自分のもののようであって自分のものでないカラダ [スピリチュアルな話題]
市の健康診断に昨日出かけた。
採血、採尿、眼底写真、心電図、バリウムを用いた胃透視、腹部エコー・・・。
半日ほどだったが、正直、 疲れた。ブログを更新する元気もなくなった。
前の晩9時以降飲み食いかなわず、当日、「俎上の鯉」になり、下剤を飲まされ、午後はずっと「腑抜け」状態であった。
養老孟司さんが、
東大病院で、「一日人間ドック」の検査を受け、
終了後、ご夫婦で、顔を見合わせ・・・
「健康でなければ、ビョーインには来れないな」
と、言ったのだ・・・、
と講演で笑って話していたのを思い出した。
ホントニ、そうだ。ビョーインは疲れる。
検査もそうだが、結果を待つのも、また疲れる。
心配したってしなくたって、コチラの心配に応じて結果は変わったりはしない。心配した分だけ良くなってくれればイイが、そうはいかない。それは承知しているが、それでも、結果を待つのはイヤなものだ。たぶんイヤナ結果が出ることになっているのを内心承知しているからなのだろう。ガンなどの重篤な病気になってはいないと思うが、年相応のワルイ結果が出てくるのに決まっている。
カラダのことを考えると夏目漱石の『明暗 』を思い出す。
「医者は探りをいれたあとで、手術台の上から津田をおろした。
『やっぱり穴が腸まで続いているんでした。この前探った時は途中に瘢痕隆起があったので、それで行きどまりだとばかり思って、ああ云ったんですが、今日疎通をよくするために、そいつをガリガリ掻き落として見ると、まだ奥があるんです』」という名文で始まる『明暗』だが、
漱石は、「自分のカラダ」の中で、なにが生起しているかワカラナイことへの不安を主人公津田に語らせている。
実際のところ、「自分のカラダ」というのであれば、「自分のカラダ」は“自分の”コントロール(支配)下になければならないはずだが、実際にはそうではない。津田と同じく、自分のカラダのなかで何事が起きているのかワカラナイし、ふだん自分のからだがドノヨウニ機能しているのかも知らないで平然と生きている。
ということは、
「自分のカラダは、自分のものだ」などというのは、大いにアヤシイ(そして、不遜な)考えということになろう。
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「何を食べようか、何を飲もうかと、自分の命のことで思いわずらい、何を着ようかと自分のからだのことで思いわずらうな。命は食物にまさり、からだは着物にまさるではないか。・・・あなたがたのうち、だれが思いわずらったからとて、自分の寿命をわずかでも延ばすことができようか」マタイ6章25、27節(口語訳)
「すずめ二羽はわずかな価の硬貨ひとつで売っているではありませんか。それでも、父(神:創造者)の知ることなくしては、その一羽も地面に落ちません。ところが、あなた方の頭の毛までがすべて数えられているのです。それゆえ、恐れることはありません。あなた方はたくさんのすずめより価値があるのです。」マタイ10章29~31節(新世界訳)
お疲れ様でした!!
まぁまぁ・・・そぉ言わずに (〃 ̄ー ̄)/ 健康だから 出る 愚痴ですよ♪
もし、病気での 検査だったら・・・それドコロじゃぁ~ありませんもん★
by みみくり (2007-02-14 20:33)
みみくりさんは医療関係でしたもんね。
イロイロ見てますよね。もっとタイヘンなの。
ホントですね。ゼイタクな愚痴でした。
ハンセーします。
by 環虚洞 (2007-02-14 21:07)