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「日本のドストエフスキー」山本周五郎のこと [本・書評]

10日、日曜日、読書好きの友人にひさしぶりに会った。

今、山本周五郎と藤沢周平を読んでいるという。図書館に置かれているものを順に読んでいるらしい。

話は、もっぱら周五郎に終始した。当方は、「大衆小説」作家と軽くみなしている人もいるが、実際のところ、「日本のドストエフスキー」と評す者もいると伝えた。

しかし、その評者がだれで、どういう根拠でそのように評しているか詳しく述べることができなかった。

その後、その出典を探して見つけた。『鳩よ!』という雑誌(廃刊)の山本周五郎の特集号(1992年9月号)である。「人間、捨てたもんじゃない」という副題がついている。

そこでは、直接、「日本のドストエフスキー」という表現はなかったが、「周五郎とドストエフスキーは紙一重のところにあると思います」という表現はある。そう語った評者は、映画監督の篠田正浩である。

たいへん長いものであるが、以下に、引用してみようと思う。

***************

インタビュー 私の中の山本周五郎
篠田正浩(映画監督) 聞き手-編集部
「周五郎は 庶民なんて 信じていなかった」

*篠田さんは、山本周五郎に興味をもっているそうですが、読者として山本周五郎の作品に出会ったのはいつごろでしたか。

篠田:小学生の終わりか中学の初めあたりの12~13歳ですね。昭和18年だと思います。姉たちが、『日本婦道記』を読んですごく感動したと言っているのを聞いて、どうしてそんなに感動するのかと思いまして・・・。そのころ『婦人倶楽部』に連載されていたんです。

戦時中で、ぼくらは皇国少年でしたから、そんな軟派なものをと思っていました。婦道記というので、男につくす女の操ぐらいに考えていたんです。それで最初に読んだのが『藪の陰』かな。それから『二十三年』を読みました。

それまでは夏目漱石とか芥川龍之介を読んでいましたし、小学生でも文学少年は太宰を読んでいたんです。だから、そういう作品からいうと、山本周五郎はとてもわかりがよくて、理解しやすい内容でしたね。

でも、そのあとは、戦争のまっただ中で、山本周五郎なんて読む時代じゃないですよ。吉川英治の『宮本武蔵』とか、富田常雄の『姿三四郎』なんかに熱中していましたね。だから最初に山本周五郎を読んでからしばらく間があって、戦後に、『樅ノ木は残った』『正雪記』と『栄花物語』、この3本の歴史小説をたてつづけに読んだんです。その印象は、すごいどんでん返しを食った感じでした。

なにしろ戦時中は、皇国史観で天皇陛下のために死のうと思っていた少年です。ところが伊勢の神風も吹かなくて、ぼくの中で神様は死んでしまって、それまで教えられてきた日本の歴史をすべて否定するところから出発する時代でしたからね。卑弥呼も魏志倭人伝もかつてわれわれの視野にはなかった。壬申の乱なんていうのは歴史教育が避けて通って、天智天皇と天武天皇が争ったことなんか絶対に教えてくれませんでした。そういうところに、山本周五郎が歴史の新しい見方を提示してくれたわけです。

戦争に負けて、どういう史観で歴史を見直すか、人間を見直すか、という問題があったと思いますね。坂口安吾の『二流の人』とか『道鏡』なんかは脳天をぶち割られるような感じでした。

《聖なるものについて日本で初めて考えた人》

*山本周五郎は、そういう歴史観と同時に庶民の哀感のようなところにスポットを当てていますね。

篠田:いえ、それは嘘です。あの人は庶民なんか信じていないでしょう。そういう読まれ方をされていることが口惜しかったのではないですか。

山本周五郎の見方のひとつは、歴史に名を残す人物が浴びている汚名をそそごうとするところに焦点があるでしょう。原田甲斐、田沼意次、由比正雪にしても、みんなそうです。謀判人とか悪者というそれまでの見方を覆そうとしているんです。

むしろ庶民がつくり上げた虚偽の人間像に怒っていますね。で、庶民の無知につけこんだ権力と、その権力に操られる無知の横暴に怒って刃をふるった。そういう意味では、すごく反体制的じゃないですか。

作品に描かれている庶民は、およそ現実の庶民が持ち合わせていない姿でしょう。武士道に殉じる人を書いても、あのころの武士にはなかったことを書いているんですね。歴史のなかで定説になっていることを、うさん臭いと見て、そういう定説をつくり上げる世の中のいい加減さへの憤怒の小説を書いています。

*庶民の哀感を描いていないとすれば、篠田さんが感動するのはどういう部分ですか。

篠田:それは山本周五郎が常に追求している一種の聖なるものといえる存在ですね。そういう聖なるものについて日本で初めて考えた人ではないですか。むしろキリスト教的な人間の、この世に聖なるものがなかったなら人間は存在する理由がない、という前提が山本周五郎にはある。聖なる心をいだいていながら、汚辱にまみれた世の中で、まるで見えていないものを発掘するんです。だから、観念小説ですね。どこにもリアリズムがない。もうほとんど空想小説といっていいぐらいでしょう。聖書のように書いているんじゃないかな。物語をね。

