手塚治虫の『どろろ』をYouTubeで視聴 [ドラマ]
手塚治虫の『どろろ』をYouTubeで視聴した。「手塚プロダクション公式チャンネル」による6月30日までの「期間限定配信」とあるのを知り、配信されている26話すべてを見た。
【公式】期間限定配信中 どろろ 1話~4話
https://www.youtube.com/watch?v=ivG9p-DiZSI
アニメとしてはまだまだ洗練されるに至っておらず、紙芝居の上等なモノといった印象である。映画のカメラワークを意識したかのような大胆で実験的場面もあるが、登場人物の動きが止まって(あるいは、一定の動きだけが繰り返され)その背景だけが動くなどしている。しかし、物語の展開は素晴らしい。感動ものである。あらためて手塚治虫はすごい作家だったのだと思う。
数ある手塚作品のなかでも『どろろ』は異色作とされている。『鉄腕アトム』のような子ども向けの夢のある明るい作品を描いてきたマンガ家の作品としては「どうして?」というくらいに暗い。作品のタイトルのようにおどろおどろしい印象である。取り扱っている時代は戦国の世であり、侍たちの支配欲やその横暴に苦しめられる農民たちが登場する。
と、いかにも、以前から内容を知っているかのように書いているが、マンガ作品としてもテレビ放映されたアニメ作品としても、ほとんど記憶がない。見たのだが、見たこと自体を忘れてしまっているだけなのかもしれない。いずれにせよ、一部ではなく、全体を見たのは今回が初めてである。50年も前に発表された作品であるにもかかわらず、である。みなうろ覚えながら、一つだけ確かなのは、当方にとって『どろろ』は、重要な作品であり、そう見做してきたということである。
当方の『どろろ』への関心は、『妖怪人間ベム』と同類の作品であると見做してきたことから来る。そこに登場するのは人間のようでいて、人間ではない。別な言い方をすれば、フツウの人間ではない。そこには、いわゆる健常者ではなく、カタワが登場する。「自分はアタリマエの人間ではない。人間としてカタワである。人間になりきれていない」という思いが、強く当方にあったからである。その意識の根底にあるのは、いわゆる「コンプレックス」である。
『罪』と『コンプレックス』
https://bookend.blog.ss-blog.jp/2007-02-21
今回、『どろろ』26話を見てつよく感じたのは、手塚さんの戦争・争乱を嫌う精神である。これから見てみようという方にとって興ざめにならないよう話のスジは示さない。それでも手塚さんが、戦争・争乱を嫌っていると見做す根拠だけでも示そうと思う。それは、「少年」どろろの兄貴分である百鬼丸の出自である。父親(醍醐景光)の出世欲、戦国の世の支配者になりたいという欲望が、百鬼丸をカタワにする。父親は魔物たちに、生まれてこようとする子どもの四肢その他を売る。そのために子どもは尋常ではないカタワに生まれる。生まれたばかりの化け物のような子を、両親は川に捨てる。川に流された乳児は、医者に拾われる。医者は、養父となって、子どもを百鬼丸と名付け、義手、義足、義眼・・を与える。15歳になった百鬼丸は自分をカタワにした魔物退治の旅に出る。養父は、百鬼丸の義手に刀剣を仕込む。百鬼丸と出会い、その強さにあこがれた「少年」どろろは、百鬼丸のお供になる。どろろは、百鬼丸の腰にある刀を欲しがるが、百鬼丸は与えない。多くの闘いを共に経た後、それを受けるにふさわしい年齢になっても、どろろに与えない。
しかし、戦争・争乱を忌避するマンガが、闘いの場面に終始する。「平和」を伝えるためには、戦争・争乱を示す必要があるのだろう。そしてまた、戦争・争乱を示さないと、その対極にある「平和」を明瞭に示すのは難しいにちがいない。
【公式】期間限定配信中 どろろ 1話~4話
https://www.youtube.com/watch?v=ivG9p-DiZSI
アニメとしてはまだまだ洗練されるに至っておらず、紙芝居の上等なモノといった印象である。映画のカメラワークを意識したかのような大胆で実験的場面もあるが、登場人物の動きが止まって(あるいは、一定の動きだけが繰り返され)その背景だけが動くなどしている。しかし、物語の展開は素晴らしい。感動ものである。あらためて手塚治虫はすごい作家だったのだと思う。
数ある手塚作品のなかでも『どろろ』は異色作とされている。『鉄腕アトム』のような子ども向けの夢のある明るい作品を描いてきたマンガ家の作品としては「どうして?」というくらいに暗い。作品のタイトルのようにおどろおどろしい印象である。取り扱っている時代は戦国の世であり、侍たちの支配欲やその横暴に苦しめられる農民たちが登場する。
