『しんがりの思想』刊行 鷲田清一さん [読んでみたい本]
「しんがりをつとめる」というのはなかなかたいへんであると聞く。追撃してくる敵を、本隊の最後尾で迎えうち、本隊を守るのが「しんがりのつとめ」である。
漢字で書くと「しんがり」は、「殿」と書く、のだという。カラダの最後尾、いわゆる「おしり」を指す「でん部」の「でん」と同じ文字か・・と思ったら、「でん部」のでんは「臀」であった。それでも、月(にくづき)のうえに「殿」の文字が鎮座ましましているから、考えとしては一緒なのだろう。
以下の記事を見ると、「しんがり」をつとめることのできる人こそ、「殿(トノ)」と呼ばれるにふさわしいのかもしれない。
殿 (軍事用語)(ウィキペディアから)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AE%BF_(%E8%BB%8D%E4%BA%8B%E7%94%A8%E8%AA%9E)
戦でしんがりを努めるのは強い人ですか?
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1153875401
いつもながら、前置きが長くなったが・・・
鷲田清一さんが、新刊をだした。「しっかり」ではなく「しんがり」の思想であるそうな。どんな内容か。以下ヨミウリサイトによる紹介文。
哲学者の鷲田清一さん(65)=写真=が、人口減、高齢化という<縮小社会>を生きる市民の心構えを説いた『しんがりの思想 反リーダーシップ論』(角川新書)を刊行した。
大阪大学の学長を務めた経験、東日本大震災を経て、現代社会に強い危機意識を抱いたことが出発点にある。
国立大学の独立行政法人化で、学長権限が強化され、徹底した大学運営の合理化が求められるようになった。学長を務めた2011年8月まで4年間、「会議や報告書作成で、先生方の忙しさはすさまじいことになった。これはおかしい、危ないというのが僕の職場感覚でした」。
グローバル化のもと教育、医療、労働環境といった分野まで「濁流のような市場原理にのみ込まれた」。原発事故では、細分化された専門家集団の危うさと政治の劣化、それらに歯止めをかけるべき<市民力>の衰弱を痛感した。「いま、市民社会、地域社会の基盤が取り返しがつかないほど崩れつつある」。鷲田さんが、時事問題をこれほどストレートに論じるのは珍しい。
学長退任後、10年ぶりに教壇に立って、若者を前に語るのが怖くなったという。自然を修復不可能なまま引き継ぐことになって、国の借金を増やし将来世代に負担をかけることになって、申し訳ない――。社会のギアを入れ替える方途を思索しなければ、と思った。
右肩上がりの経済成長を知らない当の若い世代に、今は希望を感じているという。「今の大学生くらいの人って、授業でも『自分に合わない』と感じたら、すーっといなくなるんです。最初は『何で文句を言ってくれないの?』と思ったんですけど」
それは、声高に意見表明せずとも制御不能な濁流に翻弄されない、賢明な生き方ではないのか。例えば、都会から地方に生活基盤を移すIターン、Uターンを選択する若い人たち。「力まず無理をせず、家族や友人、いざという時に助け合える地域のサイズを大事にしながら生きていく。働く意味、子育ての意味を問いながら丁寧に生きる。今後のモデルとなるべき、ありようだと思います」
経済規模が縮小する、難問山積の社会にあっては、「登山パーティーの最後尾で、脱落者が出ないよう全体に目配りする『しんがり』を務められるような人材が、これからは求められる」。
今年4月、京都市立芸術大学の理事長、学長に就任。アートのモデルを取り入れた地域社会の運営方法を模索中だ。「まさかアートの現場に赴任することになるとは」。大学現場のリーダーでなく、しんがりの精神で「時代の流れに逆らってでも、守るべきものを守るために考え、行動したいと思っています」。(大阪文化・生活部 西田朋子)
http://www.yomiuri.co.jp/life/book/news/20150716-OYT8T50012.html?from=osusume&google_editors_picks=true
『碇の文化史』石原渉著(思文閣出版)
http://kankyodou.blog.so-net.ne.jp/2015-09-04
漢字で書くと「しんがり」は、「殿」と書く、のだという。カラダの最後尾、いわゆる「おしり」を指す「でん部」の「でん」と同じ文字か・・と思ったら、「でん部」のでんは「臀」であった。それでも、月(にくづき)のうえに「殿」の文字が鎮座ましましているから、考えとしては一緒なのだろう。
以下の記事を見ると、「しんがり」をつとめることのできる人こそ、「殿(トノ)」と呼ばれるにふさわしいのかもしれない。
殿 (軍事用語)(ウィキペディアから)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AE%BF_(%E8%BB%8D%E4%BA%8B%E7%94%A8%E8%AA%9E)
戦でしんがりを努めるのは強い人ですか?
