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ロード・ジム(コンラッド著) [アート・美術関連]

ロード・ジム ピーター・オトゥール主演の映画『ロードジム』を見た。

『アラビアのロレンス』の東南アジア版というような映画だ。

ロレンスは、アラブの独立指導者として、敬意をもってエル・オレンスと呼ばれた。同じように、ジムにもロードの尊称が与えられる。

密林の奥の平和な村を収奪した白人から、村人たちを解放したことへの敬意からだ。

しかし、主人公ジムは、暗い過去のある人物で、密林の奥へは、逃れるようにしてやってきたのだ。

映画のなかで、強調され、主人公を呪縛しているのは「逃避」を忌避する姿勢だ。そもそも、暗い過去を背負うことになったのは「逃避」のゆえなのだ。ジムは、元船員であり、多くの旅客を見捨て、その難儀に際し「逃避」してしまった男なのである。

「逃避」することによって、侮蔑の対象となり、自らを責めるようになった男が、村人の自由のために立ち上がり、かかわらなくてもいい争いの渦中に身を置き、「逃避」しなかったことで英雄になる。しかし、その英雄が、村の掟に逸脱し、「逃避」する機会が与えられたにもかかわらず、「逃避」を拒否したために村長に射殺されて果てる。

 

しかし、映画を見ていて・・・

うしろぐらい過去が、それほど重いものに思えなかったり、なぜ村長から射殺されなければならないのか・・・呑み込めないところがある。

心理の変化にはそれなりの理由が必要なのに、その必要な説明が十分になされていないのが理由のようである。時間の制約が大きな障害となっているのであろう。 

しかし、作品自体は、なにかもっと深い精神性を秘めているように感じられる。宗教的なバックグラウンドを感じさせられる。

スタインから依頼されてジムは村人たちの救いに赴くのだが、それは聖書でいう「父」(すなわち神)が、子(キリスト)を人類の間に遣わしたことをベースにしているように思われる。ジムが、「紳士」然とした悪逆非道の男を許し、そのために犠牲者がでた時、その償いのために自分の命を差し出したことは、人類の罪の赦しのために、犠牲となったキリストを想起させられもする。

しかし、同時に、輪廻(再生)の思想について村人に語らせてもいるところをみると、東洋と西洋の生死をめぐる思考様式の衝突をひとつの主要なテーマとしているようにも思われる。

 

より深いところが映画ではざっと扱われているように思われるので、原作を読み始めた。あるサイトによると冒険小説の筆頭に数えられるものであるそうな・・・ 

http://www.sunlifes.com/book/library/zinde16.htm

白鯨 以前、メルヴィルの『白鯨』(阿部知二訳)を読んで、メルヴィルの入り組んだ文体に難儀した。(同時に、阿部知二の名訳に感嘆した。)メルヴィルほどでは全然ないが、コンラッドの文体も難解だ。

二人とも船員としてシケの海に翻弄された経験者だが、海でさんざんもまれると、文体もそれらしくなるのかもしらない。

ざっと読み始めたが、そんなわけで、ある意味、原作よりも、テーマを単純にしぼった映画の方が、原作者の意図に近づくには早道かもしれない。

ロード・ジム (上) (講談社文芸文庫) ロード・ジム〈下〉 (講談社文芸文庫)

 


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