と、いかにも、以前から内容を知っているかのように書いているが、マンガ作品としてもテレビ放映されたアニメ作品としても、ほとんど記憶がない。見たのだが、見たこと自体を忘れてしまっているだけなのかもしれない。いずれにせよ、一部ではなく、全体を見たのは今回が初めてである。50年も前に発表された作品であるにもかかわらず、である。みなうろ覚えながら、一つだけ確かなのは、当方にとって『どろろ』は、重要な作品であり、そう見做してきたということである。
当方の『どろろ』への関心は、『妖怪人間ベム』と同類の作品であると見做してきたことから来る。そこに登場するのは人間のようでいて、人間ではない。別な言い方をすれば、フツウの人間ではない。そこには、いわゆる健常者ではなく、カタワが登場する。「自分はアタリマエの人間ではない。人間としてカタワである。人間になりきれていない」という思いが、強く当方にあったからである。その意識の根底にあるのは、いわゆる「コンプレックス」である。
『罪』と『コンプレックス』
https://bookend.blog.ss-blog.jp/2007-02-21
今回、『どろろ』26話を見てつよく感じたのは、手塚さんの戦争・争乱を嫌う精神である。これから見てみようという方にとって興ざめにならないよう話のスジは示さない。それでも手塚さんが、戦争・争乱を嫌っていると見做す根拠だけでも示そうと思う。それは、「少年」どろろの兄貴分である百鬼丸の出自である。父親(醍醐景光)の出世欲、戦国の世の支配者になりたいという欲望が、百鬼丸をカタワにする。父親は魔物たちに、生まれてこようとする子どもの四肢その他を売る。そのために子どもは尋常ではないカタワに生まれる。生まれたばかりの化け物のような子を、両親は川に捨てる。川に流された乳児は、医者に拾われる。医者は、養父となって、子どもを百鬼丸と名付け、義手、義足、義眼・・を与える。15歳になった百鬼丸は自分をカタワにした魔物退治の旅に出る。養父は、百鬼丸の義手に刀剣を仕込む。百鬼丸と出会い、その強さにあこがれた「少年」どろろは、百鬼丸のお供になる。どろろは、百鬼丸の腰にある刀を欲しがるが、百鬼丸は与えない。多くの闘いを共に経た後、それを受けるにふさわしい年齢になっても、どろろに与えない。
しかし、戦争・争乱を忌避するマンガが、闘いの場面に終始する。「平和」を伝えるためには、戦争・争乱を示す必要があるのだろう。そしてまた、戦争・争乱を示さないと、その対極にある「平和」を明瞭に示すのは難しいにちがいない。
「目」に関するオモシロイ本 [自然に親しむ]
著者は〈大学の電気工学科で、光の見え方や感じ方を扱う「視覚心理学」の研究を行う一研究者〉。〈大学卒業後は、東京三鷹にある国立研究所で航空灯火について研究をして〉きた。〈本書は、・・光や目にまつわる不思議でアッと驚く話を紹介しながら、普段、何気なく見ている世界を新しい角度で眺めてもらえたらという思いで書〉いた、と「まえがき」にある。
読みはじめて思うことは、生物学などで、生命の始めについて記す時に、ほぼ必ず「進化論」が事実とされていることである。あくまでも「論」であり「説」であるはずなのだが、そうではなく、事実として示される。それが前提となって後の論議が進められる。本書も例に漏れることなく、chapter1は「目の進化」となっている。
もっとも、そのように一般的に信じられているから、メンドウクサイことにならないよう、そういうことにしておこうというのが多くの著作家の思いであるように思う。当方高校時の生物の教科書の冒頭に進化論の記述があったが、先生は、「ここは自分で読んどけ」と言って、そこを飛ばしてしまった。
先生のメンドクサイの主要な理由は「どうせ試験(受験)に出ないし、出さないからな」だったように思うが、言外に「みんながそう言ってるんだからそれでいいだろう」であったように思う。
当方から言わせれば、「うまくできてる(造られている)な」と思うところも、一般的に「うまく進化した」で済まされてしまう。たとえば、聖書によると人の死は「罪の報い」であり、人間の罪のもたらした結果とされている。それでも、瀕死の状態にあるときに脳内麻薬(β-エンドルフィン)が働いて、痛みがほとんどなく、恍惚感すらあるという。そのように聞くと当方は、神様は「罪の報い」として人間を死ぬ定めに置かれたものの、うまく楽に死ねるようにしてくださったのだと思うのだが、そうしたことも一般に、進化による生理的変化とされてしまう。
「彼岸過ぎまで」 / 死ぬのは気持ちいい?
