イージス艦の犠牲になられた方たちへの「うらじまい」という儀式 [ニュース・宗教]
その儀式として、僧侶が読経し、海に塩をまいているようすがニュースで報じられていた。
はじめて耳にした言葉だが、その儀式のことを「うらじまい」と称するのだそうだ。
葬儀という儀式は、お亡くなりになられた方が、たしかに死んだという事実を、残された人々が確認するためである・・と聞いたことがある。
死の事実を確認するためには、遺体を前にして、ある程度の時間が経過し、息をふきかえさないことを、残された人々が見届ける必要があるわけだが・・・
今回のような海難事故の場合、遺体は流されてどこぞやへいってしまい見出されない場合も多い。
そのような場合、やはり生き残った人々の心の整理をするためにも、葬儀にかわるなんらかの儀式がやはり必要ということなのだろうと思う。
一週間ほど、組合の方たちの捜索が行なわれ、親族の方からもう結構ですという依頼がなされ、組合長が、それを受け入れ、捜索をうちきり、僧侶を招請して「うらじまい」がなされ、犠牲になったおふたりの葬儀に代えられたということなのだろう。
組合の「仲間」も、なんとか見つけたいと捜索するものの、親族も、遺体を引き上げたいと願うものの、いつまでもそうしつづけるわけにはいかない。どこかで、これで終わりと線引きする必要がある。この油代の高いとき捜索のために船をだし、仕事から離れるのは「仲間」にとってタイヘンであったろうと思う。また、いつまでも「仲間」の好意に甘えてはいられない辛さを親族もジュウジュウ感じていたことだろう。
捜索の打ち切りを申し出ることは親族にとってたいへんツライことであったろうと思う。
大切な家族を「あたご」に殺され(言葉はキツイがそう書かざるをえないように思う)、こころの整理を「うらじまい」というカタチで、付けざるをえないご親族のことを思うと・・・
これまで、責任所在を明確にする点でも、その調査の手続きをめぐっても、責任回避に熱心な(と、思わせる)防衛省をめぐる報道は、親族の神経を逆撫でするもの:心の整理を妨げるものであるように思う。
ローマ法王の発言 [ニュース・宗教]
ローマ法王の発言がイスラム世界に影響を及ぼしているという。
発言の内容ではなく《法王(あるいは、教皇)》という立場そのものについて少し検討してみよう。もちろん、《聖書の言葉に照らして》である。
ローマ法王がカトリック教会のトップであるのは言うまでもない。多くの人は、カトリック教会はキリスト教の諸教派を代表するもので、特に《法王》はキリスト教の「顔」のように漠然と感じている方は多いと思う。
しかし、そうだろうか?キリストの教えを代表し実践しているといえるだろうか?
たとえば、次の言葉に照らしてどうだろうか?
「あなたがたは先生と呼ばれてはなりません。あなたがたの教師はただひとりしかなく、あなたがたはみな兄弟だからです。
あなたがたは地上のだれかを、われらの父と呼んではいけません。あなたがたの父はただひとり、すなわち天にいます父だけだからです。
また、師(指導者)と呼ばれてはいけません。あなたがたの師(指導者)はただひとり、キリストだからです。」
以上は、マタイ23章8~10節(新改訳聖書)であるが・・・
「法王」のことを英語で Pope という。この語源はギリシャ語pappas (=father:父)から派生している言葉だ。カトリック信者は、法王を「父」と呼んでいる。(カトリック教会はソレを容認している。)
一般の信者同士は、「兄弟」のような関係にあるのかもしれないが、法王と一般の信者は、ホントウニ「兄弟」のような関係にあるだろうか?
よくテレビの映像などで、一般の信者たちがひざまずき額づいているスガタを見かけるが・・・
法王は、キリストの12使徒のひとりペテロの後継者を標榜している。では、使徒ペテロは仲間との関係でどんな態度を示しただろうか?
