「彼岸過ぎまで」 / 死ぬのは気持ちいい?
彼岸の連休、街中は車が多く、花店も盛況にみえた。
夏目漱石に『彼岸過迄』というのがある。胃潰瘍で死にかかった後の作品で、ここから暗い「後期三部作」が始まるといわれている。新聞に連載するにあたって、彼岸過ぎまで書く予定だからそう名づけた題名であるという。(「続きを読む」部分に、漱石の巻頭緒言を引用)
医師 毛利孝一(故人)による著作に『生と死の境』という本がある。いわゆる臨死体験のことが記されてある。東京書籍から出ていた。残念ながら、現在入手できない。
「臨死体験」とはいっても、体を抜け出た魂がアノ世に行って帰って来たという報告などではなく、脳内麻薬ベータエンドルフィンの作用についての話で、死に瀕した「生と死の境」における気持ちについての考察だった。まさに死のうという時、たとえ苦悶にみちた様子であっても、実際のところは、傍目で思うようなものではなく、回復した後に問い尋ねてみると、そうではなく、「気持ちがいい」という・・、そんな話だったと思う。
今、その本を探したのだが、手元にない。家の中にあるのは確かなのだが、行方知れずとなっている。それで、記憶にたよって書いているのだが、たいへん印象深く思ったのを覚えている。
そこに漱石の話も出ていた。胃潰瘍の大量出血で危篤に陥ったとき、ベッドサイドで医師たちが、話していたことを回復して後に記したものを引用していた。危篤状態で、もうダメに見えても、聴覚は残っているので、注意が必要であると感じた。そのとき、医師たちは、もうダメであるかのようなことを言っていたらしい。それでも、苦しさはなかったようで、そのことと脳内麻薬ベータエンドルフィンとを著者が結びつけていたのだったと思う。
漱石だけでなく、宮沢賢治の喀血したときのことも、詩の引用から説明されていた。「青い風」が吹いている・・という内容の詩であったと思う。自分を見守る人たちには、ゴボゴボと血を吐いている姿は、いかにも凄惨きわまりなく、苦しそうに見えるだろうけど、「青い風」が吹いて、自分はいたって気持ちいい・・という内容だったと思う。
それを読み、また、自分の見た経験、瀕死状態を経験した方からの話を聞いて、死ぬ間際というのは、気持ちいいにちがいないと思っている。
月夜の幻惑ーモノがたりーその9
http://bookend.blog.so-net.ne.jp/2006-03-25
聖書によると、「罪の報いは死」と記されている。人類の共通の祖先アダムとエバが神の命令に背いて「罪」を犯した結果、その子孫である人類全体が死を免れえなくなったというのが聖書の教えだが、神は、アダムの子孫に憐れみをお示しになり、死を受け入れやすくして下さったのではないか・・と当方は勝手に思っている。
彼岸過迄に就て
事実を読者の前に告白すると、去年の八月頃すでに自分の小説を紙上に連載すべきはずだったのである。ところが余り暑い盛りに大患後の身体からだをぶっ通とおしに使うのはどんなものだろうという親切な心配をしてくれる人が出て来たので、それを好いい機会しおに、なお二箇月の暇を貪むさぼることにとりきめて貰ったのが原もとで、とうとうその二箇月が過去った十月にも筆を執とらず、十一十二もつい紙上へは杳ようたる有様で暮してしまった。自分の当然やるべき仕事が、こういう風に、崩くずれた波の崩れながら伝わって行くような具合で、ただだらしなく延びるのはけっして心持の好いものではない。
歳の改まる元旦から、いよいよ事始める緒口いとぐちを開くように事がきまった時は、長い間抑おさえられたものが伸びる時の楽たのしみよりは、背中に背負しょわされた義務を片づける時機が来たという意味でまず何よりも嬉うれしかった。けれども長い間抛ほうり出しておいたこの義務を、どうしたら例いつもよりも手際てぎわよくやってのけられるだろうかと考えると、また新らしい苦痛を感ぜずにはいられない。
