SSブログ

〈「西田哲学」スポーツで探る〉を読んで・・ [スポーツなぞ]

『朝日新聞』(12・15)に、以下の鼎談が掲載された。

「西田哲学」スポーツで探る 朝原宣治さん、山極寿一さん、上原麻有子さん
https://www.asahi.com/articles/DA3S14730906.html

鼎談の中では、「敵」・「味方」と表現されているが、昨日更新した映画『或る女』の登場人物たちを思い出しながら読んだ。そこに示された人と人との関係を想起したのだ。

田中絹代主演 監督 澁谷実『或る女』1942年を見る
https://bookend.blog.ss-blog.jp/2020-12-14

特に司会者の「敵が自分を高めるとの考え方は、他の領域、たとえば今の時期では受験生にも当てはまるのでしょうか」という問いかけに対して答えた部分だ。

世に住む人々を、無理にでも2つに分けようとすれば〈「敵」「味方」〉、〈「いやな(いけ好かない)ヤツ」「いいヤツ」〉という分け方もできる。そう分けて「排斥」したり「絶縁」したりという方策をとることなく生きていたのが、映画中の人間たちであろう。要するに、鼎談中にある「間(あいだ)」を大切に生きていたのかもしれない。

そんなことをぼんやり考えながら読んだ。

(以下は、上記記事の引用)

**************

今年、哲学者で京都帝国大教授を務めた西田幾多郎(1870~1945)の生誕150年を迎えた。難解で知られる西田哲学を現代の事例でとらえ直そうと、北京五輪メダリストの朝原宣治さん(大阪ガス)、ゴリラ研究で知られる前京大総長の山極寿一さん、西田哲学が専門で京大教授の上原麻有子さんに、スポーツや身体を切り口に語ってもらった。

西田幾多郎(解説文)いまの石川県で生まれ、1910年に京都帝国大学文科大学の助教授に。11年に『善の研究』を出版。同書は、主観によって客観をとらえる西洋哲学に対し、主観と客観とに分かれる前の「無」のような精神状態を「純粋経験」と説くなどして、話題を呼んだ。西田の影響で、京都には田辺元や三木清ら優秀な哲学者らが集まり、「京都学派」と呼ばれるようになった。

ーー朝原さんは2008年北京五輪の陸上男子400㍍リレーでアンカー。どんな心境でしたか。

朝原 その時走った100㍍の記憶は、ほとんどない。集中し、我を忘れて走る状態をよくアスリートが「ゾーンに入った」と言うが、そんな感じだった。僕には昨日と今日の自分が細胞レベルで同じか分からないという不安があり、練習後に「今日の感覚メモ」を書いて翌日に引き継ぎ、成果を高めようとしてきた。でも、あの時は自分が進んでいる感覚がなかった。不安も気負いも意識せず、勝手に走り出す状態だった。

ーーゴール後、バトンを放ったのが印象的でした。

朝原 ふつうは、今は60㍍地点を走っているとか、100分の1秒差でも勝ち負けはだいたい分かる。でも北京五輪ではゴール後すぐには勝敗が分からず、電光掲示板で確認した。3着(注・後に2位に繰り上げに)と分かり、わーっとなってバトンを投げた。前日はプレッシャーで押しつぶされそうだった。でも、最後の最後はもう、自分がコントロールできることなんてほぼなくて、もう「諦め」のような心境だった。「必ずメダルを取る」という強い意志が消えてしまうほど没頭していた。

上原 朝原さんの経験は、西田が言う「純粋経験」に当てはまる。西田は『善の研究』で純粋経験を「例えば一生懸命に断岸を攀ずる場合の如き、音楽家が熟練した曲を奏する時の如き」と説明した。何も考えることがない。環境と一体になっている。よじ登るしかない。そんな経験だ。朝原さんにとっては、強靭な意志で努力を積み上げて到達した頂点のような瞬間の状態のことだろう。その時にすばらしい結果が出る。西田は「動物の本能的動作にも必ずかくの如き精神状態が伴うて居るのであろう」とも言っている。

山極 僕はゴリラなどの動物と付き合っているから、よう分かる。身体は自然に属し、自然は言葉では言い切れない。西洋哲学では、人間を、頭で考えて身体を動かす中枢神経系の動物だと考えてきた。デカルトのいう「我思う、ゆえに我あり」のように。しかし、頭で意識せずに体が反応するプロセスがある気がする。自然界では過去と同じことは絶対に起こらないが、経験値が身体化されていれば対応できる。

朝原 100㍍走は8人で走るが、真ん中のレーンが走りやすい。なぜなのだろうか。

山極 一緒に走る選手は競走相手であり、仲間でもある。チームワークの作り方と似ている気がする。

朝原 8人をチームと考えれば、レベルの高い選手といると自分のレベルも高まるのかもしれない。

上原 西田も、世界や環境の中から自分が出てくると考えた。人間個人を「創造的要素」ととらえ、個人はばらばらにおかれた存在でなく、有機的におかれていると強調した。ライバルから受け取ったものを自分の中にインプットし、アウトプットする。スプリンターはそうして好記録を出しているのだろう。

ーー敵が自分を高めるとの考え方は、他の領域、たとえば今の時期では受験生にも当てはまるのでしょうか。

山極 確かに受験勉強でもライバルに勝つことは重要だが、一緒に競った相手は仲間でもある。会社もそう。皆がライバルであり、目的に向かってタッグを組む仲間だ。敵、味方の二元論でなく、両方をうまく利用する「間(あいだ)」の思想が東洋哲学にはあり、西田もそこを強調したのだと思う。

上原 西田はそうした関係性を「弁証法的」と言った。相互に試行錯誤し合う関係のことだ。いい方向にばかり行くのでなく、失敗や悪いこともたくさんあるが、それを是正して、次のいい方向に持っていく関係性を、私たちは生きていく限り営まないといけない。

西田の議論は抽象的かつ難解で、研究者にも分からない点が多いと言われる。朝原さんの経験談を聞くことで、逆に西田哲学が照らされたと思う。(構成・小林正典)

以下、当方未読

幕末明治 移行期の思想と文化

幕末明治 移行期の思想と文化

  • 出版社/メーカー: 勉誠出版
  • 発売日: 2016/05/17
  • メディア: 単行本