しやがって」と思ったなら、そう感じているその立場に没入してしまわずに、客観的視点から「誰誰の顔が思い浮かんで、あの野郎~しやがって、という思いが生じた」と見る。
客観的視点に立てれば、それをたとえば「嫉妬」と本質洞察することもできる。嫉妬している視点に没入してしまえば「嫉妬している」という本質は決して見えないが、客観視できればその本質を見ることも可能となるからである。
(だが、次の段階では、この本質洞察それ自体もまた一つの出来事として見ることができなければならない)
つづく
翔太と猫のインサイトの夏休み―哲学的諸問題へのいざない (ちくま学芸文庫)
- 作者: 永井 均
- 出版社/メーカー: 筑摩書房
- 発売日: 2007/08
- メディア: 文庫
1「瞑想のすすめ」永井均 [スピリチュアルな話題]
日経新聞(2・10)文化面に、永井均が「瞑想のすすめ」と題して寄稿している。
「永井均?どこかで聞いたぞ・・、もしや・・、『哲学の木』の著者のひとりでもあり、序文を書いた人物では・・」と、確かめると、オオアタリであった。
つまり、哲学とはなんたるかを教示してくれた、(面識はないものの)当方の恩人である。
http://bookend.blog.so-net.ne.jp/2008-05-07
で、日大の哲学の教授が、なぜ「瞑想のすすめ」を?哲学から宗教へ宗旨替え?と、興味をもって読んだのだが・・
さすがに、哲学の教授だけあって、紹介しているのは、ただの瞑想ではない。
「ヴィパッサナー瞑想」と呼ばれるモノ。
つづく
「永井均?どこかで聞いたぞ・・、もしや・・、『哲学の木』の著者のひとりでもあり、序文を書いた人物では・・」と、確かめると、オオアタリであった。
つまり、哲学とはなんたるかを教示してくれた、(面識はないものの)当方の恩人である。
http://bookend.blog.so-net.ne.jp/2008-05-07
で、日大の哲学の教授が、なぜ「瞑想のすすめ」を?哲学から宗教へ宗旨替え?と、興味をもって読んだのだが・・
さすがに、哲学の教授だけあって、紹介しているのは、ただの瞑想ではない。
「ヴィパッサナー瞑想」と呼ばれるモノ。
つづく
久しぶりに『モモ』を見る [スピリチュアルな話題]
『モモ』は、桃ではなく、M・エンデの作品。
『モモ』は映画化もされている。
『ネバー・エンディング・ストーリー』は、その映画化に関し、制作会社と著者エンデとの間でモメにモメ、訴訟にまで発展したが、『モモ』に関しては、作者自身が、出演しているから、著者のおメガネにかなった、お墨付きを得た映画であるのはマチガイない。
原作を読んでいないのでわからないのだが、映画では、ナレーション・進行役もつとめるマイスター・ホラ(ジョン・ヒューストン)から、特殊なメガネを渡されたエンデが、メガネを覗き見、また、ホラから話を聞いて、それをしたためたモノが、『モモ』の物語である、という設定になっている。
映画のなかで、『転生』をエンデが信じていたと思わせるようなセリフがある。道路掃除人ベッポがモモに言う。
「今、ふたりはこうしてローマの円形劇場の跡に立っているが、大昔、ふたりは別なスガタでここにこうして居たかもしれない」
そういうベッポを見て、頭がおかしいという身振りをする友人がいる。
そのような場面から、「転生」に類する宗教的な考えを、フツウ一般の人がただちには了解できないことを、エンデが十分承知したうえで、話をすすめている様子がわかる。
時間泥棒に時間を奪われ、人間らしさを失い、カネもうけにあくせくする現代人の、あくせく病の原因は、「命の意味を知らないから」とホラは言う。「命は永遠」であり、そのことを知ってさえいれば、人生の終わり(つまり、死)をおそれて、あくせくすることはなく、ムダな時間をムダと思うことなく愉しむことさえできる、とホラは言う。
エンデは、いわゆる「霊魂不滅」というカタチで、「永遠の命」を信じていたようである。
『永遠の命』という考えは、聖書中にも記されてある。創造者・神は、霊的な存在として永遠の命(不滅性)を持つものとして描かれている。人間も、創造者だけがもつ(善悪を定める)権利を尊重してさえいれば、死ぬことはなく、全地球的規模に「エデン(愉しみ・喜び)の園」を広げ、維持する仕事を子々孫々永遠に楽しむことができた。人間は、元来、(「あの世」ではなく)地球上で永遠に生きるものとして創造された・・と、聖書には教えられてある。
エンデが考えていた「永遠の命」は、聖書的なモノというより、自身、影響を受けてきたシュタイナーの思想から出ているようである。エンデは胃がんで亡くなったが、親しかった子安美知子が、「エンデは死に際し、死をしずかに受け入れ、ちょうど、隣の部屋にでも行くようにして亡くなった・・」、と(新聞に)記していたのを覚えている。
エンデ自身は、心臓が止まり、息絶えても、次の(霊的な)命へと移行するだけで、なんの心配もないと固く信じていたようである。
