「渡部昇一は篤いクリスチャン」?(松崎 之貞著『評伝 渡部昇一』から) [スピリチュアルな話題]
『評伝 渡部昇一』の最終章最後のパラグラフは「渡部昇一は篤いクリスチャンであった。」と始まる。
しかし、書籍中、渡部さんが「篤いクリスチャン」であったことを示す記述は多くはない。
「カトリックへの改宗」において、上智大の哲学教授で神父でもあったボッシュから洗礼をほどこされたことが記されている。仏教からカトリックへの改宗の決断となったのが、パスカルの『瞑想録』中にある「神が存在するか否か」をめぐる「賭の精神」(ラフュマ版の断章418)に出会っての衝撃であったという。
その部分を引用すると・・・
じっさい、「神は存在する」に賭けて、神がいたら大いなる悦びを得るが、神が存在しなくてもそれだけの話である。逆に、「神は存在しない」に賭けて、神がいなかったら、やはりそれまでの話だが、もし神が存在したなら・・・そのギャンブラーは神からどれほどの怒りを買うことだろう。そうであれば、ためらうことなく「神は存在する」のほうに賭けるべきだというのがパスカルの意見であった。 / 若き渡部昇一はこのくだりを読み、そしてパスカルが二度までも神の奇蹟を体験し、回心したことを知ってキリスト教への改宗を考えはじめた。・・中略・・『パンセ』の「賭けの精神」とパスカルの二度におよぶ奇蹟体験は一種のスプリングボードとなった。青年・渡部はしばらく迷った挙句、カトリックの洗礼を受けた。霊名は神学者トマス・アクィナスにちなんだ「トマス」であった。p40-42
また、「きちんと洗礼を受けたカトリック男性」渡部昇一わかき日の印象を奥さま(渡部夫人)が語っての記述。
主人のことは母がとても気に入ったんです。教師をしていた母の教え子の方の紹介でしたし、きちんと洗礼を受けたカトリックの男性というのは当時だって珍しかったから。ええ、うちもカトリックなんです。それに、カトリックは離婚ができないでしょう。一度嫁に出せば一生安心じゃありませんか(笑)・・中略・・デートの日にちを決めたら絶対に変更しない。遅刻しない。それから、機嫌がいい日と悪い日がないんです。それはいいことだなと思いました。
(「追悼『知の巨人』渡部昇一」(WAC)に寄せた「30回目のお見合い結婚」)
そして、最終章「エピローグ」、2017年5月30日の渡部昇一追悼ミサの記述となる。
上智大で長く渡部の同僚としてすごしてきた司祭のピーター・ミルワードがミサを司り・・・
「山形県の鶴岡市に生まれたワタナベ先生は田舎者でした。ストラッドフォードのシェイクスピアも、ナザレのイエスも、いい人はみな田舎者です。心の田舎者です。さいわいなるかな、心の田舎者よ」と説いた。p268,9
(ちなみに、弔辞に立ったのは石原慎太郎、参列者のなかには麻生太郎などの姿が見られ、「献花がはじまったとき駆けつけたのが首相・安倍晋三と防衛大臣の稲田朋美であった」と記されている。)
宗教(カトリック)に直接言及しているのは、以上がすべてであるように思う。洗礼を受けて、死に至るまで、離婚することなく、立派に家族を養い治め、子どもたちを社会に送り出したこと、教育者・文化人として明るい人柄で慕われたこと、それ自体りっぱな宗教の実践といえる。
ただしかし・・である。次のイエス・キリストの「山上の垂訓」にある有名な言葉が思い浮かぶ。
その言葉は、イエス・キリストを「主」と呼ぶ者、自分はクリスチャンであると称する者らに、常に自己吟味を促す言葉となっている。
「わたしに向かって,『主よ,主よ』と言う者がみな天の王国に入るのではなく,天におられるわたしの父のご意志を行なう者が入るのです。 その日には,多くの者がわたしに向かって,『主よ,主よ,わたしたちはあなたの名において預言し,あなたの名において悪霊たちを追い出し,あなたの名において強力な業を数多く成し遂げなかったでしょうか』と言うでしょう。 しかしその時,わたしは彼らにはっきり言います。わたしは決してあなた方を知らない,不法を働く者たちよ,わたしから離れ去れ,と。」 (マタイ7:21~23)
この場合の「天におられるわたしの父のご意志」とは、イエス・キリストが地上で行った活動であり、命じたことを指している。それは、今もクリスチャンの担うべきつとめである。
その時からイエスは伝道を開始して,「あなた方は悔い改めなさい。天の王国は近づいたからです」と言いはじめられた。(マタイ4:17)
すると,イエスは近づいて来て,彼らにこう話された。「わたしは天と地におけるすべての権威を与えられています。 それゆえ,行って,すべての国の人々を弟子とし,父と子と聖霊との名において彼らにバプテスマを施し, わたしがあなた方に命令した事柄すべてを守り行なうように教えなさい」(マタイ28:18-20)
そして,王国のこの良いたよりは,あらゆる国民に対する証しのために,人の住む全地で宣べ伝えられるでしょう。それから終わりが来るのです。 (マタイ24:14)
「篤いクリスチャン」であるかどうか、あったかどうかは、聖書の言葉で計られねばならない。
これは、クリスチャンを自称する者すべてにとって、たいへん身の引き締まる言葉である。
オンライン聖書(新世界訳)
https://www.jw.org/ja/%E5%87%BA%E7%89%88%E7%89%A9/%E8%81%96%E6%9B%B8/bi12/%E5%90%84%E6%9B%B8/
口語訳聖書
http://bible.salterrae.net/kougo/html/
文語訳
http://jcl.ibibles.net/
