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3:古い映画と最近のドラマに見る身体の動き [スポーツなぞ]

1943年製作、成瀬巳喜男監督映画『歌行燈』を見て、思うことがある。「拍子」のことだ。

泉鏡花原作・成瀬巳喜男監督『歌行燈』
https://www.youtube.com/watch?v=gEgfZ7Ixvsc

宗家よりも名人上手であるかのように思いあがった盲人を、喜多八がこらしめる場面がある。謡をうたう合間に膝をポンポンと鼓のように叩く。それで、その鼻っ柱をへし折るという場面だ。
17:02~21:20

結局、そのことを聞き知った父親(師匠)から喜多八は勘当されてしまうのだが、そのときのことを喜多八が説明する場面がある。25:10~27:50

それを聞いていたひとりが言う。
「拍子ひとつでそのような目に会わせることができますので・・」

喜多八が答える。
「恩地代々相伝の修行。武士の生き死にもおんなじことです

青空文庫の『歌行燈』(二十一)からその部分を抜粋すると次のようになる。

(以下、抜粋)

「……この膝を丁(ちょう)と叩いて、黙って二ツ三ツ拍子を取ると、この拍子が尋常(ただん)じゃない。……親なり師匠の叔父きの膝に、小児(こども)の時から、抱かれて習った相伝だ。対手(あいて)の節の隙間を切って、伸縮(のびちぢみ)を緊しめつ、緩めつ、声の重味を刎上(はねあげ)て、咽喉(のど)の呼吸を突崩す。寸法を知らず、間拍子の分らない、まんざらの素人は、盲目聾(めくらつんぼ)で気にはしないが、ちと商売人の端くれで、いささか心得のある対手(あいて)だと、トンと一つ打たれただけで、もう声が引掛(ひっかか)って、節が不状(ぶざま)に蹴躓(けつまず)く。三味線の間(あい)も同一(おんなじ)だ。ー略ー。

 さすがに心得のある奴だけ、商売人にぴたりと一ツ、拍子で声を押伏(おっぷせ)られると、張った調子が直ぐにたるんだ。思えば余計な若気の過失(あやまち)、こっちは畜生の浅猿(あさましさ)だが、対手(あいて)は素人の悲しさだ。

 あわれや宗山。見る内に、額にたらたらと衝(つ)と汗を流し、死声(しにごえ)を振絞ると、頤(あご)から胸へ膏(あぶら)を絞った……あのその大きな唇が海鼠(なまこ)を干したように乾いて来て、舌が硬(こわ)って呼吸(いき)が発奮(はず)む。わなわなと震える手で、畳を掴つかむように、うたいながら猪口(ちょこ)を拾おうとする処、ものの本をまだ一枚とうたわぬ前(さき)、ピシリとそこへ高拍子を打込んだのが、下腹(したっぱら)へ響いて、ドン底から節が抜けたものらしい。
 はっと火のような呼吸(いき)を吐く、トタンに真俯向(まうつむけ)に突伏(つッぷ)す時、長々と舌を吐いて、犬のように畳を嘗(な)めた。
***抜粋ここまで***

しかし、喜多八が「武士の生き死にもおんなじことです」と答えるところは鏡花の原文にはない。

当方は、能の仕舞と武道の類縁性について聞いている。また、東北地方の剣舞(けんばい)が、祭を装って闘いに備える武術の稽古そのものであったようにも聞いている。

そのように考えるときに、スポーツにおける拍子と呼吸の関係について考慮できるように思う。

黒澤明の「三船敏郎」評から(その「動き」について)
https://bookend.blog.ss-blog.jp/2015-08-16

「呼吸だ」
https://bookend.blog.ss-blog.jp/2017-07-12

などと、考えて「拍子」について検索をかけていたら、宮本武蔵が『五輪の書』で論じているという。直接言及されていないにせよ、鏡花はそのことを知っていて『歌行燈』を書いていたかもしれない。

日本古典文学摘集 五輪書 地の巻 九一兵法の拍子の事
https://www.koten.net/gorin/yaku/109/

武蔵の結論「敵のリズムを崩せば勝ったも同然」
PRESIDENT 2007年8月13日号 長尾 剛
https://president.jp/articles/-/2016


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  • 発売日: 1985/02/18
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