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2:「日本のドストエフスキー」山本周五郎のこと [本・書評]

先回の「つづき」。

出典は、『鳩よ!』1992年9月号特集山本周五郎
インタビュー 私の中の山本周五郎
篠田正浩(映画監督) 聞き手-編集部
「周五郎は 庶民なんて 信じていなかった」

以下の部分では、庶民について、庶民と政治について周五郎がどのように考えていたかを知り得て興味深い。

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《自分で決心して自分で生きる女が好きだった》

*女性に対する見方が厳しい作家という感じもしますが?

篠田:そんなことはないでしょう。『虚空遍歴』のおけいは淫蕩だし、『ほたる放生』の女も男に貢ぐといって、転落していく。山本周五郎は、自分で決心して自分で生きる女が好きですね。ボーイッシュなところに女の魅力を感じている。『樅ノ木は残った』で原田甲斐が目をかけた少女なんか理想の女じゃないですか。まだエロスを知らない、果実のようなさわやかさのある女が山本周五郎の理想だけれど、心の中のどこかでは酒池肉林を願望していたのではないかと思います。実際にそれができないから、そのかわりに、さまざまな男女を描いた。

自分の写真を撮られるのを嫌ったのも、写真が読者の目にふれると自分の美学が現実に引き戻されて小説家としての仕掛けがばれてしまうからで、そのくらいあの人は小説に工夫をこらしていたということです。

この世の中は結局、理屈に合わない、間尺に合わない、そういう不条理にたいしてどうやって人間を救済すればいいのか。じつはその不条理を一身に受けている人が救済の光ですよと、そこに光源を見つけるわけですね。すごく汚濁にみちて、何が起こるか、何がふりかかるかわからないこの世の中に、その光源から不条理の闇を照らすというのが、山本周五郎の小説のすべての形態ですね。その光はあの人が思い描く情熱で、文学的中心にあるものです。それ以外に何もないから、周五郎の描く灯台が、きらっとひかる。海図のない海に出た人間に、あそこに灯台があるというように山本周五郎が見えてくる。

庶民にたいしていかに絶望的だったかはエッセイにも書いていますけどね。かつてヨーロッパでは、戦いが起きると、城塞都市だから庶民も城の中にたてこもって、攻め滅ぼされるとみんな殺されてしまう。庶民も君主と一緒に殺される運命でした。日本の場合は、武田と織田が戦うと、庶民は逃げて、どっちが勝つか見ている。武田が滅ぶと、じゃこんどは徳川様につかえようということになる。ようするに日本の庶民は政治からいつも避難しているというのが山本周五郎の見方ですよ。

その一方でマルキシズムも否定していましたね。マルキシズムが人間の社会に大きな影響を与えて、ある正しさをもっているとうことは認めるけれど、マルキシズムにそぐわない文学は文学じゃないなんてことになると絶対に許さない。そこに山本周五郎という人間の気質がはっきり表れている。

庶民が生活に押し流されるのを憎んで、田んぼをみると稲作なんかやめろとまで言ってしまう。稲作をやっている国は豊かじゃないというのが山本周五郎の考え方です。牛馬のような生活の中からは、物事を考えるとか時代に反抗する精神なんか生まれてこないというのです。農民的気質を憎悪しているんですよ。

*その対局に理想の人間像を求めていったことになりますね。

篠田:だからきわめて宗教的な観念で人間を描いている。そういう意味では、教養小説ですね。光を求める人間は、大多数は庶民だけど、耳をすまして、呻き声を聞き、その呻き声のありかを見るのがまず文学の背景になる。政治闘争に敗れるとか、貧困のために売られる女とか、そして女郎屋だとか、そういう視点に降りていく、だけど、それは光を求める人間ドラマの背景として描いているだけで、そのための資料は周到に集めますが、宗教画の背景みたいなものです。最後には、イエスやマリアのような光が、ぶわーっと闇を照らすんですね。

山本周五郎にとって、庶民というのは不条理を生みだすエネルギーの源、ブラックホールのようなものです。宇宙の闇、地獄絵図の中の世界のようなものです。それを絵に描くわけですから、ぼくにとってあまり実感がないと思うのですよ。



虚空遍歴 (上巻) (新潮文庫)

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  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 1966/09/19
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樅ノ木は残った (上) (新潮文庫)

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  • 作者: 山本 周五郎
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 2003/02
  • メディア: 文庫



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