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ヘレン・ケラーとスウェデンボルグ [スピリチュアルな話題]

昨日の更新時、TVドラマ『奇跡の人』(アン・バンクロフト主演)のURLを示すのに、ユーチューブを見た。すると、ヘレン・ケラーの著作にもとづく、かなりしっかりした(つまり正確な、信用していい)ドキュメンタリー番組がアップされていた。それを、見始め、ついつい、全部を見てしまった。予想外のことがあって、惹きつけられてしまったのだ。

ヘレン・ケラー 輝ける魂
https://www.youtube.com/watch?v=HGoYZ4oOmYU

ヘレン・ケラーといえば大きな身体的な障害を克服した偉人というイメージが強くある。それで、もうお腹いっぱい十分な気分になって、あえて伝記など読まずにきた。だが、そのドキュメンタリーで紹介されている、障害を克服していく過程において、その動機付けとなったモノが興味深かった。予想外だった。

それは、スウェデンボルグの影響だ。

スウェデンボルグを「霊能者」と簡単にくくってしまうと、語弊があるかもしれない。が、そう言っていいように思う。日本でいえば、出口王仁三郎みたいなものではないかと思う。イマジネーション能力が強大で、事実でないこと存在しないものまで見(え)てしまうと言ったらいいだろうか。

エマヌエル・スヴェーデンボリ(ウィキペディア)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%9E%E3%83%8C%E3%82%A8%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%82%B9%E3%83%B4%E3%82%A7%E3%83%BC%E3%83%87%E3%83%B3%E3%83%9C%E3%83%AA

世の中には、自分のイメージした、そのイメージに取り込まれて、あたかも行って見てきたかのように、まるで事実であるかのように、物語ることのできる人間がいるのだ。それを聞き、読む人間にも、「ウソだろう?」と思わせないくらいに、迫真性をもって語ることのできる人間がいるのである。語るイメージのなかに、人々を取り込んでしまうことのできる人間がいるのだ。簡単に言えば、「幻(覚)」を見せることのできる人といっていい。そうした見てきたもの、見せるものの中には、天国や地獄も入る。

故・筑波大教授の小田晋さんが『人はなぜ、幻覚するのか?―幻覚・妄想を人生に活かす』という本を書いている。そこには、弘法大師空海がそうであったし、目黒祐天寺の祐天上人がそうであったと記されている。

人はなぜ、幻覚するのか?―幻覚・妄想を人生に活かす

人はなぜ、幻覚するのか?―幻覚・妄想を人生に活かす

  • 作者: 小田 晋
  • 出版社/メーカー: はまの出版
  • 発売日: 2020/08/27
  • メディア: 単行本




などと書いていながら、当方は実際にスウェデンボルグや出口王仁三郎の著作を読んだことはない。それにもかかわらず、彼らを怪しげな霊能者あつかいすると、その信者の方たちから、読んでもいないのにとお叱りを受けそうでもあるが、これまで聞き及んだことから推して、そうではないかと思う。

ただ、そのスウェデンボルグの思想(当方から見れば、事実ではなくあくまでも思想)の影響のおかげで、将来目が見え耳が聞こえるようになる時がくることに信仰をもったことが、ヘレンの生きる力、希望となったことは事実のようである。

そのことは、見方を変えて言えば、ヘレン・ケラーは(アメリカ合衆国の人だから、元来どこかのキリスト教会に帰属していたはずであるが、それも含め)既存の教会から慰めを得ていなかったと言えるように思う。得ていたのであれば、スウェデンボルグを待つまでもなく、その影響を受けるまでもなく、既存の教会から聖書の言葉を聞いて慰めと励みを得ていたハズだからである。たとえば、以下のような言葉である。

その時,目が見えない人は見えるようになり,耳が聞こえない人は聞こえるようになる。その時,足が不自由な人は鹿のように跳びはね,口が利けない人は歓声を上げる。イザヤ35:5,6
https://wol.jw.org/ja/wol/b/r7/lp-j/nwtsty/23/35#study=discover&v=23:35:5-23:35:7

しかし、ここまで書いてきて思うに、ヘレン・ケラーはたぶん、聖書の言葉に信仰をもっていなかったわけではないのだろう。スウェデンボルグの聖書解釈が、既存の教会の説明より、彼女にとって納得のいく説得力のある魅力的なものだったということなのだろう。結局のところヘレンは、言わば「キリスト教スウェデンボルグ派」に入信したカタチになったのではないかと、当方は、思う。

ちなみに、ウィキペディアの「ヘレン・ケラー」の項には、スウェデンボルグの影響はひとことも出ていない。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%98%E3%83%AC%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%82%B1%E3%83%A9%E3%83%BC


以下、蛇足だが・・
キリスト教と称する教派、団体はたくさんある。日本の仏教と同じだ。しかし、聖典として聖書を戴いているのは共通である。創世記からヨハネの啓示(黙示録)に至る66の部分からなる聖書を権威として(外典や独自の追加した「聖書」を用いることなく)、66冊のうちに一貫性、調和ある理解を求めていくなら、さまざまな教派に分かれるようなことにはならないはずである。そもそも、聖書は神の霊感を受けて人間が書いたとされているが、その霊感を与えた神様は唯一なのであるから、分裂しようはずもない。それが、分裂しているのは、教派によって独自の解釈や都合のイイ解釈を加えているからだ。聖書を学ぼうという方は、そうした余分なものを排除して聖書全巻を学んでいく必要がある。そうすれば、おのずと神ご自身のお考えに至るはずなのである。

ユタ州で思いだした、モルモン教
https://bookend.blog.ss-blog.jp/2012-05-19


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  • 作者: 日本聖書協会
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