しかし、書籍中、渡部さんが「篤いクリスチャン」であったことを示す記述は多くはない。
「カトリックへの改宗」において、上智大の哲学教授で神父でもあったボッシュから洗礼をほどこされたことが記されている。仏教からカトリックへの改宗の決断となったのが、パスカルの『瞑想録』中にある「神が存在するか否か」をめぐる「賭の精神」(ラフュマ版の断章418)に出会っての衝撃であったという。
その部分を引用すると・・・
じっさい、「神は存在する」に賭けて、神がいたら大いなる悦びを得るが、神が存在しなくてもそれだけの話である。逆に、「神は存在しない」に賭けて、神がいなかったら、やはりそれまでの話だが、もし神が存在したなら・・・そのギャンブラーは神からどれほどの怒りを買うことだろう。そうであれば、ためらうことなく「神は存在する」のほうに賭けるべきだというのがパスカルの意見であった。 / 若き渡部昇一はこのくだりを読み、そしてパスカルが二度までも神の奇蹟を体験し、回心したことを知ってキリスト教への改宗を考えはじめた。・・中略・・『パンセ』の「賭けの精神」とパスカルの二度におよぶ奇蹟体験は一種のスプリングボードとなった。青年・渡部はしばらく迷った挙句、カトリックの洗礼を受けた。霊名は神学者トマス・アクィナスにちなんだ「トマス」であった。p40-42
また、「きちんと洗礼を受けたカトリック男性」渡部昇一わかき日の印象を奥さま(渡部夫人)が語っての記述。
主人のことは母がとても気に入ったんです。教師をしていた母の教え子の方の紹介でしたし、きちんと洗礼を受けたカトリックの男性というのは当時だって珍しかったから。ええ、うちもカトリックなんです。それに、カトリックは離婚ができないでしょう。一度嫁に出せば一生安心じゃありませんか(笑)・・中略・・デートの日にちを決めたら絶対に変更しない。遅刻しない。それから、機嫌がいい日と悪い日がないんです。それはいいことだなと思いました。
(「追悼『知の巨人』渡部昇一」(WAC)に寄せた「30回目のお見合い結婚」)
月刊WiLL (ウィル)2017年7月号増刊 歴史通 追悼「知の巨人」渡部昇一 まるごと一冊 永久保存版
- 作者:
- 出版社/メーカー: ワック
- 発売日: 2017/06/06
- メディア: 雑誌
そして、最終章「エピローグ」、2017年5月30日の渡部昇一追悼ミサの記述となる。
上智大で長く渡部の同僚としてすごしてきた司祭のピーター・ミルワードがミサを司り・・・
「山形県の鶴岡市に生まれたワタナベ先生は田舎者でした。ストラッドフォードのシェイクスピアも、ナザレのイエスも、いい人はみな田舎者です。心の田舎者です。さいわいなるかな、心の田舎者よ」と説いた。p268,9
(ちなみに、弔辞に立ったのは石原慎太郎、参列者のなかには麻生太郎などの姿が見られ、「献花がはじまったとき駆けつけたのが首相・安倍晋三と防衛大臣の稲田朋美であった」と記されている。)
宗教(カトリック)に直接言及しているのは、以上がすべてであるように思う。洗礼を受けて、死に至るまで、離婚することなく、立派に家族を養い治め、子どもたちを社会に送り出したこと、教育者・文化人として明るい人柄で慕われたこと、それ自体りっぱな宗教の実践といえる。
ただしかし・・である。次のイエス・キリストの「山上の垂訓」にある有名な言葉が思い浮かぶ。
その言葉は、イエス・キリストを「主」と呼ぶ者、自分はクリスチャンであると称する者らに、常に自己吟味を促す言葉となっている。
「わたしに向かって,『主よ,主よ』と言う者がみな天の王国に入るのではなく,天におられるわたしの父のご意志を行なう者が入るのです。 その日には,多くの者がわたしに向かって,『主よ,主よ,わたしたちはあなたの名において預言し,あなたの名において悪霊たちを追い出し,あなたの名において強力な業を数多く成し遂げなかったでしょうか』と言うでしょう。 しかしその時,わたしは彼らにはっきり言います。わたしは決してあなた方を知らない,不法を働く者たちよ,わたしから離れ去れ,と。」 (マタイ7:21~23)
この場合の「天におられるわたしの父のご意志」とは、イエス・キリストが地上で行った活動であり、命じたことを指している。それは、今もクリスチャンの担うべきつとめである。
その時からイエスは伝道を開始して,「あなた方は悔い改めなさい。天の王国は近づいたからです」と言いはじめられた。(マタイ4:17)
すると,イエスは近づいて来て,彼らにこう話された。「わたしは天と地におけるすべての権威を与えられています。 それゆえ,行って,すべての国の人々を弟子とし,父と子と聖霊との名において彼らにバプテスマを施し, わたしがあなた方に命令した事柄すべてを守り行なうように教えなさい」(マタイ28:18-20)
そして,王国のこの良いたよりは,あらゆる国民に対する証しのために,人の住む全地で宣べ伝えられるでしょう。それから終わりが来るのです。 (マタイ24:14)
「篤いクリスチャン」であるかどうか、あったかどうかは、聖書の言葉で計られねばならない。
これは、クリスチャンを自称する者すべてにとって、たいへん身の引き締まる言葉である。
オンライン聖書(新世界訳)
https://www.jw.org/ja/%E5%87%BA%E7%89%88%E7%89%A9/%E8%81%96%E6%9B%B8/bi12/%E5%90%84%E6%9B%B8/
口語訳聖書
http://bible.salterrae.net/kougo/html/
文語訳
http://jcl.ibibles.net/