夏目漱石の(三遊亭)円朝評(『その後の慶喜』ちくま文庫から) [アート・美術関連]
最近、『あくびの出るハナシ』と題した記事のなかで、三遊亭円朝を取り上げた。
http://bookend.blog.so-net.ne.jp/2017-04-22
そこで、円朝が噺家として「生まれ変わった」ことに山岡鉄舟がからんでいることを示した。
その後、たまたま、『その後の慶喜』という本を読んでいたら、徳川慶喜と円朝との交流についての記述がでていた。山岡鉄舟が円朝を紹介したという一文があるかと思ったが、そこには無い。しかし、円朝の名人ぶりが示されて興味深い。以下に、引用してみる。
漱石の円朝評
天保10年(1839)生まれの円朝は、当時53歳で円熟期にあった。その芸風は、彼を絶賛した夏目漱石が、円朝に似ていると見た新派の俳優になぞらえて、「その工(たくみ)が不自然でない」「余程巧みで、それで自然」と評したことからも明らかなように、至高の芸風に達していた(「本郷座金色夜叉」「水まくら」。いずれも『夏目漱石全集』第16巻に所収)。つまり、高度な表現技術を持ち合わせながらも、それを感じさせないごくごく自然な語り口で、しかも情味にあふれる芸風となっていたのである。
もっとも、若い頃の円朝は、慶喜に円朝を引き合わせた渋沢(栄一)によると、「万事が大袈裟で、シンミリした話なんか」とは縁遠い芝居がかった派手な噺をしていたらしい。だが、その後の人生でなにか感じるものがあったのだろう。やがて、「人情話というものを発明」して、『怪談牡丹燈籠』や『塩原多助一代記』など、広く世に知られるようになる噺を創作していくことになる。また、素材を広く海外にも求めて、『英国女王イリザベス伝』なども作りあげた。そして、やはり渋沢によると、円朝は「話術が旨かったばかりで無く、なかなか学問もあって文事に長け、能く読書して居ったので、(中略)纏まった長い人情話を作ることが出来た」という。それゆえ、「どんな立派な人とも話」ができ、「高貴の人の御前だからとて別におくびれるような事なぞはなかった」ともいう(『渋沢栄一全集』第2巻、417~418)。「高貴の人」の中のひとりが慶喜だったことはいうまでもない。
いずれにせよ、慶喜と出会った頃、近代大衆芸能の頂点に位置するまでに円朝の芸は達していたのである。それは「本業の芸以外、なおその芸に遊び得る余裕」(同前)がある者にしか到達しえない世界であった。そして、この円朝の二歳年長が慶喜であった。
ちなみに、山岡鉄舟は、天保7年生まれで、慶喜とほぼ同年齢である。最後の将軍を「守る」ために鉄舟は奔走した。慶喜と円朝が出会ったとき、すでに鉄舟は亡くなっているが、円朝は、鉄舟との縁を慶喜に語ったのだろうか。
著者(家近 良樹)は「夏目漱石の円朝評」を、次のようにしめくくっている。
この日の演者円朝と、それを静かに聴く慶喜両人の関係は、まさに明治という時代の特色を集約する光景となった。大衆娯楽の王者と元将軍が、小さな空間で時を同じくするなどということは、身分格差のやかましい封建時代では到底考えられないことだったからである。
http://bookend.blog.so-net.ne.jp/2017-04-22
そこで、円朝が噺家として「生まれ変わった」ことに山岡鉄舟がからんでいることを示した。
その後、たまたま、『その後の慶喜』という本を読んでいたら、徳川慶喜と円朝との交流についての記述がでていた。山岡鉄舟が円朝を紹介したという一文があるかと思ったが、そこには無い。しかし、円朝の名人ぶりが示されて興味深い。以下に、引用してみる。
漱石の円朝評
天保10年(1839)生まれの円朝は、当時53歳で円熟期にあった。その芸風は、彼を絶賛した夏目漱石が、円朝に似ていると見た新派の俳優になぞらえて、「その工(たくみ)が不自然でない」「余程巧みで、それで自然」と評したことからも明らかなように、至高の芸風に達していた(「本郷座金色夜叉」「水まくら」。いずれも『夏目漱石全集』第16巻に所収)。つまり、高度な表現技術を持ち合わせながらも、それを感じさせないごくごく自然な語り口で、しかも情味にあふれる芸風となっていたのである。
もっとも、若い頃の円朝は、慶喜に円朝を引き合わせた渋沢(栄一)によると、「万事が大袈裟で、シンミリした話なんか」とは縁遠い芝居がかった派手な噺をしていたらしい。だが、その後の人生でなにか感じるものがあったのだろう。やがて、「人情話というものを発明」して、『怪談牡丹燈籠』や『塩原多助一代記』など、広く世に知られるようになる噺を創作していくことになる。また、素材を広く海外にも求めて、『英国女王イリザベス伝』なども作りあげた。そして、やはり渋沢によると、円朝は「話術が旨かったばかりで無く、なかなか学問もあって文事に長け、能く読書して居ったので、(中略)纏まった長い人情話を作ることが出来た」という。それゆえ、「どんな立派な人とも話」ができ、「高貴の人の御前だからとて別におくびれるような事なぞはなかった」ともいう(『渋沢栄一全集』第2巻、417~418)。「高貴の人」の中のひとりが慶喜だったことはいうまでもない。
いずれにせよ、慶喜と出会った頃、近代大衆芸能の頂点に位置するまでに円朝の芸は達していたのである。それは「本業の芸以外、なおその芸に遊び得る余裕」(同前)がある者にしか到達しえない世界であった。そして、この円朝の二歳年長が慶喜であった。
ちなみに、山岡鉄舟は、天保7年生まれで、慶喜とほぼ同年齢である。最後の将軍を「守る」ために鉄舟は奔走した。慶喜と円朝が出会ったとき、すでに鉄舟は亡くなっているが、円朝は、鉄舟との縁を慶喜に語ったのだろうか。
著者(家近 良樹)は「夏目漱石の円朝評」を、次のようにしめくくっている。
この日の演者円朝と、それを静かに聴く慶喜両人の関係は、まさに明治という時代の特色を集約する光景となった。大衆娯楽の王者と元将軍が、小さな空間で時を同じくするなどということは、身分格差のやかましい封建時代では到底考えられないことだったからである。