ペテロが、自分のことを「父」と呼ばせた記録は聖書中に無い。
また、ペテロが、他の人からの崇敬(尊崇)の念を受け入れた記録も無い。
西暦36年のこととされているが・・・
それまでユダヤ人にとって「汚れたもの」と見做されていた外国人が、神に受け入れられるようになったことを知った後、ペテロは、次のように述べている。
「わたしは、神が不公平(not partial)な方ではなく、どの国民でも、神を恐れ、義を行なう人は神に受け入れられるのだということがはっきりわかります」(使徒10章34,5節新世界訳)
ソノ外国人として最初のクリスチャンになったイタリア人の軍人(コルネリオ)は、ペテロの訪問を受けた時、次のようにふるまった。
「ペテロが着くと、コルネリオは出迎えて、彼の足もとににひれ伏して拝んだ。」
ペテロは、その敬意を好意をもって受け入れたであろうか?続く節には
「するとペテロは彼を起こして『お立ちなさい。わたしもひとりの人間です』と言った。」とある。(使徒10章25,26節新改訳)
これは使徒ヨハネの例であるが・・・
ローマ皇帝ドミティアヌスの頃、「神とイエスについて証ししたため」エーゲ海の島(パトモス島)に流刑になっていたヨハネは、み使い(天使)をとおし神からの啓示を受ける。
(それを今日「ヨハネの黙示録」として読むことができる)
ヨハネは、自分に驚嘆すべき啓示を与えた天使の足もとにひれ伏して崇拝しようとした時、天使から警告される。
「気をつけなさい!そうしてはなりません!わたしは、あなた、またあなたの兄弟たちの仲間の奴隷にすぎません。神を崇拝しなさい」(ヨハネの黙示録 22章8、9節新世界訳)
聖書は、崇敬の念を示すべき対象は創造者である神ただひとりに限っている。
ローマ法王は崇拝の対象と・される(なる)べきでないし、そうする信者たちのふるまいを容認すべきでもない。
しかし、実際のところ、ローマ・カトリック教会がソノヨウニしているということは聖書の教え、キリスト教からの逸脱を示すものであり、モット率直にいうなら「背教」している証拠でもある。
中東情勢(イスラエルは神の後ろ盾を得ているか?) [ニュース・宗教]
イスラエルのレバノン攻撃が激しくなっているようだ。
宗教がらみの紛争はコリゴリであると思う方も少なくなかろう。
イスラエルの攻撃の是非についていろいろ言われているようだが、実のところ神はイスラエルの後ろ盾となっているのだろうか?
現在のイスラエルは第二次大戦後できた国である。
世界中に離散していたユダヤ人が「シオニズム運動」とかで、離散させられる以前に住んでいた地域に帰還したのだ。
西暦70年にローマ帝国によって滅ぼされて以来、1900年ほどの期間、アソコにはイスラエルという国家は無かったのだ。
忽然と姿を現わしたのである。それまでソコニ住んでいたであろう人たちは驚いたにちがいない。
当方が聖書を学んだ理由の一つは、そのようなイスラエルの歴史を考慮したからである。そのようにするときに「スゴイ民族だな」とユダヤについて感じざるをえなかったのだ。
日本が、イスラエルと同じように滅ぼされ、日本人が世界中のさまざまな国に離散させられ、1900年近く経過したなら、日本語ははたして(ヘブライ語のように)残るだろうか、シオニズム運動のように「日本列島ユーターン運動」とでも称する運動が起きて、ふたたび国家が再建されることはあるだろうかと考えたのだ。
そのように考えるとユダヤ民族をソレマデ独自な民族としたものは何だろうかとさらに考えてしまったのだ。
そうして得た結論は聖書という書物であったわけだ。
イスラエルに現在住んでいる人々の多く(ユダヤ教の人々)は、自分たちは聖書の神に是認されている、聖書の神を正しく崇拝していると思っているかもしれない。
神の後ろ盾を得ていると思っているにちがいない。
しかし、聖書の教えるところによるとソウではない。
1世紀のユダヤ人たちは、自分たちの奉じる神から退けられ、その明白な証拠として滅ぼされたのである。
理由は、神が遣わしたイエスという名の人物を、十分な証拠があるにもかかわらずメシア(キリスト)として受け入れなかったからである。
聖書の神の是認は、イスラエル国民からイエスを信じるキリスト教徒(ただし、真のキリスト教)に移行して今日に至っている。
