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「ちょっとだけ優勢」という状態(囲碁棋士 井山裕太著『勝ちきる頭脳』幻冬舎から) [スポーツなぞ]


勝ちきる頭脳

勝ちきる頭脳

  • 作者: 井山 裕太
  • 出版社/メーカー: 幻冬舎
  • 発売日: 2017/02/22
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)



上記書籍を読了した。

当方、碁石をつかってできるのは「五目並べ」くらいである。その自分に、はたして読めるだろうかと心配しつつ読み始めたが、たのしく読むことができた。

「方尺の盤上に人生あり」という言葉は将棋の世界について言うのだろうか。碁盤は、「方尺」よりおおきいように思う。

いずれにしろ、人生を考えるうえでの参考になった。それは、囲碁棋士のソレであり、人生を勝負にたとえてのソレである。

はじめての名人戦を闘った相手(張栩チョウ ウ)についての「ちょっとだけ優勢」の記述が、興味深い。以下、長いが引用してみる。

「形勢が少しばかり良くなっても、まったく楽をさせてくれません。少しでも緩めば徐々に差を詰められ、最後には抜き去られてしまう恐怖感が常にあり、逆にリードを奪われてしまったら、そのままがっちり逃げきられてしまうという焦燥感を抱いてしまいます。一局勝つのがこんなに大変な相手はいないと言わざるをえません。

このように張栩さんはすべての面において強いのですが、特に別格だと痛感させられたのが、優勢な碁をスムーズに勝ちきる力です。この点は間違いなく「自分にはない」と思わされました。

もし僕が優勢な立場だったら、「局面はまだまだ広く、この程度のリードで明確に最後まで勝ちきるのは楽ではない」と考えてしまいます。しかし、張栩さんはそうした局面から有無を言わさず、勝ちを掴んでしまうのです。特別に厳しい手を打ってくるわけでもなく、緩んでいるわけでもなく、勝利というものに向かってまっしぐらに最短で突き進んでいく感じなのです。

碁においては本来、この「ちょっとだけ優勢」という状態が最も難しいはずで、この点についてはこの後の章で詳しくお話ししようと思いますが、張栩さんに関してだけは、この「少しだけの優勢の状況が最も難しい」という言葉が当てはまりません。わずかな優位をそのままゴールまでキープしきってしまうのです。これが「勝ちきる」ということで、真似のできない芸当だと思わされました。

だから、少しでもリードを奪われたならキツいと思いながら対戦していると、前半からかなり精神的に追い込まれたようになります。また仮にこちらの形勢が良い状況であっても、「このリードを失ったら、もう挽回できない。絶対に優勢を維持しなければ」と考えてしまうので、こちらが優勢なのに追い込まれた気持ちになってしまうのでした。

リードを奪われたら「もう駄目だ」、互角であっても「優勢にならなければ」、優勢であっても「もし逆転されたら」--こんなふうに思っていて、良い結果が出るはずもありません。それは充分に承知しているわけで「そんなことを考えてはいけない。自分の着手だけに集中しなければ」と思って碁盤に臨んでいるのに、やっぱりいつの間にか思わされてしまっている。これが張栩さんの強さなのです。 p25,26

以上の部分を読みながら、思い出したことがあった。駒川改心流剣術の名人黒田泰治鉄心斎について、孫の黒田鉄山が記していること、である。そこでは、剣術の腕前を上・中・下に分けて、それぞれがどのような稽古をするか、上位の腕前の者が下位の者と稽古をするとどのように見えるかが示されている。

もっぱら思考をめぐらす囲碁の世界と身体をもちいた剣術の世界とを一緒くたにしようというのは、無理があって、まったくの見当違いかもしれないが、すこし考えてみたく思っている。実際のところどうだろうか・・・

(以下、黒田鉄山・甲野善紀著『武術談義(壮神社 昭和63年)』「改心流竹刀稽古の特色」から引用)

祖父の稽古のつけ方は祖父一代のものではなかろうかと思います。子供と稽古をした時、厳しい指導をしながらも木刀や竹刀自体は非常に柔らかく限りなく優しいものでした。だからこそ当時中学生くらいでも1、2級になっていた方達は大人の有段者ーー中、高段者ーーと稽古しても反対に子供扱いしてしまうような稽古をつけることが出来たのだと思います。

この剣術では上位の者が下位の者の受をとるのは半日でも一日でも立っていますが、その彼がさらに上の方に掛かっていく時はすぐに参ってしまいます。祖父も修行中は目録、免許と十人もやると、尾籠な話ですが便所に座ると立てなくなったそうです。ですから、冨山の道場の便所にはちょうど頭の高さに一尺ほどの竹の棒が荒縄で吊るしてあったそうです。

また、わずか十人とはいえ目録以上の方々と稽古をした後は両手の握力が萎えてしまい、食事もご飯をおにぎりにしてもらって済ませたそうです。竹刀が滑るほど軽く持っていてもそうなるのかと私が(祖父に)聞いたところ、持っていたのではもっとひどいことになるとのことでした。

さて、このようにして中の位の稽古となりますと、いかにも拍子よく、術技も細かく、見事に打ち、品位も高く見えるようになります。無駄太刀というものが無くなって参ります。そして上の位の稽古となりますと一見、強くもなく弱くも見えず、また角ばらず速くもなく遅くもなく、見事にも打っていないようでいて、決して悪くもなく静かで正しいものをいいます。相手にかかわらず、その方よりほんのわずか上のところで使うということが出来るようになります。

私も小さい頃、祖父の稽古と先輩の稽古とを見比べた時、祖父のほうが何となくモサモサとした印象で見劣りしたのを覚えております。隣で稽古をつけている先輩のほうは確かに中の位の稽古をされておりましたので、相手の竹刀はすべて受け流し、指にすらさわらせずーー当流では鍔を使用いたしませんーー、打てばポンポーンという独特の軽い音と共に大技も小技もみなきれいに入っておりました。ところがこの先輩が祖父に掛かりますと例の如くモサモサとした感じになってしまいます。が、確かにどこにも触らせてもいないようでした。p110,111

柳生石舟斎から、葛飾北斎「富士越龍図」、そして黒田泰治鉄心斎のこと 
http://bookend.blog.so-net.ne.jp/2013-01-01


武術談義

武術談義

  • 作者: 黒田 鉄山
  • 出版社/メーカー: 壮神社
  • 発売日: 2003/11
  • メディア: 単行本



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