久しぶりだからなるべく面白いものを書かなければすまないという気がいくらかある。それに自分の健康状態やらその他の事情に対して寛容の精神に充みちた取り扱い方をしてくれた社友の好意だの、また自分の書くものを毎日日課のようにして読んでくれる読者の好意だのに、酬むくいなくてはすまないという心持がだいぶつけ加わって来る。で、どうかして旨うまいものができるようにと念じている。けれどもただ念力だけでは作物さくぶつのできばえを左右する訳にはどうしたって行きっこない、いくら佳いいものをと思っても、思うようになるかならないか自分にさえ予言のできかねるのが述作の常であるから、今度こそは長い間休んだ埋合うめあわせをするつもりであると公言する勇気が出ない。そこに一種の苦痛が潜ひそんでいるのである。
この作を公おおやけにするにあたって、自分はただ以上の事だけを言っておきたい気がする。作の性質だの、作物に対する自己の見識だの主張だのは今述べる必要を認めていない。実をいうと自分は自然派の作家でもなければ象徴派の作家でもない。近頃しばしば耳にするネオ浪漫派ローマンはの作家ではなおさらない。自分はこれらの主義を高く標榜ひょうぼうして路傍ろぼうの人の注意を惹ひくほどに、自分の作物が固定した色に染つけられているという自信を持ち得ぬものである。またそんな自信を不必要とするものである。ただ自分は自分であるという信念を持っている。そうして自分が自分である以上は、自然派でなかろうが、象徴派でなかろうが、ないしネオのつく浪漫派でなかろうが全く構わないつもりである。
自分はまた自分の作物を新しい新しいと吹聴ふいちょうする事も好まない。今の世にむやみに新しがっているものは三越呉服店とヤンキーとそれから文壇における一部の作家と評家だろうと自分はとうから考えている。
自分はすべて文壇に濫用らんようされる空疎な流行語を藉かりて自分の作物の商標としたくない。ただ自分らしいものが書きたいだけである。手腕が足りなくて自分以下のものができたり、衒気げんきがあって自分以上を装よそおうようなものができたりして、読者にすまない結果を齎もたらすのを恐れるだけである。
東京大阪を通じて計算すると、吾わが朝日新聞の購読者は実に何十万という多数に上っている。その内で自分の作物さくぶつを読んでくれる人は何人あるか知らないが、その何人かの大部分はおそらく文壇の裏通りも露路ろじも覗のぞいた経験はあるまい。全くただの人間として大自然の空気を真率しんそつに呼吸しつつ穏当に生息しているだけだろうと思う。自分はこれらの教育あるかつ尋常なる士人の前にわが作物を公おおやけにし得る自分を幸福と信じている。
「彼岸過迄ひがんすぎまで」というのは元日から始めて、彼岸過まで書く予定だから単にそう名づけたまでに過ぎない実は空むなしい標題みだしである。かねてから自分は個々の短篇を重ねた末に、その個々の短篇が相合して一長篇を構成するように仕組んだら、新聞小説として存外面白く読まれはしないだろうかという意見を持じしていた。が、ついそれを試みる機会もなくて今日こんにちまで過ぎたのであるから、もし自分の手際てぎわが許すならばこの「彼岸過迄」をかねての思わく通りに作り上げたいと考えている。けれども小説は建築家の図面と違って、いくら下手でも活動と発展を含まない訳に行かないので、たとい自分が作るとは云いながら、自分の計画通りに進行しかねる場合がよく起って来るのは、普通の実世間において吾々の企くわだてが意外の障害を受けて予期のごとくに纏まとまらないのと一般である。したがってこれはずっと書進んで見ないとちょっと分らない全く未来に属する問題かも知れない。けれどもよし旨うまく行かなくっても、離れるともつくとも片かたのつかない短篇が続くだけの事だろうとは予想できる。自分はそれでも差支さしつかえなかろうと思っている。
(明治四十五年一月此作を朝日新聞に公けにしたる時の緒言)