そのような考えを、万人と分かつことはできないことをエンデは重々承知していたにちがいない。それでも、自らは、確かにそう信じていたので、“しずかに”死を迎え入れることができたのであろう。
その教えが“真実かどうかは別にして”、ほんとうに信じる者にとって、信仰がたしかな力となるのは、マチガイない。
『モモ』は映画化もされている。
『ネバー・エンディング・ストーリー』は、その映画化に関し、制作会社と著者エンデとの間でモメにモメ、訴訟にまで発展したが、『モモ』に関しては、作者自身が、出演しているから、著者のおメガネにかなった、お墨付きを得た映画であるのはマチガイない。
原作を読んでいないのでわからないのだが、映画では、ナレーション・進行役もつとめるマイスター・ホラ(ジョン・ヒューストン)から、特殊なメガネを渡されたエンデが、メガネを覗き見、また、ホラから話を聞いて、それをしたためたモノが、『モモ』の物語である、という設定になっている。
映画のなかで、『転生』をエンデが信じていたと思わせるようなセリフがある。道路掃除人ベッポがモモに言う。
「今、ふたりはこうしてローマの円形劇場の跡に立っているが、大昔、ふたりは別なスガタでここにこうして居たかもしれない」
そういうベッポを見て、頭がおかしいという身振りをする友人がいる。
そのような場面から、「転生」に類する宗教的な考えを、フツウ一般の人がただちには了解できないことを、エンデが十分承知したうえで、話をすすめている様子がわかる。
時間泥棒に時間を奪われ、人間らしさを失い、カネもうけにあくせくする現代人の、あくせく病の原因は、「命の意味を知らないから」とホラは言う。「命は永遠」であり、そのことを知ってさえいれば、人生の終わり(つまり、死)をおそれて、あくせくすることはなく、ムダな時間をムダと思うことなく愉しむことさえできる、とホラは言う。
エンデは、いわゆる「霊魂不滅」というカタチで、「永遠の命」を信じていたようである。
『永遠の命』という考えは、聖書中にも記されてある。創造者・神は、霊的な存在として永遠の命(不滅性)を持つものとして描かれている。人間も、創造者だけがもつ(善悪を定める)権利を尊重してさえいれば、死ぬことはなく、全地球的規模に「エデン(愉しみ・喜び)の園」を広げ、維持する仕事を子々孫々永遠に楽しむことができた。人間は、元来、(「あの世」ではなく)地球上で永遠に生きるものとして創造された・・と、聖書には教えられてある。
エンデが考えていた「永遠の命」は、聖書的なモノというより、自身、影響を受けてきたシュタイナーの思想から出ているようである。エンデは胃がんで亡くなったが、親しかった子安美知子が、「エンデは死に際し、死をしずかに受け入れ、ちょうど、隣の部屋にでも行くようにして亡くなった・・」、と(新聞に)記していたのを覚えている。
エンデ自身は、心臓が止まり、息絶えても、次の(霊的な)命へと移行するだけで、なんの心配もないと固く信じていたようである。
そのような考えを、万人と分かつことはできないことをエンデは重々承知していたにちがいない。それでも、自らは、確かにそう信じていたので、“しずかに”死を迎え入れることができたのであろう。
その教えが“真実かどうかは別にして”、ほんとうに信じる者にとって、信仰がたしかな力となるのは、マチガイない。
「モモ」を読む―シュタイナーの世界観を地下水として (朝日文庫)
- 作者: 子安 美知子
- 出版社/メーカー: 朝日新聞社
- 発売日: 1991/01
- メディア: 文庫
3:マイケル・ジャクソンのこと(彼の宗教・意識について) [スピリチュアルな話題]
本人は自分の宗教についてなんと述べていたのだろうと思う。
信仰がないと言う人でも、まったくないわけではない。カネが自分の生活の中心になって、カネに支配され奴隷とされている人はカネを神とし信仰していると言えるだろうし、自分のことが生活の中心の人は自分を神としていると言えるだろう。
多くの者らから“pop of king”として「王様」扱いされたマイケルのことであるから、自分のことをそのように見做したとしてもおかしくはない。自分を王として高め、それが過度に及ぶなら、自分を神として扱うようにもなりえただろう。
彼について詳しく知らないが、”THIS IS IT”を見る限り、そのようには感じない。出演者たちもマイケルのことをhumbleであると評していた。一緒に、ステージをつくっていくことを楽しみ、和(輪)を大切にする様子は、どこか日本的なものを感じさせられもする。
マイケル・ジャクソンの生い立ち、家族のことを調べているうちに彼の母親にかんして興味深い記事をみつけた。ウィキペディアには、マイケル・ジャクソンの家族の項目も立てられている。彼の母親Katherine Jacksonの項目のReligionの項目にはJehovah's Witnessとあって、つぎのような解説も出ていた。
In 1963, Katherine, who was born a Baptist, discovered the Jehovah's Witness faith. After her conversion in 1965, all of her children followed her into the faith.
