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2:伝説的なアメリカ最高裁判事:オリバー・ウェンデル・ホームズ [本・書評]

先回、オリバー・ウェンデル・ホームズのことをD・カーネギーの本から引用した。その本には、G・B・S(ジョージ・バーナード・ショー)やH・G・ウェルズ、ジャック・ロンドンなど37人が取り上げられている。ひとりにつき5分で読める程度の分量で短い。それでも、著者と親しく接した人物らが多く、人柄がリアルに伝わってオモシロイ。それで、愛読し、浴室に置いていたものだから、本は背が割れて、ページがバラバラになってしまった。

その中でも、とりわけ気に入っているひとりがオリバー・ウェンデル・ホームズなのだ。すべての人物について短い紹介文が付いているが、ホームズについては

こんな老いぼれにならなってみたい、と思うだろうが、さて君にできるか?

である。

先回、後半部分を引用したが、前半を以下に引用してみる。お楽しみいただければ幸甚である。

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この話はアメリカ思想界全般に偉大な影響を及ぼした人物の話だ。法学方面には特に影響が大きい。何しろアメリカはじまって以来の傑出した学者だった。それでいて実に人間味ゆたかで、火事があると駆け出して見物に行くし、ちょいちょい茶番劇(バーレスク)なども見物するし、特に探偵小説が大好きでとうとう1週間に1冊か2冊と自分で限度を決めたほどだ。最高裁判事オリバー・ウェンデル・ホームズとはそんな人物である。生れは1841年、まだ合衆国が27州しかなかった頃だ。1935年に亡くなる。94歳だった。

彼は過去1世紀間のアメリカ一流の人物はたいがい知っていた。まだ少年の頃大思想家ラルフ・ウォルド・エマーソンを相手に、何時間も本の話をしたこともある。父親は同じ名のオリバー・ウェンデル・ホームズ博士。これはアメリカ随筆文学の古典『朝食のテーブルの独裁者』の作家で、有名な詩「無敵の甲鉄艦」や「小さな二輪馬車」もこの本の中に出ている。

その父親が子供たちにこういったーー食事のときいちばん気のきいたことをいった者にはジャムかママレードをたっぷりおまけにあげるよ。ウェンデル少年はママレードが大好きだから、おかげでたちまち言葉が鋭くなったものだ。70年後、アメリカ合衆国最高裁所判事としていかめしい会議の席に出たときも、ときどきピリッとした警句を飛ばす。あとで記録から削除したものだ。学者だからといって冗談ひとついわずにもったいぶっている必要はないさ、といつもいっていた。髪が真白になってからのことだが、ある晩、ワシントン市で茶番劇を見物に行った。その晩のショーはーーさあ、何といっていいかーーまず、かなり手きびしいものだった。ホームズ判事が大笑いに笑う。十何列まで聞こえる大声だ。そのうちふと、隣にいる男に声をかけた。まるきりの他人である。「わしはね、いつも神に感謝してるんだ。趣味が下等でよかったよ」

忘れては困る。そういったのは名声嘖々たる大法学者、つい近ごろ、イギリス人でないのにイギリス法学協会会員に推された最初の人物なのだ。どえらい学者でありながら一面ごく普通な人ーーアメリカ社会ひろしといえども、こんな人物はまず少ないだろう。

1857年のことだ。彼が法律を勉強しはじめたのを見て父親はゾッとした。何しろ弁護士というととかく見下げられた時代である。「それはやめてくれ、ウェンディ」と父親はいった。「法学なんぞやったら偉いものになれないぞ!」

ところがウェンディは法律をやっても偉くなれると思っていた。そこで一所懸命、あの有名なブラックストーンの『イギリス法注解』を勉強した。まるで小説でも読むように読みふけった。どのページの面白くてたまらない。

ウィリアム・ブラックストン
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A6%E3%82%A3%E3%83%AA%E3%82%A2%E3%83%A0%E3%83%BB%E3%83%96%E3%83%A9%E3%83%83%E3%82%AF%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%B3

1861年、ハーバード大学卒業の直前に南北戦争がはじまった。さっそく法律の本は戸棚に投げこみ一兵卒として出征する。ダブダブのパンタロン、空色の胴着、真赤な帽子ーーズワーブ兵を真似たといわれる例のヤンキー軍の軍服である。今ならとても戦争に不向きな仕度だろうが、オリバー・ウェンデル・ホームズはその格好でちゃんと戦った。戦傷を受けること前後3回。一度は敵弾に心臓のそばをやられた。担架で運ばれるところを見て、通りかかった軍医がこういったーー「そいつは見てやっても暇つぶしだ。どうせ死んでる!」

果して死んだか?ところが大違いで、このボストン育ちのヤンキー兵は死ぬどころかどんどん成長していた。結局は身長6フィート3インチとなるが、それまであと1インチか2インチ足りなかった頃、国家のため最初の偉勲を樹立した。というのは、その2、3年あとの1864年、大統領リンカーンの命を危うく救ったのは彼らしいからである。

北軍の司令官グラント将軍がリッチモンドの攻撃に手を焼いているとき、ジュバル・アーリーの指揮する南軍の一隊が遠く北上してバージニア州アレクサンドリアへ迫った。ワシントンまでもうわずか20マイルである。

北軍の部隊はスティーブンズ要塞へ集結した。必死に敵を食い止めようとした。大統領リンカーンはまだ前線へ出たことがなかったが、この形勢にスティーブンズ要塞へかけつけた。そして胸壁に近い屋根の上に立っていると戦闘の火蓋が切って落された。リンカーン大統領はヒョロリと痩せた背の高い人物だ。誰でもひと目でそれとわかる。その大統領が敵からまともに見えるところに立っているのだ。