夏目漱石に『彼岸過迄』というのがある。胃潰瘍で死にかかった後の作品で、ここから暗い「後期三部作」が始まるといわれている。新聞に連載するにあたって、彼岸過ぎまで書く予定だからそう名づけた題名であるという。(「続きを読む」部分に、漱石の巻頭緒言を引用)
医師 毛利孝一(故人)による著作に『生と死の境』という本がある。いわゆる臨死体験のことが記されてある。東京書籍から出ていた。残念ながら、現在入手できない。
「臨死体験」とはいっても、体を抜け出た魂がアノ世に行って帰って来たという報告などではなく、脳内麻薬ベータエンドルフィンの作用についての話で、死に瀕した「生と死の境」における気持ちについての考察だった。まさに死のうという時、たとえ苦悶にみちた様子であっても、実際のところは、傍目で思うようなものではなく、回復した後に問い尋ねてみると、そうではなく、「気持ちがいい」という・・、そんな話だったと思う。
今、その本を探したのだが、手元にない。家の中にあるのは確かなのだが、行方知れずとなっている。それで、記憶にたよって書いているのだが、たいへん印象深く思ったのを覚えている。
そこに漱石の話も出ていた。胃潰瘍の大量出血で危篤に陥ったとき、ベッドサイドで医師たちが、話していたことを回復して後に記したものを引用していた。危篤状態で、もうダメに見えても、聴覚は残っているので、注意が必要であると感じた。そのとき、医師たちは、もうダメであるかのようなことを言っていたらしい。それでも、苦しさはなかったようで、そのことと脳内麻薬ベータエンドルフィンとを著者が結びつけていたのだったと思う。
漱石だけでなく、宮沢賢治の喀血したときのことも、詩の引用から説明されていた。「青い風」が吹いている・・という内容の詩であったと思う。自分を見守る人たちには、ゴボゴボと血を吐いている姿は、いかにも凄惨きわまりなく、苦しそうに見えるだろうけど、「青い風」が吹いて、自分はいたって気持ちいい・・という内容だったと思う。
それを読み、また、自分の見た経験、瀕死状態を経験した方からの話を聞いて、死ぬ間際というのは、気持ちいいにちがいないと思っている。
月夜の幻惑ーモノがたりーその9
http://bookend.blog.so-net.ne.jp/2006-03-25
脳内麻薬と頭の健康―気分よければ頭もまたよし (ブルーバックス)
- 作者: 大木 幸介
- 出版社/メーカー: 講談社
- 発売日: 1988/09
- メディア: 新書
聖書によると、「罪の報いは死」と記されている。人類の共通の祖先アダムとエバが神の命令に背いて「罪」を犯した結果、その子孫である人類全体が死を免れえなくなったというのが聖書の教えだが、神は、アダムの子孫に憐れみをお示しになり、死を受け入れやすくして下さったのではないか・・と当方は勝手に思っている。
彼岸過迄に就て
事実を読者の前に告白すると、去年の八月頃すでに自分の小説を紙上に連載すべきはずだったのである。ところが余り暑い盛りに大患後の身体からだをぶっ通とおしに使うのはどんなものだろうという親切な心配をしてくれる人が出て来たので、それを好いい機会しおに、なお二箇月の暇を貪むさぼることにとりきめて貰ったのが原もとで、とうとうその二箇月が過去った十月にも筆を執とらず、十一十二もつい紙上へは杳ようたる有様で暮してしまった。自分の当然やるべき仕事が、こういう風に、崩くずれた波の崩れながら伝わって行くような具合で、ただだらしなく延びるのはけっして心持の好いものではない。
歳の改まる元旦から、いよいよ事始める緒口いとぐちを開くように事がきまった時は、長い間抑おさえられたものが伸びる時の楽たのしみよりは、背中に背負しょわされた義務を片づける時機が来たという意味でまず何よりも嬉うれしかった。けれども長い間抛ほうり出しておいたこの義務を、どうしたら例いつもよりも手際てぎわよくやってのけられるだろうかと考えると、また新らしい苦痛を感ぜずにはいられない。
