『罪』と『コンプレックス』
「今、この記事をお読みいただいている方には
“「罪」がある”」。
と、書くと・・・
ギョッとされるにちがいない。
「『罪』がある !! 何の ?!」・・・
という反応がただちに返ってくるにちがいない。
日本人の感覚では、刑法に違反でもしないかぎりは「罪あり」とはならないので、イワレナク「罪あり」とされるなら、「ナンデ?!」ということに当然なる。モットモナことである。
聖書を少し学んだ方なら、「ああ『原罪』のことね。アダムとエバの撒いたものを子孫である私たちが受け継いでるというアレね・・」などという反応もあるだろう。
タシカに、聖書的見地から今生きるすべての人には「罪あり」ということになるのだが・・・、
さて、「罪」とは、なにか?
その言葉の意味は「的に達しないこと、的を逸すること」を意味するのだそうだが・・、
「罪」(の作用・働き)をわかりやすく簡単に言えば、それは「コンプレックス」のことであると言っていい。
「コンプレックス」というと、劣等感を思い浮かべる方が多いがアレは「インフェリオリティー・コンプレックス」のことで、「コンプレックス」の一種。
「統合性をもつ自我の働きを乱すもの」(p68)
(別の言い方をするなら、われわれ一人一人の「主体性を脅かすもの」)
具体的にコンプレックスが顕現して自我の働きを乱すと…
「いちばん大切なときにあるひとの名前が全然思い出せなかったり、肝心なところで赤面してどもってしまったり、『お礼はけっしていただかぬつもり』というべきときに、『お礼はけっして“いただく”つもり』といってしまったりする。われわれのいい間違いや、偶然の失敗とみられるもののうち、実際は無意識内のコンプレックスの働きによるものがいかに多いかを、フロイトはその著『日常生活における精神病理』に、多くの例をあげて説明している。コンプレックスは自我の統制外にあるので、それによって起こった障害は、『まったく思いがけない』ものと感じられ、あるいは、『何かに取りつかれた』としか考えられないような性質のものが多い」(p68.69)
この「コンプレックス」が強大になって、劇的な仕方で自我と交代してしまうと、「ジキルとハイド」のような二重(多重)人格となる。
さて、ハナシを「罪」に戻そう。
以下の聖書中の言葉と上記のコンプレックスの説明とを比べてみて欲しい。
「わたしは自分のうち、つまり自分の肉のうちに、良いものが何も宿っていないことを知っているのです。願う能力はわたしにあるのですが、りっぱな事柄を生み出す能力はないからです。自分の願う良い事柄は行なわず、自分の願わない悪い事柄、それが自分の常に行なうところとなっているのです。では、自分の願わない事柄、それがわたしの行なうところであるなら、それを生み出しているのはもはやわたしではなく、わたしのうちに宿っている罪です。
そこでわたしは自分の場合にこの法則を見いだします。自分では正しいことをしたいと願うのに、悪が自分にあるということです。わたしは、内なる人にしたがえば神の律法をほんとうに喜んでいますが、自分の肢体の中では別の律法がわたしの思いの律法と戦い、わたしをとりこにして肢体の中にある罪の律法へと引いて行くのを見ます。わたしは実に惨めな人間です!」(ローマ人への手紙7章18~24節:新世界訳聖書)
上記の聖書の言葉は、クリスチャンとしての宣教活動に熱心に従事した使徒パウロの記述した部分からの抜粋である。
コンプレックスに関する説明と重なるところ大である。
聖書によれば、すべての人間には「罪」というものがあり、「罪」が作用している。
そのことを、自覚する手っ取り早い方法は聖書を読むことだ。パウロも先の引用のなかで繰り返し(聖書に記された)「律法」に触れているが、イスラエル人たちは、神から与えられた道徳規準に到底到達できないこと(到達できないようにさせる作用が自分のうちにあること)を、自分たちに与えられた律法(600ほどあると言われる)をとおして自覚するよう促された。
「罪」の自覚は、同時に贖罪のための動物の犠牲の必要性をも彼らに自覚させるものとなり、
そのことはさらに将来、「罪」から完全に自分たちを救い出すものとなる動物の犠牲以上の価値をもつ別な種類の犠牲を待つようイスラエル人たちに備えさせるものとなった。
パウロは、先のことばののち・・・
「わたしは実に惨めな人間です!こうして死につつある体から、だれがわたしを救い出してくれるでしょうか」と述べ、そのあと、自ら答えて、次のように続ける。
「わたしたちの主イエス・キリストを通してただ神に感謝すべきです!」
パウロは、キリストの犠牲の価値が自分に適用されて、罪の赦しを得られることへの感謝を言いあらわしている。
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