〔ユダヤ人(ユダヤ教を奉じる人々)に言わせれば、彼らは新約聖書を受け入れていないので、「それは新約聖書を信じるキリスト教徒の言い分である」と言うにちがいないが・・・。〕
神の創造された地球上にかってに線引きをして争いあうことが続いているが、地球全体を滅ぼしかねない軍事力を人間が持つにいたった今日、神が時を定め、それらの紛争を終結させることについて聖書が教えているというのは慰めである。
靖国神社合祀分祀の決定権は神社側に [ニュース・宗教]
7月27日 asahi.comニュース(06時05分)に
《A級戦犯、広田元首相の遺族 「靖国合祀合意してない」》
という見出しで 記事が出ていた。
東京裁判でA級戦犯として起訴され、処刑された広田弘毅元首相については城山三郎さんが『落日燃ゆ』という伝記小説として記している。もちろん城山さんは、広田元首相を好意的に描いているのだが・・
その小説がドラマ化されたものを一度見た覚えがある。
滝沢修が広田元首相を演じていた。拘置所のなかでの場面で、同じ監房に収容された他の者から「楽しかったことはなにか」と尋ねられ・・・「楽しかったこと・・・」と、困惑した顔で記憶をたどるのだが、こたえの出てこないありさまが印象的であった。
広田元首相は唯一の文官として処刑に甘んじたのではなかったかと思う。(処刑者は7名であった)
そのご遺族が、靖国神社に合祀されていることを遺憾に思っている。
お孫さんの弘太郎さんは「合意した覚えはない。今も靖国神社に祖父が祀られているとは考えていない」と述べたということだ。
靖国神社の広報課は「弘田弘毅命に限らず、当神社では御祭神合祀の際には、戦前戦後を通して、ご遺族に対して御連絡は致しますが、事前の合意はいただいておりません」とコメントしたということだ。
実質上の合祀決定権は神社側にあるとされている。
(医療の世界ではインフォームド・コンセント、インフォームド・チョイスが主流になりつつある今日以上のようなことがなされているということだ。)
太平洋戦争で亡くなった台湾先住民の遺族らが「無断で祀るのは民族の意思に反する」として合祀取り下げを求めたが、神社側は「神として祀った霊を分けることはできない」という立場から申し出を拒否したということだ。
宗教選択の自由は憲法で保証されているはずだ。宗教の選択については、本人の意思が最も尊ばれるべきだ。自分の知らぬうちに、自分の名がある宗教団体の名簿に入っていることを知ったなら驚くにちがいない。まして、自分の奉じる宗教等がすでにあって、それとはまったく異なる教えの宗教団体に自分の名があることを知ったならどうだろうかと思う。
「死人に口なし」である。しかし、生前それなりの意思をもっていたはずだ。その意思を考慮にいれず、また、ご遺族の意思をも考慮せず、事務的に合祀していく靖国神社の対応は人間の尊厳を無視するもののように思う。
ましてや、靖国神社で合祀されるということは祭神として祀られるということだ。
神様にされるということだ。
先の戦争で「お国のために」亡くなった方のすべてが"自ら”お国のために命を捧げたわけではない。「お国のために」命を供出させられ、非業の死を遂げ(させられ)たと思う(ご本人)ご遺族もいるはずだ。靖国神社をウラミに思っている方たちも多くいるはずなのである。靖国神社は戦争遂行と戦意高揚のための道具とされてきたという歴史がある。
その靖国神社によって命を供出させられ非業の死を遂げたのちに、今度は、神として祀りあげられて(保阪正康氏の報告によれば靖国神社併設の資料館はまるで戦意高揚をはかるための施設のような状態であるということだ。その歴史観はまるで、戦争遂行中のソレであるということである)誤った歴史観にもとづく、あやまった愛国心の発揚に(自分が・家族が)用いられるとしたなら、その亡くなった方たちの気持ちはいかがだろうか?そのご遺族の気持ちはいかがだろうか?
・・・などなど思ってしまうのである。
#「生ける者は、その死なんことを知る。されど死ねる者は何事をも知らず、また報いを受けることも重ねてあらず・・・その愛も憎しみも妬みも既に消えうせて彼らは日の下でおこなはるる事にもはやいつまでも関わることあらざるなり・・」伝道の書 9章5、6節
アインシュタインの予言:孫引き注意! [ニュース・宗教]
「アインシュタインの予言」なるものを聞いたことはおありだろうか?
