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イージス艦の犠牲になられた方たちへの「うらじまい」という儀式 [ニュース・宗教]

イージス艦に当てられて犠牲になったお二方の所属する漁業組合による捜索が、うちきられた。

その儀式として、僧侶が読経し、海に塩をまいているようすがニュースで報じられていた。

はじめて耳にした言葉だが、その儀式のことを「うらじまい」と称するのだそうだ。


葬儀という儀式は、お亡くなりになられた方が、たしかに死んだという事実を、残された人々が確認するためである・・と聞いたことがある。

死の事実を確認するためには、遺体を前にして、ある程度の時間が経過し、息をふきかえさないことを、残された人々が見届ける必要があるわけだが・・・

今回のような海難事故の場合、遺体は流されてどこぞやへいってしまい見出されない場合も多い。

そのような場合、やはり生き残った人々の心の整理をするためにも、葬儀にかわるなんらかの儀式がやはり必要ということなのだろうと思う。


一週間ほど、組合の方たちの捜索が行なわれ、親族の方からもう結構ですという依頼がなされ、組合長が、それを受け入れ、捜索をうちきり、僧侶を招請して「うらじまい」がなされ、犠牲になったおふたりの葬儀に代えられたということなのだろう。

組合の「仲間」も、なんとか見つけたいと捜索するものの、親族も、遺体を引き上げたいと願うものの、いつまでもそうしつづけるわけにはいかない。どこかで、これで終わりと線引きする必要がある。この油代の高いとき捜索のために船をだし、仕事から離れるのは「仲間」にとってタイヘンであったろうと思う。また、いつまでも「仲間」の好意に甘えてはいられない辛さを親族もジュウジュウ感じていたことだろう。


捜索の打ち切りを申し出ることは親族にとってたいへんツライことであったろうと思う。

大切な家族を「あたご」に殺され(言葉はキツイがそう書かざるをえないように思う)、こころの整理を「うらじまい」というカタチで、付けざるをえないご親族のことを思うと・・・

これまで、責任所在を明確にする点でも、その調査の手続きをめぐっても、責任回避に熱心な(と、思わせる)防衛省をめぐる報道は、親族の神経を逆撫でするもの:心の整理を妨げるものであるように思う。
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