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現代日本社会は江戸時代を引きずっている [本・書評]

たいそうなタイトルをつけたが、半藤一利氏と出口治明氏との対談から成る「明治維新とは何だったのか」という本を読んで、そのように感じたまでのことである。

半藤一利
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%8A%E8%97%A4%E4%B8%80%E5%88%A9
出口治明
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%87%BA%E5%8F%A3%E6%B2%BB%E6%98%8E

明治維新とは何だったのか――世界史から考える

明治維新とは何だったのか――世界史から考える

  • 出版社/メーカー: 祥伝社
  • 発売日: 2018/06/15
  • メディア: Kindle版



「現代日本社会は江戸時代を引きずっている」というのは、書籍の内容そのものというより、お二方の言葉の端々から得た印象だ。江戸時代が終わって150年以上経つが、われわれの精神はそう簡単に変わらないのだなと感じた。

半藤さんの「父の実家は越後」で、「長岡藩」の出身のようだ。その点、「ウィキペディア」の来歴には「先祖は長岡藩士」とはっきり示されている。祖母から聞いた話をしているのだが、(半藤さんは昭和5年生まれの90歳だから)その御ばあさまは江戸時代のお生まれかもしれない。今から150年前まで、存命の方々の家系を3代も遡れば入ってしまうのだ。

対談を読んでいて、半藤さんの意識のなかで、そのアイデンティティは「長岡藩士の末裔」ということになっているように感じた。かくいう当方も、世代としては、半藤さんの子どもに相当する世代だが、出身地を問われると、実際の誕生地ではなく「水戸です」と答えてきた。水戸藩の出身、水戸藩士の末裔という意識がどこかにあるのだと思う。だから、徳川慶喜の話が出れば自分の殿様のような気分がする。

以下、すこし引用してみる。

「半藤:私も子供の頃から皇国史観という名のいわば『薩長史観』を学校で教え込まれていましたが、父方の祖母には逆のことを教わりましたよ。父の実家は越後なんですが、夏休みに遊びに行くと、祖母が『東京には勲章をつけた偉い奴がたくさんいるみたいだけど、あの連中はみんな泥棒だよ。無理やり喧嘩を売ってきて、七万四千石の長岡藩から五万石を盗んでいったんだ。おまえは、あんな奴らを尊敬することはないだぞ』という話をされたものですよ(p89,90)」

「半藤:そうなんですが、薩摩の人たちは『長州とは一緒にしてくれるな』と言うらしいんですよ(笑)。地元の新聞なんかを見ても、『俺たち薩摩には長州のようなこすっからいところはない。正々堂々と明治の時代を作ったんだから、薩長などと一括りにしないでほしい』といったことが書いてあるようなんです(笑)。僕は『何を言ってるんだ』と思って、そういう言葉には耳を貸さないことにしてますけど。(p71)」

「半藤:・・略・・勝(海舟)さんはべつに尻尾を振って政府に入って高官になったわけじゃありません。『日本のために頼む』と言われて、仕方なく『西郷のためなら手伝うか』と重い腰を上げたんですよ。それを悪くいうから、私は福澤諭吉が嫌いなんです(笑)。それでその私が慶応大学出身者に嫌われている(笑)。(p105,106)」

つまり、そのように現に生きている人間が江戸時代を引きずっているのであれば、その帰属する社会も当然ながらなんらかの影響を受けているはずである。そのような(引きずられた精神を意識するしないにかかわらず所持する)個々の人間が、IT社会、グローバル時代を、現に生きているのだからおもしろい。

余談だが、最近、若い世代に聞いた話。落語が分からないし興味もないという。若い人の皆がみなというわけではないだろうが、落語は江戸の粋のようなものだ。それを聞いて、すこし寂しく思った。

「明治150年記念事業」について(徳川慶喜とからめて)
https://bookend.blog.ss-blog.jp/2017-05-09


江戸三百藩大全 全藩藩主変遷表付 (廣済堂ベストムック287号)

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  • 出版社/メーカー: 廣済堂出版
  • 発売日: 2015/03/02
  • メディア: ムック




共通テーマ:日記・雑感

コロナ禍を生き残るのは誰? [ドラマ]

