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ホンモノを識別する方法 [スピリチュアルな話題]

昨日の更新でカトリックばかりをワルモノにしたかに思われると困るので、ちょっと観点を変えて書いてみる。

批判ばかりする人は、自分のことを棚に上げて論じることが多い。そのような独善的な話を聞くと「他人様のことばかり言って、自分はどうなの?」と心ある人は思うものだ。

それで、カトリックだけでなく、他のプロテスタントの諸派、自らをクリスチャンと称する者すべてについて、ホンモノかニセモノか調べることのできる言葉を取り上げてみたい。

誠実な人であれば、自分が社会的にふさわしく生きているかどうか、自己吟味しつつ生活するものだが、以下は、クリスチャンと称する人が、皆、神の前で自己吟味することのできる言葉である。それは、同時に他のクリスチャン個人、所属する団体を評価する点でも役に立つ。

もちろん聖書の言葉だ。

イエス・キリストの有名な「山上の垂訓」にある言葉で、慣用句として知られている「羊の皮を着た狼(ひつじのかわをきたおおかみ」という表現のでている文脈だ。

ちなみに、その意味は『goo辞書』に「《a wolf in sheep's clothing/a wolf in a lamb's skin》親切そうにふるまっているが、内心ではよからぬことを考えている人物のたとえ。新約聖書から。羊の皮をかぶった狼」と出ている。簡単に言えば、偽善者を指すと言っていいだろう。
https://dictionary.goo.ne.jp/word/%E7%BE%8A%E3%81%AE%E7%9A%AE%E3%82%92%E7%9D%80%E3%81%9F%E7%8B%BC/

イエスは、マタイによる福音書の7章で、偽善者を見分ける方法を論じ、良い木と悪い木のたとえを示した。良い木であれば良い実を生み出し、悪い木は悪い実を生み出す。だから、その産出する実を見れば、木の良し悪しが分かるという話をした。その「実」とは、つまり、言うこと、行うこと、その活動、活動の歴史と言っていいだろう。それゆえ、人(あるいは、団体)の産み出す「実」を注意深く観察すれば、ホンモノかニセモノかは分かる。

ところが、それに続く部分を見ていくと、自分はクリスチャンにふさわしく誠実に生きていると信じ、立派な実を生み出しているように思えても、偽善者、ニセモノとされてしまう場合のあることが示されている。ホンモノだと思っていたのにニセモノであったと知るのはショックである。まして、それがイエスとの関係、神との関係に影響して、多くの損失を招くとなれば、なおさらである。

***以下、引用(マタイ7:20~23「新改訳聖書(いのちのことば社)」***
こういうわけで、あなたがたは、実によって彼らを見分けることができるのです。

わたしに向かって、「主よ、主よ」と言う者がみな天の御国に入るのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行う者が入るのです。

その日には、大ぜいの者がわたしに言うでしょう。「主よ、主よ、私たちはあなたの名によって預言をし、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって奇跡をたくさん行ったではありませんか。」

しかし、その時、わたしは彼らにこう宣告します。

「わたしはあなたがたを全然知らない。不法をなす者ども。わたしから離れて行け。」
***引用、ここまで***
https://wol.jw.org/ja/wol/b/r7/lp-j/nwtsty/40/7#study=discover

イエスのことを「主よ」と呼びかけるのは、その弟子たち「クリスチャン」である。しかし、そのすべてが受け入れられるわけではない。「不法をなす者」として退けられる者がいることが分かる。そのように退けられる者たちは、「主の名によって」立派な業績を残してきたことを主張している。イエスは、そのことを否定していない。が、しかし、彼らは退けられる。理由は、「天におられるわたしの父のみこころを行」っていないからだ。

イエスを「主」と呼び、自ら「クリスチャン」と唱え、立派なことを行ってきたと“思っていても”(それで、自分は神の是認を得られると“思っていても”)退けられてしまう。今日でも、キリスト教を自称する諸派が学校を建設し、病院を運営し、福祉施設を建て、その立派な働きを社会的に認められているのは事実だ。そうした働きを評価する点でやぶさかではないつもりだが、肝心なのは、人間の観点ではなく、神の観点からどうかである。それが「天におられるわたし(イエス)の父のみこころ(=ご意志)」に適っているかどうかである。

では、その「父のみこころ」とは何かというと、イエスが1世紀にユダヤ・ガリラヤ地方で行い、死後、弟子たちに託した活動を行うことである。イエスは熱心な福音伝道者であり、弟子をつくる点で産出的な奉仕者であったが、マタイ28章の最後の部分で、弟子たちに次のように命じている。

「それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父と子と聖霊のみ名によってバプテスマを授け、また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」「新改訳聖書(いのちのことば社)」

要するに「父のみこころ」とは、出かけて「行って」福音宣教をおこない、「あらゆる国」において人々を「弟子」とし、「教え」る世界的な教育活動を行うことである。それは、人間が人間を支配して機能不全になっている「世の終わりまで」(別な言い方をすれば、キリストによる神の統治が始まるまで)続くことになっている。

以上の聖書の言葉にしたがうなら、今日、ホンモノのクリスチャンを識別することができる。実際、そのような宣教活動を第一にし、全世界で「弟子」をつくる点で目覚ましい成功をおさめているのはどのグループ、団体だろうか。



追記:「神の御こころ」「神のご意志」に関して、使徒パウロの記した「テモテへの手紙 第一」2:4には、「神は、すべての人が救われて、真理を知るようになるのを望んでいるのです」とある。
https://wol.jw.org/ja/wol/b/r7/lp-j/nwtsty/54/2#study=discover&v=54:2:4


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