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3:「日本のドストエフスキー」山本周五郎のこと [本・書評]

先回の「つづき」。

出典は、『鳩よ!』1992年9月号特集山本周五郎
インタビュー 私の中の山本周五郎
篠田正浩(映画監督) 聞き手-編集部
「周五郎は 庶民なんて 信じていなかった」

以下、では、周五郎とドストエフスキーとの共通する点とその差異について語られている。周五郎の魅力を「語り口」の妙としているところなど、篠田の評者としてのセンスの高さを感じる。

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《周五郎とドストエフスキーは紙一重である》

*映画監督として撮りたい世界ではないですか。

篠田:映画で描くと作品の人間の姿が嘘だということが、ばれちゃいますね。逆にいえば、そこまでの虚構で、腕力で押し切って人々を熱狂に引き込むことはできる。『赤ひげ診療譚』だとか、『どですかでん』だとか、そこに出てくる虚構は現実では描けないから、映画のようにいかに現実からジャンプするかという世界と、山本周五郎の世界はある意味で手を握れるわけですね。『五瓣の椿』だって、あんな復讐なんてありっこない。処女のヒステリーみたいに描けばいいけれど。

人々の魂をゆさぶってみたいときは山本周五郎の、ある作品をやれば可能でしょう。時期はあると思いますね、人々が公明を求めていると察したときとか。だから黒沢明は、ヒューマニズムとはこういうものだ、というのを『赤ひげ診療譚』でやってみせるわけです。

ぼくは、山本周五郎とドストエフスキーは紙一重のところにあると思います。ドストエフスキーは最終的には混沌に入っていく。山本周五郎の中にもあきらかに『罪と罰』がある。『樅ノ木は残った』の原田甲斐は罪を背負って業罰の中にある。ところが、罰するものは何かというと、そこにはない。罰せられた者が一切の汚名を浴びて、聖職者に逆転するわけですね。原田甲斐がじつは聖職者であったと書かれると、罰せられるべきは政治のもつ不条理を引き起こす政治そのものということになりますが、そのことについては、山本周五郎は無力というか、無視している。

*しかし、そういうものを無視しているから、すっきりとして読みやすい、色分けがはっきりするということもあるでしょう?

篠田:それはそうですね。『樅ノ木は残った』でも原田甲斐が善に転化すると、悪は酒井雅楽頭と伊達兵部という野心家の問題になってくる。かれらはキリスト教的にいえば人間の業欲を一身に背負っていて、その業欲にたいする業罰もある。ドストエフスキーはそちらも見るわけですね。山本周五郎は悪の魅力もいっぱい描くけれど、結局は善の光のまえにたじたじと眩んで消えてしまう。そこが、山本周五郎の作品は大衆文学だといわれて、純文学から批判されるウィークポイントでもあると思うんです。

*そうすると、篠田さんの読後感としては、どこか、うさん臭さが残るわけですね。

篠田:すべて危ない綱渡りですよ。だからモーリアックやジイドを読むときとは違った読み方になります。でも、ジイドの小説とも似たところはあるんですね。『田園交響楽』なんかと同じ気配を感じる。きらきらと、眼差しが輝いていて、描かれる肉体はほとんど完璧に近い。

だから、山本周五郎の描く人物には、マダム・タッソーの人形館に近いような、ある種の不気味さがある。精神も肉体もこんなにきれいな人がいていいのだろうかと思ってしまう。それはグロテスクだと書いたのは三島由紀夫ですから、こちらは文学としてつき合えることになるわけです。三島由紀夫なら、さぶはグロテスクだと書く。『日本婦道記』はグロテスク小説の集大成になるわけです。ぼくは、そっちのほうが正常だと思うんですけど、そんなことを言ったら山本周五郎は烈火のごとく怒るでしょうね。

とにかく一つ間違えると美談になる危険があるわけですよ。『一杯のかけそば』になってしまうから、そちらに隣接して読まれると困るけれど、ドストエフスキーの側に寄って、不条理の中で魂の救済を求めるものとして読むと、巨大なものに見えてくる。読み人の座標軸を『一杯のかけそば』におくか『白痴』におくか。

そこをどんどん突きつめていくと、文体というものにかかってくる。山本周五郎の評価は、モチーフであるよりも語り口にあるわけで、その語り口がわれわれを陶酔させてくれるんです。それに近い作家は誰かというと、菊池寛だと思いますね。

*『青べか物語』の中の浦安の人々にたいする見方についてはどうですか?

篠田:あの作品は暗闇の中にあいた青い空というか、ぼくはあまり好きではありません。あれは小説を書くためのデッサンでしょう。小説というスタンスになったときには、さぶとか栄二の世界にそのデッサンを当てはめたりはしますけどね。いずれにしても山本周五郎の作品は、庶民の哀感なんていう視点で読まないほうが、ご本人も喜ぶのではないかと思います。それは小津安二郎の映画についてもいえるんですよ。小市民の哀感が映画に滲み出るなんていったって、あんなにブルジョワジーで非日本人的な人はいませんね。ぼくは助監督をやっていて、いやというほど思い知らされました。あの人は、万年床で、雑炊の中にバターを半ポンドぶち込んで食べる人なんです。風流とかいうものともまったく関係ありませんね。

山本周五郎の作品が庶民の哀感を描いているなんて錯覚して読む人は、批判精神が欠けているんじゃないですか。山本周五郎が作品で描こうと思ったことを、たとえば野球のキャッチャーのようにポーンと受けて、「いい球!」というのも一つの読み方ではあるでしょうけどね。そんなにいい球を投げたら打たれますよという読み方をすることもできる。ぼくは、山本周五郎の投球というのはホームランを打たれてもしかたがないと思うところがあるんですよ。それにしても小説として自分の中に芽生えていく種が体験としてたくさん埋め込まれていて、それを独自の芸としての語り口で読ませていく。とくに短編小説などではその芸の極致を読むのもいいんじゃないですか。長編小説は、歴史の見方を変えて、そこに虚構の成立するスリルを楽しめばいい。本当に小説が好きで書いているからその情熱が伝わってくる。読書する楽しみをあたえてくれる作家であることは絶対に間違いないといえますね。(構成・永田守弘)
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6:「奔馬」(三島由紀夫著)から:映画監督篠田正浩の語る「昭和」 
http://bookend.blog.so-net.ne.jp/2013-01-12


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