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広告代理店 電通は、妖怪である(「持続化給付金」問題とからめて) [ニュース・社会]

ふたたび、妖怪デンツーの話

「デンツー」とは広告代理店の電通のこと。「日本最大手、世界規模では5位の広告代理店」とウィキペディアには出ている。

と、書けば・・

「で、だから、なんで電通が妖怪っつうことになるの?」と疑問に思われる方もいるはずだ。

当方も、フツウの会社と思っていた。『千の風になって』の作曲家でもあり芥川賞作家でもある新井満氏はながらく電通に勤務されたし、ショートショート作家の田丸雅智氏は現役社員であるし、伊集院静氏も電通勤務経験ありという話である。

それでも、最近の電通社員・過労死事件をめぐって、ブラックな会社であると思った方も少なくないにちがいない。もっと最近の話題としては、「持続化給付金」と電通との関係を不審に思われている方も多くいるはずだ。

萩原博子さんは、その「疑惑」について『サンデー毎日(6/21号)』で次のように書いている。

経済産業省が給付金の申請受付やコールセンター事業などを委託した一般社団法人「サービスデザイン推進協議会」は従業員14人の小さな団体。国から受け取った委託費の97%に当たる金額を電通に払い、業務を再委託していた。/ 差額の20億円を抜き取った丸投げというべきでしょう。/ 同協議会を設立したのは電通のほか人材派遣大手のパソナとITサービス業のトランスコスモス。パソナの親会社、パソナグループの会長は小泉純一郎政権で経済財政担当相を務めた竹中平蔵氏。利権のにおいがプンプンします。/ 経産省は電通に直接委託すればいいのに、同協議会が20億円を抜き取っているところが怪しい!(「幸せな老後への一歩」671回)

「利権のにおいがプンプン」とあるが、経産省からの委託という公的手続きのカタチをとって、なんら問題ナイような体裁を装いつつ、実のところは、国民の税金が、イイように使われ(もしくはストックされ)ているらしい。どうも電通という会社は、そうした怪しい動きをなんら問題なく見せかけるのに、たいへん都合のいい会社であるようだ。その点、水木しげるの説く妖怪の総大将 ぬらりひょんに似ている。フツウのようでいて、実は妖怪というところがたいへん似ている。

萩原さんは、先の引用コラム文末で「こんなお金の使い方は「税金ドロボー」!」と締めくくっている。国民の税金を、新型コロナ禍のどさくさにまぎれて、懐に入れようとする人間がいる。萩原さんは、その点を「火事場泥棒」と表現している。国民の税金を上手に収奪するブラックボックスとなっているのは、直接には「サービスデザイン推進協議会」だが、電通もおおきく絡んでいるのは確かなようだ。


当方は、苫米地英人氏の以下のイメージ書籍で「電通」の正体を知った。イメージのあとにあるのは、当方がAmazonの該当書籍のレビュー欄に投稿したもので、そのなかで「バケモノ」とくりかえし書いている。苫米地氏の書籍をとおし、少なくとも、当方のアタマの中で、電通は、バケモノ電通、妖怪デンツーになったことになる。

電通 洗脳広告代理店

電通 洗脳広告代理店

  • 作者: 苫米地 英人
  • 出版社/メーカー: サイゾー
  • 発売日: 2014/10/03
  • メディア: Kindle版


「電通」を巨大化させたものは何か? // 新聞、テレビなどメディアに巨大な影響力をもつ「電通」。その影響力が、メディアを本来あるべき姿から遠い存在にしていることが示される。メディアは、国民の方ではなく、広告をくれるスポンサー企業(直接的には「電通」)の方を向き、媚びへつらい、権力を監視する役割を果たしていない。それは、権力のもとにある一般市民(つまり、われわれ)に不利益をもたらしている。なぜ、一企業にすぎない「電通」がそれほどまでに巨大化したのか、その背景が示される。巨大化しバケモノのようになっていながら、なぜ独占禁止法が適用されないのか、その理由が示される。その影響力のもと、国民はバカにされ、実際バカになってしまった。バカになっていながら、バカになっていることも分からないあり様だ。ちょうど「電通」というバケモノが目に入らないのと同じだ。きっと、バカになりきっているからにちがいない。著者は、そこに「洗脳」が関係していることを示す。洗脳から抜け出るよう助ける。バカはバカのままでいてはいけない。知識がバカを脱する助けになる。著者はバカをやめるよう呼びかける。本書が出版(東北大震災の翌年に発行)されて後、著者の呼びかけに「電通」の心ある社員はこたえ応じた風はなく、「電通」も解体されてはいない。であれば、各自「電通」の影響力が今でもメディアをとおして行使されていることを忘れずにいる必要がある。騙されないようにする必要がある。騙されないためのカギは知識であり、自分のアタマで考えることだ。

苫米地氏の本で、当方は「目からうろこが落ちる」思いをした。「目からうろこ」とはよく用いる言葉だが、ことわざのように用いられるその言葉の元(語源・由来)は、聖書にある。キリストの弟子、つまりクリスチャンを迫害していたサウロという男が、心を入れ替えて熱心なクリスチャンになるそのいきさつを記すにあたって、文字通り経験したこととして記されている。「目からうろこのようなものが落ち」、それまで、一時的に盲目にされていた目が再び見えるようになったときの出来事として、そうしたことが起きたのだという。そのように、暗い部屋に光が差し込むような仕方で、物事が見えるようになれたらいいなといつも思う。そうであれば、真理によって、偽りとまやかしの束縛から解放され、バカでなくなることができる。聖書は、その点、世界の大ベストセラーであるだけでなく、まさに「神の言葉」である。時間を買い取ってでも、読むに値する。

使徒の活動9:18
https://wol.jw.org/ja/wol/b/r7/lp-j/nwtsty/44/9?q=%E7%9B%AE%E3%81%8B%E3%82%89%E3%81%86%E3%82%8D%E3%81%93&p=par#study=discover

https://wol.jw.org/ja/wol/binav/r7/lp-j


舊新約聖書―文語訳クロス装ハードカバー JL63

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  • 作者: 日本聖書協会
  • 出版社/メーカー: 日本聖書協会
  • 発売日: 1993/11/01
  • メディア: 大型本


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