http://en.wikipedia.org/wiki/Katherine_Jackson#Death_of_Michael_Jackson
同じく、マイケルの姉にあたる La Toya Jacksonの項目には、
After her mother became a member of the Jehovah's Witnesses in 1965, La Toya, along with the rest of her siblings followed. She would spend some of her time (alongside her mother) preaching door-to-door. "Every morning, Michael and I witnessed, knocking on doors around Los Angeles, spreading the word of Jehovah."[1]
と、記されている。
http://en.wikipedia.org/wiki/La_Toya_Jackson
また、YOUTUBEには、以下のような動画も投稿されている。
http://www.youtube.com/watch?v=gXanzN-lKqg&feature=channel&list=UL
しかし、Michael Jackson“ left ”the Jehovah's Witnesses.という話しもある。
実際のところ、マイケル自身についてはどうであったのだろうか?
http://www.youtube.com/watch?v=OGqop7cyxgA&feature=related
信仰がないと言う人でも、まったくないわけではない。カネが自分の生活の中心になって、カネに支配され奴隷とされている人はカネを神とし信仰していると言えるだろうし、自分のことが生活の中心の人は自分を神としていると言えるだろう。
多くの者らから“pop of king”として「王様」扱いされたマイケルのことであるから、自分のことをそのように見做したとしてもおかしくはない。自分を王として高め、それが過度に及ぶなら、自分を神として扱うようにもなりえただろう。
彼について詳しく知らないが、”THIS IS IT”を見る限り、そのようには感じない。出演者たちもマイケルのことをhumbleであると評していた。一緒に、ステージをつくっていくことを楽しみ、和(輪)を大切にする様子は、どこか日本的なものを感じさせられもする。
マイケル・ジャクソンの生い立ち、家族のことを調べているうちに彼の母親にかんして興味深い記事をみつけた。ウィキペディアには、マイケル・ジャクソンの家族の項目も立てられている。彼の母親Katherine Jacksonの項目のReligionの項目にはJehovah's Witnessとあって、つぎのような解説も出ていた。
In 1963, Katherine, who was born a Baptist, discovered the Jehovah's Witness faith. After her conversion in 1965, all of her children followed her into the faith.
http://en.wikipedia.org/wiki/Katherine_Jackson#Death_of_Michael_Jackson
同じく、マイケルの姉にあたる La Toya Jacksonの項目には、
After her mother became a member of the Jehovah's Witnesses in 1965, La Toya, along with the rest of her siblings followed. She would spend some of her time (alongside her mother) preaching door-to-door. "Every morning, Michael and I witnessed, knocking on doors around Los Angeles, spreading the word of Jehovah."[1]
と、記されている。
http://en.wikipedia.org/wiki/La_Toya_Jackson
また、YOUTUBEには、以下のような動画も投稿されている。
http://www.youtube.com/watch?v=gXanzN-lKqg&feature=channel&list=UL
しかし、Michael Jackson“ left ”the Jehovah's Witnesses.という話しもある。
実際のところ、マイケル自身についてはどうであったのだろうか?