そこへひとりの将官が近づいてこう言った。「大統領閣下、そこはおどきになる方がよろしいかと存じますが」。だがリンカーンは取り合わない。そのうち、5フィート向うで胸壁から首を出した兵士がヨロヨロするとバッタリ倒れて死んだ。3フィート先でもまた1名やられた。

その時突然、リンカーンのすぐ後ろから大声でどなりつけた奴がある。「バカ、すぐ下りろ!戦列を離れるんだ!」びっくりしたリンカーンが振り向くと若いホームズ大尉だった。燃えるような目でハッタと睨みつけている。「やあ、ホームズ大尉か」とリンカーンはニッコリしていった。「民間人にいうときは言葉遣いがちがうんだね」そしてリンカーンはよしよし、と首をたてに振りながら敵弾の届かないところへ出た。

この話がひろまると当然オリバー・ウェンデル・ホームズは英雄あつかいされたが、本人はすぐ打ち消した。「英雄だなんてやめてくれ。ただ軍人の義務を果しただけの話さ。別に大したことじゃない」

果して大したことではなかったろうか?さあ、そうかもしれない。だが、それよりもっと大したことに、この青年士官、戦争がすむとさっさと手を洗って、まるで何もなかったように母校へもどった。法律をマスターしたところであまり金は儲からないーーそれをちゃんと承知の上で母校へもどった。何しろ、「1年やって看板代が出たら弁護士は大成功」と諺があった時代である。

ところがオリバー・ウェンデル・ホームズはその看板代もかせげなかった。事実、30歳になっても食って行けない有様である。31歳で幼馴染のファニー・ディクスウェルと結婚するが、花嫁も花婿も金は1セントしかなかった。やむを得ず父ホームズ博士と同居して3階の寝室に住む。まる1年間、花嫁が暮しを切りつめ切りつめしてようやく移転にこぎつけた。移転した新居というのが、何と、薬屋の2階の二間か三間、炊事するにも火口1個のガス台しかない。

天才といわれたホームズ博士の息子だが、まだスタート・ラインを踏み切っていなかったのだ。

手のあいている暇をみつけて、彼は法学の偉大な古典、ジェイムズ・ケントの『アメリカ法注解』全4巻の改訂と現代化にかかった。大へんな仕事である。判例は幾万とあるし裁判所の意見も無数である。それをことごとく研究して注釈を加えなければならない。1年、また1年とつづけたが、いつになっても完成の見通しが立たない。とうとう自分でも不安になってきた。いやしくも男子たる者は40歳までに名を成すべしーーこれが彼の信念だ。しかも、もう39歳である。

「どうだろう。ファニー、40までにまとまるかな?」と、よく妻にいったものだ。時計が真夜中の12時を打つと、デスクから目を上げてきくのである。すると編物を膝においてファニーが必ずこう返事した。「大丈夫よ、ウェンデル、きっとまとまるわ」

結局、仕事はようやく完成した。40回目の誕生日のかっきり5日前、アメリカ法制史にそびえたつ金字塔といわれる彼の大著は出版になったのだ。ホームズ夫妻はシャンパンを抜いてお祝いした。

それで動きだしたのがハーバード大学である。さっそく年俸4500ドルの教授になって教えにこないか、と話があった。うわぁ、法学教授か、こりゃすてきだぞ、と彼は思った。目もくらむ光栄である。しかし、そこは抜け目ないヤンキーかたぎのボストン子だ。さっそく友人のジョージ・シャタックに相談をかけた。

「その話、逃がすなよ」シャタックはいった、「ただし、条件をひとつ付けるんだ。もしこのマサチューセッツ州の最高裁判事になるチャンスが出てきた場合は辞任する権利を保留する、とね」。こいつ、とんだことをいう!最高裁判事がきいてあきれる!ホームズは大声を立てて笑い出したが、結局シャタックの意見に従った。

それが生涯第一の幸運になる。3か月するとシャタックがハーバード大学へかけこんで、講義中のホームズ教授を引きずり出した。「おい、ビッグ・ニュースだぞ!オーティス・ロードが辞任したんだ。マサチューセッツの最高裁の判事の席がひとつ空く。知事は君を任命する気なんだが、それには正午までに諮問委員会へ名前を提出しなけりゃならん。もう11時だぞ!」

あとたった1時間しかない。ホームズは帽子をひっつかんだ。ふたりで往来をかけ出した。知事官邸へかけつけたのである。その1週間あと、彼はマサチューセッツ州最高裁判所判事に就任した。あの電光石火の一撃でぼくの一生は変わったね、と彼は述懐している。まさに生涯の転機になったのだ。

ホームズが「大反対屋」と異名を取ったのはマサチューセッツ州最高裁判所判事として在任中である。とかくほかの判事の意見に遠慮なく反対することが多かったからだ。たとえば1886年、労働組合は商店にピケットを張る権利があるか、の問題が起った。ホームズ自身は生涯に1度も筋肉労働の経験がないのだが、断然、その権利を擁護して一歩もあとへ退かない。そして意見書を提出すると、「これでもう法律畑で昇進する見こみはなくなったな」と友人たちにいった。将来の見こみがなくなると承知しながら、断然、自説をまげないのだ。何しろ一身の利害で意見を曲げたことは生涯に一度もない。彼にとっては、信念に徹するーーそれが唯一の問題だった。



D・カーネギー 人生のヒント―5分間人物伝 (知的生きかた文庫)

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  • 出版社/メーカー: 三笠書房
  • 発売日: 2020/09/27
  • メディア: 文庫




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