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竹越与三郎は、「明治維新」をどのように評価していたか(加藤秀俊著『メディアの展開』から) [本・書評]

『日本の名著』で桑原武夫が(真の)「歴史家」と評した竹越与三郎が、「明治維新」をどのように評価しているかを示す部分を加藤秀俊著『メディアの展開』からさらに引用してみる。


メディアの展開 - 情報社会学からみた「近代」

メディアの展開 - 情報社会学からみた「近代」

  • 作者: 加藤 秀俊
  • 出版社/メーカー: 中央公論新社
  • 発売日: 2015/05/08
  • メディア: 単行本



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この『二千五百年史』に先だって明治24(1891)年、ちょうど『マコウレー』執筆とほぼ並行して書かれた『新日本史』は欧米とくに英仏の書物の記述する西洋史と日本史とを比較検討する、というきわめて斬新な方法で構成されていることに気がつく。その文章は古風だが、書かれている内容はいまなお明晰で溌剌としている。とりわけ注意すべきはかれの「革命」論である。かれによれば、およそ「革命」には3種類がある。いわく、

およそ一国の大革命は、三種あり。英国の如きは・・・国民政治上の楽園は過去にあり、かくのごとき国柄に於ける革命の希望は、現代の失政を革(アラタ)めて旧政に帰らしめんとするにあるが故に、名けて復古的の革命と称すべし。

これに反して仏国のごとき、米国のごとき歴史は暴乱圧抑の暗黒を以て掩われ、回顧するに一点の光明なく・・・光明はただ前途に存するの国にありては、革命、理想的の性質を帯び、一に現在の制度を破壊して、理想の美国を打ち立てんとするにありき。

一に圧抑の惨状を以て充たされ国民の胸中にも理想なくして寸前暗夜のごとく、後に希望もなく、前にも光明なき国に於ける革命は、理想的にもあらず、復古的にもあらず、ただ現在の痛苦に堪えずして発する者にして、是れ之を名けて真正に漠々茫々の乱世的革命(アナキカルレボリューション)という。p568

それでは、いったい日本の「明治維新」とはなんであったのか。竹越によれば、それは「乱世的革命」であった。日本の「近代大変革」は、

決して回顧にあらず、決して理想にあらず、ただ現在の社会の不満に、現在身に降り積もりたる痛苦に堪えずして発したる乱世的の革命たりしや明らかなり。已(スデ)に然り、これを引きて勤王の感懐に出でたる復古的の革命と為すは抑(ソモソ)も孟浪(モウロウ)の言のみ・・・この乱世的革命の動機は、実に社会の結合力漸(ヨウヤ)く弛(ユル)みて、まさに解体せんとしたるにあり。

つまり、19世紀なかばの日本社会は全体的に弛緩して統制力をうしない、おのずから「解体」したのである。その原動力を「勤王の感懐」にもとめる、などというのはウソだ、というのである。「乱世的」という表現が適切であるかどうかはともかく、これをひきおこしたのは民衆のあいだに蓄積されていたルサンチマンだったのだ。

なぜ、それが成功したのか。『新日本史』はその原因を「封建制度」にもとめる。いわく、

封建制度ほど解体しやすきものはあらず。何となれば封建制度は一種の連邦制度にして、その連結の関鎖(開閉)は一に威力によりて存ず。もしこの威力あらんか、百千歳もこれを維持すべし、この威力なからんか、一日も保つべからず。

この文章をしるしていた竹越の脳裏には、ことによると若いころに翻訳した『米州行政権論』があったのかもしれない。かれにとっての「封建制度」というのは「地方分権」という行政組織に似たものであって、そのゆるやかな連合体としての幕府は一見したところ中央集権的な巨大権力のごとくにみえるが、じつは力のバランスのうえにのった脆弱な象徴的なものだったのだ。どこかで破綻がおきると、それは伝染的にひろがって、おのずから自壊的に解体せざるをえなかったのである。p569

それでは、いったいこの「解体」がいつはじまったのか。竹越はその時代の特定についてきわめて明快で断定的である。『新日本史』では「封建社会の解体は紀元二千四百(1740)年にあり」という頭注のもとに山県大弐(ヤマガタダイニ)の事件を序曲にして「反上抗官」が顕在化したとするが、『二千五百年史』ではもっと具体的に宝暦8(1754)年の郡上八幡での叛乱から「革命」がはじまった、という。

この叛乱は、まず領主金森頼錦(カナモリヨリカネ)が農民への徴税方法を変更したことに端を発し、地域的な「農民戦争」が展開した。農民代表は江戸に直訴するし、藩主も幕府に裏工作をするという大騒動。団結した農民はむしろ旗を立て、竹槍で武装して家臣団と戦った。島原の乱以降、はじめて鉄砲が叛乱鎮圧のため使用されたというほどの大事件である。しかも、この叛乱では農民が藩政に対して三十三箇条の罪状を堂々とかかげて革命宣言をしているのであった。両者からの意見を聴取した幕府は結局のところ両成敗で頼錦は領地を追われて終生南部藩に身分を預けられ、結局家名断絶。家臣団も四散。いっぽう農民がわは代表2名が死刑になっただけだった。どちらが勝ったかは、この結末からみておのずからあきらかであろう。農民戦争での勝者は農民だったのだ。それがヒキガネになって日本ぜんたいが「乱世的革命」にはいってゆくのである。竹越によれば「頼錦、諸侯の身をもって農民と争うて敗るるの一事は、無意識的に封建制度の弱点を知りし国民をして、有意義的にその乗ずべきを知らしめ」たのであった。そして、この郡上での農民戦争は連鎖反応的に全国に飛び火した。p570

超えて(宝暦)九年、日向児湯郡の民、徒党して去り、明和元年には武蔵秩父八幡山の民、非政を幕府に訴えんとして檄を遠近に伝うるや、上野・下野の民またこれに応じ、集まるもの二十万人、蕨駅に至り、群代伊那備前守の鎮圧するところとなりて事やみぬ。・・・・・かくのごとくして宝暦の末より農民の乱、年々歳々、やむときなく、封建制度唯一の担保たる武力の威力も、もはや絶対的に恐るべきものにあらずとなりぬ。

と竹越はいう。

つけたりになるが、竹越は英語での単著『日本文明史の経済的側面』(The Economic Aspects of the History of the Civilization of Japan)を1930年に発刊している。日本人の手になる日本近代史の英語版としては稀有の事例であり、日本人の手になる日本史の書物としてトインビーがとりあげ、絶賛を惜しまなかった書物のひとつはこの竹越の著書だった。いまの読者にはほとんどなじみがなかろうが、かれほど世界的な読者をもった日本史家はいなかったのである。p571

徳川を「封建暗黒の時代」としたのは
(『メディアの展開』加藤秀俊著から)
http://kankyodou.blog.so-net.ne.jp/2015-07-29-1


独学のすすめ (ちくま文庫)

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  • 作者: 加藤 秀俊
  • 出版社/メーカー: 筑摩書房
  • 発売日: 2009/11/10
  • メディア: 文庫


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郡上一揆
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%83%A1%E4%B8%8A%E4%B8%80%E6%8F%86

中山道伝馬騒動
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%B1%B1%E9%81%93%E4%BC%9D%E9%A6%AC%E9%A8%92%E5%8B%95

農民一揆と茂左衛門事件 
田 畑 勉  群馬高専教授
http://www.sogogakushu.gr.jp/kosen/jissen_3_96nouminikki.html


山県大弐と宝暦・明和事件—知られざる維新前史

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  • 出版社/メーカー: 日吉埜文庫
  • 発売日: 2013/05/23
  • メディア: Kindle版



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