http://www.youtube.com/watch?v=OGqop7cyxgA&feature=related
マイケル・ジャクソン THIS IS IT デラックス・コレクターズ・エディション(2枚組) [DVD]
- 出版社/メーカー: ソニー・ピクチャーズエンタテインメント
- メディア: DVD
ユタ州で思いだした、モルモン教 [スピリチュアルな話題]
今でも頑張っているのだろうか・・
外人青年がふたり、必ず組になって、特徴のあるヘルメットをかぶり、自転車に乗って布教活動をしていた。モルモン教の宣教師である。
かれこれ40年近く前の高校時代の話。英語を学べるというので、モルモン教会に足を運んだことがある。当時、生の英語に接する機会はほとんど無かったし、そうした機会が得られるというので、勇んで出かけたのだ。誘ってくれた級友は、すでに洗礼を受け、モルモン教徒になっていたらしいのだが・・。
行きはじめた当初、外人青年が英語会話の相手となってくれた。名前を覚えている。ひとりはアマテッジと言った。若いのに、みな彼を「長老」と呼んでいた。日本語をしゃべると「英語を使え」と言われた。
聖書の話も出た。イエス・キリストの話も出た。“Christ hung on the cross・・” と言うので、“首を”hungされたのかとジェスチャーをして当方は応じた。その程度であるから、およそ信仰から遠いところに自分はいた。
それでも、なんとか信者にしたいというのが、相手の意向であったようである。もっとも、そのことに気付かずに出かけたのだから、やはり若かったのである。今でも、大学などで、若者を、本題から離れたところから始まって、徐々に勧誘していくのが、怪しげな(怪しい)宗教の常套手段であるように聞く。英語スキーなどのサークル活動を表向きの理由にして勧誘し、ついには、山里などへ連れて行き、信者の中に逃げられないようにして入れ、皆でよってたかって偏った(間違った)観念を植え付ける・・、いわゆる、「マインドコントロール」である。
何度か通ううちに、日本人の「長老」も加わっての“まじめな”勧誘になった。だが、応じなかった。
モルモン教のハジマリについての紙芝居を見せられた。覚えているソノ内容は・・、
アメリカでの話。ジョセフ・スミスという若者が、街のなかで生じている、同じキリスト教徒同士の(宗派の違いによる)争いを見て、たいへん辛く悲しい思いをしていた。そのことで神に祈っていたところ、インディアンの姿をした天使があらわれて、どこどこを掘れという。そして、そこを掘ったところ、解読不能の文字の記された黄金の板が出てきた。天使の助けを得て、ソレを翻訳したものが、「モルモン経(けい)」というモルモン教の聖典なのだ、という・・・、
自分は、反論した。
もし神と呼びうる存在が確かにいて、ジョセフ・スミスの祈りにこたえようとするなら、新たに「モルモン経」など与えて、新たな教派を起こすだろうか。かえってソノことはさらなる混乱を生み、悲しみを増やすに過ぎないのではないのか。本当に、聖書の著者と呼びうる神がいるのであるなら、正典とすでに見なされている聖書ソノモノに注意を促すのではないのか・・・、
・・・その後、モルモン教会に、足を運んだことはない。
外人青年が、ふたりして、自転車でやって来ることもない。
外人青年がふたり、必ず組になって、特徴のあるヘルメットをかぶり、自転車に乗って布教活動をしていた。モルモン教の宣教師である。
かれこれ40年近く前の高校時代の話。英語を学べるというので、モルモン教会に足を運んだことがある。当時、生の英語に接する機会はほとんど無かったし、そうした機会が得られるというので、勇んで出かけたのだ。誘ってくれた級友は、すでに洗礼を受け、モルモン教徒になっていたらしいのだが・・。
行きはじめた当初、外人青年が英語会話の相手となってくれた。名前を覚えている。ひとりはアマテッジと言った。若いのに、みな彼を「長老」と呼んでいた。日本語をしゃべると「英語を使え」と言われた。
聖書の話も出た。イエス・キリストの話も出た。“Christ hung on the cross・・” と言うので、“首を”hungされたのかとジェスチャーをして当方は応じた。その程度であるから、およそ信仰から遠いところに自分はいた。