https://bookend.blog.ss-blog.jp/2017-03-19
本書(上記イメージ書籍)に、以下の記述があった。
生物学の大きな発展に貢献した『種の起源』の著者であるダーウィンは、動物の進化を考える上で脊椎動物のカメラ眼については頭を悩ませたといいます。なぜならば、自然選択によって進化してきたと考えるには、カメラ眼があまりにも複雑で完璧だと感じたからだそうです。〈(p24/ chapter1「目の進化」section03「複雑なカメラ眼の成り立ち」)。
ダーウィンが、それまでの生命のはじまりについての定説をそのまま踏襲していたなら、「頭を悩ませ」る必要はなかった。そして、「進化論」を提唱することもなかったはずである。ダーウィンはメンドウクサイことが好きな人であったようだ。また、メンドウクサイことを、公にすることのできる時代になっていたということなのだろう。
アイザック・ニュートンの頃は、まだメンドウクサイ時代だった。ダーウィンより150年ほど前に生まれたニュートンは、メンドウクサイことになるのを避けた。当時、定説とされて一般に受け入れられているものについて、あえて異議を唱えなかった。それはカトリック教会で唱えられている「三位一体」についてだ。その教義が誤りであることを、聖書を読んで知ってはいたが、ニュートンは発表せずにいたという。
ダーウィンはメンドウクサイことを唱え、それは社会に受け入れられていったが、その考えの生み出したものは「適者生存」であり、「弱肉強食」であり、「無神論」である。
ダーウィンはなにかとメンドウクサイ人である。おかげで皆、苦労することになった。
話が長くなった。上記書籍は、なにはともあれ「光や目にまつわる不思議でアッと驚く」オモシロイ本である。
『奇想天外な目と光のはなし』入倉 隆著 雷鳥社
https://kankyodou.blog.ss-blog.jp/2022-06-03
渥美清の肖像 知られざる役者人生 [ドキュメンタリー]
YouTubeで『渥美清の肖像 知られざる役者人生』を見る。
https://www.youtube.com/watch?v=PwcFwF2-KYw
渥美清と脚本家の早坂暁さんが親しい関係にあったことをはじめて知った。
https://www.youtube.com/watch?v=PwcFwF2-KYw
渥美清と脚本家の早坂暁さんが親しい関係にあったことをはじめて知った。
吉永小百合主演 新・夢千代日記 全3枚【NHKスクエア限定商品】
- 出版社/メーカー: NHKエンタープライズ
- 発売日: 2022/05/16
- メディア: DVD
通読積読中 [通読・積読]
YouTubeで「河合隼雄 - 京大最終講義」と「対談:佐渡裕氏×河合俊雄氏」を見る [スピリチュアルな話題]
YouTubeに、河合隼雄先生の京大最終講義の模様がアップされている。1992年とクレジットされている。30年前だ。黒板に白墨である。
書籍化されたものを読んではいたが、感謝である。
河合隼雄 - 京大最終講義 コンステレーションについて
https://www.youtube.com/watch?v=TcW40V9pzpw&t=4s
その関係で指揮者の佐渡裕と隼雄先生の子息の対談も見た。
対談:佐渡裕氏×河合俊雄氏「こころの子育ての未来」
https://www.youtube.com/watch?v=TJL8g1cvRDY
培風館の『ユング心理学入門』はたぶん5冊は買っている。友人にあげたりした。当時はハードカバーだった。今手元にあるものはペーパーバックである。
書籍化されたものを読んではいたが、感謝である。
河合隼雄 - 京大最終講義 コンステレーションについて
https://www.youtube.com/watch?v=TcW40V9pzpw&t=4s
その関係で指揮者の佐渡裕と隼雄先生の子息の対談も見た。
対談:佐渡裕氏×河合俊雄氏「こころの子育ての未来」
https://www.youtube.com/watch?v=TJL8g1cvRDY
培風館の『ユング心理学入門』はたぶん5冊は買っている。友人にあげたりした。当時はハードカバーだった。今手元にあるものはペーパーバックである。