明治おんなは凄かった [本・書評]
上記書籍に田中とその母親のことが記されている。
哲学者の鶴見俊輔が母親について語ったことに似ている。
吉田松陰と後藤新平と小沢一郎
https://bookend.blog.ss-blog.jp/2009-07-06
田中は1906(明治39)年、鶴見は1922(大正11)年の生まれで、母親はどちらも士族出の明治女である。
明治生まれの母親がどんなだったか知ることができる。
いまのおかあさんたちはどのように感じるだろうか。
******以下、引用**********
「函館の小学校に入学した頃、その余りの腕白ぶりに業を煮やしたアイは、田中を教会に通わせることにした。そこの日曜学校で、少しは素行がよくなると期待したのだが、それは見事に裏切られた。「この子は本当に言うことをきかん子だと。あんまりきかないからというので、メソジスト教会にもやられた。小学校四年か五年の時だった。しかし、牧師の言うことなんか面白くもなんともないんだよ。日曜日の朝九時からの日曜学校だった。行った印にルカ伝の言葉とかエホバの言葉などの入ったカードを毎回くれるんだが、いわばこれが出席証明書のようなものだ」(大須賀瑞夫『評伝 田中清玄』勉誠出版)
「俺は教会から帰る子供を待ち受けていて、カードを取り上げるとそれを家に持って帰って『行った』ということにして、本当はそこいらで遊びほうけていたわけだよ。ある時、牧師と会った母が、『息子がご厄介になっています。きかなくてさぞご迷惑でしょう』と言ったら、『いや、お宅の坊やは二回来ましたね。一度はお母さんと。もう一度は一人で。その後は全然来ませんね』。それを聞いて母は激怒したんだな。俺をひい爺さんの田中玄純の墓前に引きずってゆくと、首に短刀を突き付けて、ここでお前の首を刎ね自分は腹を切って先祖にお詫びすると。短刀といっても真剣だからね。本当に怖かった。謝ったよ。それからは行儀をつつしんで教会へ行った」(同)p86
田中はのちに共産主義革命に熱心になる。武装闘争をおこなう。そのことで母親は自決(自殺)するに至る。以下は、その遺書。
「私はお前のために死んでゆく。お前は私を裏切った。なぜなら、お前は共産主義者になって、上は神を冒瀆し、下は国民の皆様に非常な迷惑をかけている。このような非国民を出したのは私の責任である。私は、先祖及びお前の亡き父に対して申し訳がない。そこで一身に代えてお詫びを申し上げる。お前は、私の死を空しくすることなく、犯した罪はいかなる罪であろうと、全部申しあげ、刑はいかなる刑であろうとも、臆することなく立派に服し、もし死刑を宣告されたなら、会津の家老の孫らしく、潔く刑に就け。それが、母の願いである」p82
「田中が共産主義を捨てる「転向」を宣言したのは、(母親)アイの死から四年後、一九三四年三月である」。p84