それでも、なんとか信者にしたいというのが、相手の意向であったようである。もっとも、そのことに気付かずに出かけたのだから、やはり若かったのである。今でも、大学などで、若者を、本題から離れたところから始まって、徐々に勧誘していくのが、怪しげな(怪しい)宗教の常套手段であるように聞く。英語スキーなどのサークル活動を表向きの理由にして勧誘し、ついには、山里などへ連れて行き、信者の中に逃げられないようにして入れ、皆でよってたかって偏った(間違った)観念を植え付ける・・、いわゆる、「マインドコントロール」である。
何度か通ううちに、日本人の「長老」も加わっての“まじめな”勧誘になった。だが、応じなかった。
モルモン教のハジマリについての紙芝居を見せられた。覚えているソノ内容は・・、
アメリカでの話。ジョセフ・スミスという若者が、街のなかで生じている、同じキリスト教徒同士の(宗派の違いによる)争いを見て、たいへん辛く悲しい思いをしていた。そのことで神に祈っていたところ、インディアンの姿をした天使があらわれて、どこどこを掘れという。そして、そこを掘ったところ、解読不能の文字の記された黄金の板が出てきた。天使の助けを得て、ソレを翻訳したものが、「モルモン経(けい)」というモルモン教の聖典なのだ、という・・・、
自分は、反論した。
もし神と呼びうる存在が確かにいて、ジョセフ・スミスの祈りにこたえようとするなら、新たに「モルモン経」など与えて、新たな教派を起こすだろうか。かえってソノことはさらなる混乱を生み、悲しみを増やすに過ぎないのではないのか。本当に、聖書の著者と呼びうる神がいるのであるなら、正典とすでに見なされている聖書ソノモノに注意を促すのではないのか・・・、
・・・その後、モルモン教会に、足を運んだことはない。
外人青年が、ふたりして、自転車でやって来ることもない。
Holy Bible: Contemporary English Version
- 作者:
- 出版社/メーカー: Amer Bible Society
- 発売日: 2000/10
- メディア: ペーパーバック
キム・ジョンイルの遺体 [スピリチュアルな話題]
キム・ジョンイルの遺体は偶像崇拝に利用されるのだろうか。
ちょうどレーニンの遺体がエンバーミング処理されて、いわばソノヨウニ利用されてきたように。
(下記URLはウィキペディア「エンバーミング」の項)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%B3%E3%83%90%E3%83%BC%E3%83%9F%E3%83%B3%E3%82%B0#.E4.B8.96.E7.95.8C.E3.81.AB.E3.81.8A.E3.81.91.E3.82.8B.E3.82.A8.E3.83.B3.E3.83.90.E3.83.BC.E3.83.9F.E3.83.B3.E3.82.B0
ジョンイルの父、金日成の巨大な像。その高さは、バビロニアの王ネブカドネザルがドラに建てた像とほぼ同じ高さ(25m)だ。
父は巨大な像となり、子はエンバーミングの道に進むのであろうか。
そのようにして、不安定な国情のなかでの国家統一をこれからも人民に課していくのだろうか。
ちなみに、聖書の神はあらゆる偶像崇拝を認めていない。「十戒」には次のようにある。
《4あなたは自分のために,上は天にあるもの,下は地にあるもの,また地の下の水の中にあるものに似せたいかなる彫刻像や形も作ってはならない。 5 それに身をかがめてはならず,さそわれてそれに仕えてもならない。あなたの神であるわたしエホバは全き専心を要求する神であり・・・》(出エジプト記20章)と、ある。
モーセはイスラエルの指導者であり、エホバからシナイ山で十戒を託された人物であるが、そのモーセの死後、その遺体について論争が起こったことがユダ書に記されている。
もっとも、人間の目には見えない天での出来事として次のように記されている。
《しかし,み使いの頭ミカエルは,悪魔と意見を異にし,モーセの体について論じ合った時,彼に対しあえてあしざまな言い方で裁きをもたらそうとはせず,ただ,「エホバがあなたを叱責されるように」と言いました。》(ユダ9節)