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1153875401
いつもながら、前置きが長くなったが・・・
鷲田清一さんが、新刊をだした。「しっかり」ではなく「しんがり」の思想であるそうな。どんな内容か。以下ヨミウリサイトによる紹介文。
哲学者の鷲田清一さん(65)=写真=が、人口減、高齢化という<縮小社会>を生きる市民の心構えを説いた『しんがりの思想 反リーダーシップ論』(角川新書)を刊行した。
大阪大学の学長を務めた経験、東日本大震災を経て、現代社会に強い危機意識を抱いたことが出発点にある。
国立大学の独立行政法人化で、学長権限が強化され、徹底した大学運営の合理化が求められるようになった。学長を務めた2011年8月まで4年間、「会議や報告書作成で、先生方の忙しさはすさまじいことになった。これはおかしい、危ないというのが僕の職場感覚でした」。
グローバル化のもと教育、医療、労働環境といった分野まで「濁流のような市場原理にのみ込まれた」。原発事故では、細分化された専門家集団の危うさと政治の劣化、それらに歯止めをかけるべき<市民力>の衰弱を痛感した。「いま、市民社会、地域社会の基盤が取り返しがつかないほど崩れつつある」。鷲田さんが、時事問題をこれほどストレートに論じるのは珍しい。
学長退任後、10年ぶりに教壇に立って、若者を前に語るのが怖くなったという。自然を修復不可能なまま引き継ぐことになって、国の借金を増やし将来世代に負担をかけることになって、申し訳ない――。社会のギアを入れ替える方途を思索しなければ、と思った。
右肩上がりの経済成長を知らない当の若い世代に、今は希望を感じているという。「今の大学生くらいの人って、授業でも『自分に合わない』と感じたら、すーっといなくなるんです。最初は『何で文句を言ってくれないの?』と思ったんですけど」
それは、声高に意見表明せずとも制御不能な濁流に翻弄されない、賢明な生き方ではないのか。例えば、都会から地方に生活基盤を移すIターン、Uターンを選択する若い人たち。「力まず無理をせず、家族や友人、いざという時に助け合える地域のサイズを大事にしながら生きていく。働く意味、子育ての意味を問いながら丁寧に生きる。今後のモデルとなるべき、ありようだと思います」
経済規模が縮小する、難問山積の社会にあっては、「登山パーティーの最後尾で、脱落者が出ないよう全体に目配りする『しんがり』を務められるような人材が、これからは求められる」。
今年4月、京都市立芸術大学の理事長、学長に就任。アートのモデルを取り入れた地域社会の運営方法を模索中だ。「まさかアートの現場に赴任することになるとは」。大学現場のリーダーでなく、しんがりの精神で「時代の流れに逆らってでも、守るべきものを守るために考え、行動したいと思っています」。(大阪文化・生活部 西田朋子)
http://www.yomiuri.co.jp/life/book/news/20150716-OYT8T50012.html?from=osusume&google_editors_picks=true
『碇の文化史』石原渉著(思文閣出版)
http://kankyodou.blog.so-net.ne.jp/2015-09-04