久しぶりだからなるべく面白いものを書かなければすまないという気がいくらかある。それに自分の健康状態やらその他の事情に対して寛容の精神に充みちた取り扱い方をしてくれた社友の好意だの、また自分の書くものを毎日日課のようにして読んでくれる読者の好意だのに、酬むくいなくてはすまないという心持がだいぶつけ加わって来る。で、どうかして旨うまいものができるようにと念じている。けれどもただ念力だけでは作物さくぶつのできばえを左右する訳にはどうしたって行きっこない、いくら佳いいものをと思っても、思うようになるかならないか自分にさえ予言のできかねるのが述作の常であるから、今度こそは長い間休んだ埋合うめあわせをするつもりであると公言する勇気が出ない。そこに一種の苦痛が潜ひそんでいるのである。
この作を公おおやけにするにあたって、自分はただ以上の事だけを言っておきたい気がする。作の性質だの、作物に対する自己の見識だの主張だのは今述べる必要を認めていない。実をいうと自分は自然派の作家でもなければ象徴派の作家でもない。近頃しばしば耳にするネオ浪漫派ローマンはの作家ではなおさらない。自分はこれらの主義を高く標榜ひょうぼうして路傍ろぼうの人の注意を惹ひくほどに、自分の作物が固定した色に染つけられているという自信を持ち得ぬものである。またそんな自信を不必要とするものである。ただ自分は自分であるという信念を持っている。そうして自分が自分である以上は、自然派でなかろうが、象徴派でなかろうが、ないしネオのつく浪漫派でなかろうが全く構わないつもりである。
自分はまた自分の作物を新しい新しいと吹聴ふいちょうする事も好まない。今の世にむやみに新しがっているものは三越呉服店とヤンキーとそれから文壇における一部の作家と評家だろうと自分はとうから考えている。
自分はすべて文壇に濫用らんようされる空疎な流行語を藉かりて自分の作物の商標としたくない。ただ自分らしいものが書きたいだけである。手腕が足りなくて自分以下のものができたり、衒気げんきがあって自分以上を装よそおうようなものができたりして、読者にすまない結果を齎もたらすのを恐れるだけである。
東京大阪を通じて計算すると、吾わが朝日新聞の購読者は実に何十万という多数に上っている。その内で自分の作物さくぶつを読んでくれる人は何人あるか知らないが、その何人かの大部分はおそらく文壇の裏通りも露路ろじも覗のぞいた経験はあるまい。全くただの人間として大自然の空気を真率しんそつに呼吸しつつ穏当に生息しているだけだろうと思う。自分はこれらの教育あるかつ尋常なる士人の前にわが作物を公おおやけにし得る自分を幸福と信じている。
「彼岸過迄ひがんすぎまで」というのは元日から始めて、彼岸過まで書く予定だから単にそう名づけたまでに過ぎない実は空むなしい標題みだしである。かねてから自分は個々の短篇を重ねた末に、その個々の短篇が相合して一長篇を構成するように仕組んだら、新聞小説として存外面白く読まれはしないだろうかという意見を持じしていた。が、ついそれを試みる機会もなくて今日こんにちまで過ぎたのであるから、もし自分の手際てぎわが許すならばこの「彼岸過迄」をかねての思わく通りに作り上げたいと考えている。けれども小説は建築家の図面と違って、いくら下手でも活動と発展を含まない訳に行かないので、たとい自分が作るとは云いながら、自分の計画通りに進行しかねる場合がよく起って来るのは、普通の実世間において吾々の企くわだてが意外の障害を受けて予期のごとくに纏まとまらないのと一般である。したがってこれはずっと書進んで見ないとちょっと分らない全く未来に属する問題かも知れない。けれどもよし旨うまく行かなくっても、離れるともつくとも片かたのつかない短篇が続くだけの事だろうとは予想できる。自分はそれでも差支さしつかえなかろうと思っている。
(明治四十五年一月此作を朝日新聞に公けにしたる時の緒言)