「神に感謝する。我々に日本という尊い国をつくっておいてくれたことを」といったくだりのある文章なのだそうだ。
相対性理論のアインシュタイン博士のモノとされる、日本を賛美する言葉は、実は、博士のものではナイ!ということだ。
東京大学教授中澤英雄氏が、出典が常にアイマイであり、かつ、博士の思想とも合致しないので、疑問に思い、調査して得た結論であるということだ。
調査によると・・
「アインシュタイン」のことばとして出てくる書籍で最も古いのは1956年の本。
さらに「アインシュタインの予言」に“よく似た文章”が出てくるのは、昭和3年の田中智学の本。
『日本とは如何なる国ぞ』
田中智学は『国柱会』という日蓮宗の宗教団体の創設者。
戦時中の日本の国体思想に大きな影響を及ぼした人物である。
(因みに『国柱会』の熱心な信者の一人に宮沢賢治がいる。)
ソノ田中智学の本に、明治憲法の成立に大きな影響を及ぼしたシュタイン博士の言葉として出てくるのだそうだが、田中がコノ言葉を知る元となったローレンツ・フォン・シュタインの講義録を調べてもソノヨウナ言葉はなく・・・・、中澤教授は、田中が、自分の思想に、シュタインの名を用い、ことよせて書いた可能性が高い・・と結論されたということだ。
そのシュタインが、孫引きされるうちに、いつの間にか「アイン」がついてしまったらしい。
伝言ゲームのようなハナシだ。
誠実ではあっても、ウッカリすると根拠の全く無い情報を垂れ流してしまう可能性がある。ご本人の意向と全くことなること(実際にはウソ)を流布することになりかねない。ネットでも広まっているということであるので、「アインシュタインの予言」のみならず、ナンデアレ出典のアイマイなものには要注意である。
(因みに、当記事は、asahi.com 2006年06月07日11時06分配信記事に基づくものです。googleで「アインシュタインと日本」をキーワードに検索しますと、中澤教授の文章も見ることができます。)
また、『ごま書房』刊の上記イメージ書籍の中に引用されているアインシュタインの予言について・・・、東海大教授でアインシュタイン研究者の板垣良一氏は「この言葉はアインシュタインのものではないと断言できる。彼はキリスト教徒でもユダヤ教徒でもなく、『神』にこだわらない人だった。日記や文献を詳しく調べてきたが、彼が天皇制について述べた記録はない」と話している。
ドイツ人のローマ法王、アウシュビッツを訪問 [ニュース・宗教]
カトリックのローマ法王ベネディクト16世(79)が、大量虐殺(ホロコースト)の舞台アウシュビッツを訪問したという。(asahi.com国際ニュースから5・29・00時57分)
「ドイツ人法王の訪問を世界中が注目した。」と記事に記されていた。
法王の訪問は、先の法王ヨハネパウロ2世の1979年のソレ以来、第二次大戦終結後、2度目なのだそうである。
しかも、現法王の、今回のポーランド訪問の予定に、本来アウシュビッツは入っていなかったが、「行かなければならない」と繰り返し現法王が主張し、急遽訪問が取り決められたということだ。
歴代の法王たちがアウシュビッツに出向きにくいワケが何かあるのだろうか?
特に、現法王の場合、"ドイツ出身"であることが出向きにくくさせる大きな要因のようだが、ソレはナンだろうか?
・・・と思い、調べたら・・・
ドイツのヒトラー政権:ナチスとカトリックの関係が濃密なことがわかった。
大量虐殺を産んだ政権とかかわりの深いバチカンのトップが、大きな被害をもたらした場所に出向きにくくなるのは当然である。
http://inri.client.jp/hexagon/floorA6F_hb/a6fhb400.html-27k
《上記URLなのですがクリックすると「NOT FOUND」の表示が出ます。Google検索で「ナチス バチカン」と語句を入力すると上記URL等の資料を見ることができます。上記URLページの主題は「ナチスとバチカン 教皇ピオ12世の沈黙」です。》