新型コロナに感染しない一番イイ方法は、自分を隔離して置くことだ。「犬も歩けば棒に当たる」が、歩かなければ当たらない。世間の風にあたらないで済めばソレが一番イイ。いわば、みずからを自宅軟禁状態にすることだ。

昨日、「ユーチューブ」を見ていたら、懐かしい映画に出会った。『カッコーの巣の上で』という映画だ。1976年日本封切りの映画で、原題は ”One Flew Over the Cuckoo's Nest” 。アカデミー賞の作品賞、監督賞、主演男優賞、主演女優賞、脚色賞の主要5部門を独占した映画だ。

高校時代のことで、40年以上前になる。評判を聞いて出向いたのだと思うが、1度ならず2度も劇場に通った。いまと違って、むかしは映画館に朝から晩までいることができた。一度の上映が終了したら、追い出されるスタイルではなかった。それで、少なくとも6回は見ているように思う。

どうしてそれほど入れ込んでしまったのかよく分からないが、自由への希求のようなものがあったからではないかと思う。人間集団が秩序を維持して機能していくためには、個人の自由はいくらかなりとも制約を受けなければならない。幼児のときから、規則というものが世の中にはあって、それに従うべきことを教え込まれる。子どものときから、大人のように振る舞うことを学ぶ。いつの間にか型にはめられ、それに馴染んで以前は苦痛であったものが、それなりにこなせるようになる。しかし、馴染んで身についたのでそこに留まっていられるだけの話で、本来的には苦痛である。だから、解放されることは望ましいことになる。そういう気持ちに訴えたのかもしれない。

映画の舞台は精神病院だ。そもそも「カッコーの巣:cuckoo's nest」 は、「精神病院」の蔑称のひとつだという。そこには本物の患者もいるが、そうでない者もいる。主人公マクマーフィーとアメリカ原住民のチーフは、患者のフリをしているだけだ。実社会に適応できなかったのだ。犯罪者として、少数民族として社会的に不適格に思える自分のとりあえずの身の置き所として、精神病院を選んだのだ。言葉をかえれば、精神病院に逃げ込んだのだ。しかし、それは本来の意志ではない。不本意なことである。できれば、やはり自由が欲しいのだ。そして、自由の獲得へと動く。「カッコーの巣」から飛び立つ。

昨日、映画全編を見たわけではない。Omoto Nagieさんのユーチューブ投稿したものを見た。印象的な音楽を背景に、わずか6分ほどにたいへんうまく動画編集されている。それで、映画のエッセンスを了解できると思う。
https://www.youtube.com/watch?v=jitQ_kosr3Q


映画をベースに考慮すると、精神病院に逃げ込むことなく、社会に留まり暮らすことができるということ、実社会に適応できていること(もしくは、適応しているかのようによそおうことができること)はたいへん偉いことに思える。最近の報道で、日本におけるヒキコモリはたいへんな数(若年層54万、中高年61万)にのぼる話を聞くが、それらの方々にとっては自宅が精神病院の代わりになっているのだろう。そうした時代、世のなかにあって、引き籠らずにいられることは偉業にちかいのではないかと思う。なかには、単に無理をしているだけということもあるだろう。食うためには世間の風に当たるしかないでしょと頑張っているわけだ。一日を終えて、ああエラカッタという生活をしているわけである。

このコロナ騒ぎで、自粛生活を強いられている。人間は動物だから、動きまわるのが本来的在り方である。一か所に留まるのは苦手のはずだ。それにもかわわらずヒキコモリ、大人しくしていられるというのは、これもまたスゴイことだ。気がつけば一日、家から一歩も外に出ていないという人もいるだろう。まさに、自宅軟禁状態である。

コロナ禍の第二波は強烈で第一波の比ではないと聞く。結局のところ、最終的にコロナウイルス感染を免れて生き残るのは、無理をせず引き籠ることのできた人だけなどということになるかもしれない。


カッコーの巣の上で [DVD]

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  • 出版社/メーカー: ワーナー・ホーム・ビデオ
  • 発売日: 2010/04/21
  • メディア: DVD



https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%83%E3%82%B3%E3%83%BC%E3%81%AE%E5%B7%A3%E3%81%AE%E4%B8%8A%E3%81%A7

『朱子学入門』垣内景子著 ミネルヴァ書房刊
https://kankyodou.blog.ss-blog.jp/2015-11-04-1


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