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竹内結子の死について [スピリチュアルな話題]

今朝、竹内結子・自殺のニュースに驚いた。

ここのところ俳優、それも売れっ子が自殺している。「またかい・・」という思いである。コロナ禍で、仕事量が減ってタイヘンであることは聞いているが、なにも死ななくてもと思う。売れっ子たちは、売れていただけに、売れないことの落差についていけなくなるのだろうか。

もとより売れていない役者なら、「役者なんてむかしは『河原乞食』と言われていた。食えなくて当然」という思いや覚悟があるのだろうけど、芸能界に入った初めから苦労知らずでスター的存在になった人ほど、対応力に欠けているかもしれない。

たとえていえば、苦労なくスターになった人は、豪華クルーザー。苦労人はヨット。ヨットは大波をくらって転覆してもセンターボード+バラストのおかげで復元できるが、クルーザーは転覆すればそれまでである。苦労がすくないとそうした対応力、復元力に欠けるように思う。

もっとも以下の動画では、転覆に強いはずのヨットが転覆し、復元できないまま浸水が進み、乗員が救助を求めた事例が出ている。Reconstructionとあるので、いわゆる「再現ビデオ」と思うが、当時の状況がよく分かる。

Miraculous Survival at Sea
https://www.youtube.com/watch?v=FjbBTvnM1ZM


さっきNHK/FMで「グッチ裕三の日曜ヒルは話半分」を聞いていた。途中から聞いたので、ほんとうに話し半分で、当初ゲストが誰か分からなかった。だれかと思えば小柳ルミ子である。なんでも、このコロナ禍で仕事が無くなり、引退も考えたという。自分は必要とされていないんだと考えて悲観したと話していた。芸歴50年の歌謡スターが、である。

番組終了後、スマホを見たら、明日(28日)『徹子の部屋』にもゲストで呼ばれて、引退を考えた話をするようだ。しばらく前に、小柳が引退を考えているようなハナシをネット上で読んだように思う。相次いで、ふたつの番組にひっぱり出されたのは、そのハナシを番組関係者が聞き及んでのことだろうか。

自分は必要とされていると“感じている”ことは大切だ。子どもに対する接し方で、褒めることは望ましく、叱ることも相手への関心の表れで望ましく、無視するのが最悪の対応であるように聞く。これは子供にかぎらず、大人でも同様だろう。

社会的に無視されているように“感じて”しまうことは、悲劇につながりかねない。小柳は、サザンの桑田が褒めてくれているのを雑誌で読んで、号泣したと話していた。それまで、よっぽどツライ気持ちでいたであろうことが分かるはなしだ。

自分は必要とされていると“感じ”られるように、お互いに接したいものだ。

その点、竹内結子の場合、愛する家族があり、子どもがいて、仕事もそこそこあって、死に急ぐ理由などないように思うが、もしかすると、売れに売れまくっているときのチヤホヤ感が自分の存在を証拠づけるもので、ソレがナイということは、存在していないも同然と“感じて”しまったのカモしれない。そして、存在しないも同然の人間は実際に存在しなくてもイイと、行動に移ってしまったのだろうか。

統合失調症(分裂病)の症状に、離人症というのがある。ふつうの人でもある程度の現実喪失感は時に経験するものだが、実世界の現実感が如実に失われる。そこにアルものがアルものとして感じられなくなる。世界がガラス板をとおして見たようになる。自分自身もそうした対象になる。意味を喪失する。そうした感覚は、世界との別れにつながる可能性がある。人知れず、そうした悩みをもっていたのカモしれない。

しかし、それにしても、なんとも痛ましいことである。残されたご家族がたいへん気の毒である。


分裂病の少女の手記―心理療法による分裂病の回復過程

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