この聖句に関するある注釈書には次のような説明が付されている。
「サタンがモーセの体を使って何をしたかったのかをユダは述べていませんが,悪魔に何らかのよこしまな意図があったことは確かです忠実な人モーセの遺骸を偽りの崇拝で誤用させようと思ったのかもしれません。ミカエルはサタンの邪悪な企てに抵抗すると同時に,注目に値する自己抑制を示しました。サタンは叱責されても当然でしたが,ミカエルは,サタンと論じ合った時点ではまだ「裁くことをすべて」ゆだねられてはいなかったので,このような裁きを下せるのはエホバ神だけだと考えました。(ヨハネ5:22)み使いの頭ミカエルは広範な権威を持っていましたが,謙遜にエホバに服しました。さらに権威を手に入れようとはしなかったのです。謙遜さに加えて,慎み,つまり自分の限界を自覚していることも示しました。」(「来て,わたしの追随者になりなさい」:ものみの塔聖書冊子協会発行2007)
偶像崇拝によって、真の神への崇拝が不明瞭にされてきた。
偶像崇拝によって、さまざまな分裂が生じ多くの血が流されてきた。
真の神が偶像崇拝を嫌悪されるのは当然である。
ちょうどレーニンの遺体がエンバーミング処理されて、いわばソノヨウニ利用されてきたように。
(下記URLはウィキペディア「エンバーミング」の項)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%B3%E3%83%90%E3%83%BC%E3%83%9F%E3%83%B3%E3%82%B0#.E4.B8.96.E7.95.8C.E3.81.AB.E3.81.8A.E3.81.91.E3.82.8B.E3.82.A8.E3.83.B3.E3.83.90.E3.83.BC.E3.83.9F.E3.83.B3.E3.82.B0
ジョンイルの父、金日成の巨大な像。その高さは、バビロニアの王ネブカドネザルがドラに建てた像とほぼ同じ高さ(25m)だ。
父は巨大な像となり、子はエンバーミングの道に進むのであろうか。
そのようにして、不安定な国情のなかでの国家統一をこれからも人民に課していくのだろうか。
ちなみに、聖書の神はあらゆる偶像崇拝を認めていない。「十戒」には次のようにある。
《4あなたは自分のために,上は天にあるもの,下は地にあるもの,また地の下の水の中にあるものに似せたいかなる彫刻像や形も作ってはならない。 5 それに身をかがめてはならず,さそわれてそれに仕えてもならない。あなたの神であるわたしエホバは全き専心を要求する神であり・・・》(出エジプト記20章)と、ある。
モーセはイスラエルの指導者であり、エホバからシナイ山で十戒を託された人物であるが、そのモーセの死後、その遺体について論争が起こったことがユダ書に記されている。
もっとも、人間の目には見えない天での出来事として次のように記されている。
《しかし,み使いの頭ミカエルは,悪魔と意見を異にし,モーセの体について論じ合った時,彼に対しあえてあしざまな言い方で裁きをもたらそうとはせず,ただ,「エホバがあなたを叱責されるように」と言いました。》(ユダ9節)
この聖句に関するある注釈書には次のような説明が付されている。
「サタンがモーセの体を使って何をしたかったのかをユダは述べていませんが,悪魔に何らかのよこしまな意図があったことは確かです忠実な人モーセの遺骸を偽りの崇拝で誤用させようと思ったのかもしれません。ミカエルはサタンの邪悪な企てに抵抗すると同時に,注目に値する自己抑制を示しました。サタンは叱責されても当然でしたが,ミカエルは,サタンと論じ合った時点ではまだ「裁くことをすべて」ゆだねられてはいなかったので,このような裁きを下せるのはエホバ神だけだと考えました。(ヨハネ5:22)み使いの頭ミカエルは広範な権威を持っていましたが,謙遜にエホバに服しました。さらに権威を手に入れようとはしなかったのです。謙遜さに加えて,慎み,つまり自分の限界を自覚していることも示しました。」(「来て,わたしの追随者になりなさい」:ものみの塔聖書冊子協会発行2007)
偶像崇拝によって、真の神への崇拝が不明瞭にされてきた。
偶像崇拝によって、さまざまな分裂が生じ多くの血が流されてきた。
真の神が偶像崇拝を嫌悪されるのは当然である。