山本周五郎の小説が読みやすいのは、キリストの物語がわかりやすいのと同じでしょう。ユダが配置されたり。つまり山本周五郎は、近代小説における作家の小さな自我などは書いていない。そんな自我を書くことが世間では純文学といわれていますが、そんなちっぽけな自我にこだわっていないんです。自分を捨てていますから、宗教家のような色彩をおびてくる。

*江戸を舞台にしていることも読みやすさの背景になっているといえそうですね。

篠田:江戸も昭和も社会構造としてはそんなに変わらないですよ。時代劇というレッテルをはって、読者が安住しているだけでしょう。現代のような複雑な社会の中に人物をおかなくていいと思って読んでいるけれど、そんなことはない。その証拠に、山本周五郎は時代小説を書いていても会話はすべて現代語ですよね。ぼくが少年時代に読んだときに、そこも新らしく感じた。江戸時代といっても日常性はあるから、身近な人間に感じられる、表面的にはね。でも、そこにおかれている人間の造形は、およそこの世を離れている。

たとえば『二十三年』という作品で、おかやという女中が、お家が改易になって暇を出されると、乳呑児をかかえた主人を救おうとして、わざと崖から落ちて白痴になったふりをする。はじめ小説を読んでいくうちに、この女は嘘を演じているとわかるけど、5年たち10年たって、主人も死んでその息子もやがて23歳になる。そしてその息子が、子どもの眼から見ておまえが嘘を演じていたのはわかっていた、もう本当のことを言え、といったときに、23年のあいだ白痴を演じてきて、おかやは口がきけなくなっていた。そんな女が現実にいますか。『さぶ』なんかにしても、いわば奇蹟のような青年を描くわけですね。

原田甲斐でいえば、あれだけの汚名を一手に引き受ける人間であればこそ、自己犠牲の奇蹟が宿っているのではないかという願望が書かれているんです。山本周五郎は、歴史の資料を読み返すときに、奇蹟に向かって動いていくような線を貫いていくのですね。

その視点から敗者復活をさせたのが、『栄花物語』の田沼意次でしょう。最近の歴史学者は、田沼意次が幕府財政だけでなく庶民の経済にもすぐれた透視図を持っていたことを認めていますけどね。この人物の失格の理由として、旗本から五千両の賄賂を受け取ったことになっているのは、どうしたっておかしいと周五郎は指摘するわけです。窮乏している旗本に五千両の大金があるはずがない。これは敵方の松平定信が流したデマにちがいないと見る。そういう合理主義からいって、庶民感覚のようなもので人物を認定してはいけないと書くところに、山本周五郎という作家の資質があると思います。

江戸を背景に描くことには、そこに日本人の精神の原型を見ているからでもあるでしょう。明治維新からの西洋文化によって、日本の文化の中にあった魂の在り方が歪んでしまっている。時代劇を書こうというよりも、日本人のアイデンティティを求めて江戸に舞台設定する。たとえば、さぶのようなキャラクターは現代を舞台にしては書けないでしょうね。

*さぶのような人間は、現代にはもういなくなったということですか。

篠田:江戸時代にだって、さぶなんかいない。どこにも、いつの時代にもいない。でも、窮乏の時代に、人間が助け合わなければならなくなったとき、やっぱり自己犠牲が社会のモラルの出発点になると見ているんです。山本周五郎は・・・。自分がすごい貧乏時代を体験したことによって、そういう偶像をつくり上げたんですね。

現代にはどこにもいない人間を書いて、そこに小説的現実をつくることが山本周五郎は大好きなんです。小説を読むことも大好きだから、読むことにもすごく努力する。あそこまで小説好きというのは、山本周五郎の本質ですね。映画監督でいうと、黒沢明なんかもそうだと思いますものね、あんなに映画好きというのが・・・。周五郎は、小説的な嘘が小説的現実に転化するときの輝きが、うれしくてしかたがなかったという意味で、とても職人的ですね。だから、倦まず弛まずあれだけの膨大な小説が書けたのでしょう。

それから、男のくせに女の文章をよく書きますよね。女形をやるわけです、もう気持ちわるいぐらいに。『虚空遍歴』なんかでも、おけいという女のモノローグが、突然、現実になっていく、そのモノローグの女言葉なんか、女を演じる山本周五郎の芸ですよ。身もちのいい女も演じれば、少女も演じるし、淫蕩きわまりない女も演じる。女を描くときに、自分が入り込んでいって、自分の男である部分を失う快楽があるんだと思いますよ。

(以降は、次回更新)

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