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6:知る権利のキャンペーン(「沖縄密約」事件の顛末:毎日新聞社史から) [沖縄密約漏えい(西山)事件]

知る権利のキャンペーン

毎日の事件に対する基本的な態度は一貫して次のとおりだった。

1、国民の知る権利を守り、報道の自由をつらぬく

2、西山記者の行動は正常な取材活動であり、逮捕は報道の自由に対する権力の容赦ない介入であり法の不当な適用である。

3、取材源を秘匿できず、女性事務官に迷惑をかけた責任を痛感し、おわびしたい

この態度は4日組み込み朝刊最終版一面の中谷不二男編集局長の署名入り記事「国民の『知る権利』どうなる 正当な取材活動 権力介入は言論への挑戦」や、社説「記者逮捕は知る権利の侵害」で打ち出された。中谷編集局長はその中で「西山記者の取材活動には、何らやましいところはないと信ずる」と明確に書いた。しかし、同夜は斎藤編集主幹、中谷局長らが東京本社5階の役員室にこもり切りだったため、4階にある編集局各部記者らが押しかける一幕まであった。記者の間に「政府当局と安易に妥協するな」と突き上げる空気が強かったのである。

当時、社会部司法記者クラブ(裁判、検察担当)で毎日新聞のキャップをしていた田中浩は、定年で社を去る際の言葉として、この時の社会部の様子について社報(1986年2月1日付)に次のように書いている。

その日の社会部会は、凍りつくような緊張感がたちこめていた。72年4月4日、政治部記者の西山太吉記者が沖縄密約漏えい事件で逮捕された直後のことだ。現役記者の逮捕という異常事態に、社会部としてどう対応していくのか・・・それぞれの部員が、歴史の荒波にもまれている実感をかみしめていた。当時、私は司法記者会に所属していた。逮捕の態様からみて、検察が西山記者と女性事務官との関係に切り込んでくることは目に見えていた。低俗な倫理観でゆさぶられてはたまったものではない。私たち裁判所グループは「起訴までは事実報道に徹し、裁判段階で反撃に転じる」という守りの構えをとった。

部会の討議は、私が経験した数多くの部会の中ではもっとも白熱したものだった。「西山記者の逮捕は、言論の自由に対する国家権力の不当な介入だ。断固として反権力キャンペーンを展開すべきだ」・・・私たちの自重論は、反権力の正論に押しまくられた。読者の反応を気にした論理は、気鋭の社会部気質になじまないからだ。

こうして毎日の「知る権利キャンペーン」が火を噴いた。連日、学者・文化人を総動員したキャンペーンは、壮大かつ論理的なものだった。しかし、同時に一部読者との亀裂を深めていったように思う。

ある局面でどちらを選択するかの判断は極めて難しい。この十数年間、私の心の片隅にあの部会がオリのようによどんでいた。どちらの選択が正しかったのか、体を張ってブレーキをかけることができなかったのか。所詮は引かれ者の小唄かも知れないが、何とも悔いの残る部会であった。

中谷編集局長は5日、本多丕道警視総監に会い、不当逮捕に抗議してすぐ釈放するよう申し入れている。組合は組織をあげて闘うことを声明、新聞労連、マスコミ共闘会議も立ち上がった。社会、民社、公明、共産の各党、総評、同盟をはじめ諸団体の談話、抗議、声明発表が相次いだ。国会では参院予算委、衆院連合審査会で社会党を中心に各党が政府を追及した。5日夕刊社会面は「“知る権利”を守れ 本社に激励殺到」 の記事がトップを埋めた。他紙も大がかりな紙面をつくっている。

これに対して政権末期だった佐藤首相は強硬な姿勢を続け、6日には記者団とのやりとりで「(外務省文書が)社会党に渡った経過について知りたい」「新聞に書いておけば問題はなかった」「もし政争の具に使われれば問題だろう」などと述べ、文書の流れと国会質問との間の政治的動きに関心を持っていることを示唆した。また「言論の自由に対する挑戦」とした中谷編集局長に対し「そういうことでくるならオレは戦うよ」と発言した。当時の自民党を中心とした政界では、“西山事件”を自民党後継総裁争いの動きの一環、と政治的にみる人も多く、事実、首相側近の政府・自民党幹部は事件発覚直後から「こんどの問題は倒閣が目的だそうだ」との憶測を流していた。

その日、佐藤首相は参議院予算委員会で「新聞倫理綱領が守られておれば、こんな取材・報道の自由という問題は起きなかった」との見解を示した。新聞倫理綱領は1946年7月、占領軍司令部の指導のもとに日本新聞協会加盟社が決めたもの。佐藤首相の発言は、同綱領にある「ニュースの取り扱いにあたっては、それが何者かの宣伝に利用されぬよう厳に警戒せねばならない」などの箇所をさしたものとみられるが、法と倫理の混同に各方面から反発は高まった。

佐藤首相は7日の参議院予算委員会では「いわゆる秘密は行政府自身が決める」との見解を示し、後に機密保全法制定の意向まで明らかにした。こうした強硬姿勢には閣内からも異論が出され、7日、赤城宗徳農相は「新聞記者のモラルと刑罰をごっちゃにしたのは間違っている」と発言、前尾繁三郎法相も「(機密文書のコピーが)野党の手にわたった経路をうんぬんするのは佐藤総理の思い過ごしだ」と批判的見解を述べた。国益と報道についての閣内対立の印象を国民に与えたのである。

学者、言論界からは次々と抗議声明が出され、本紙を含む新聞各紙の展開はますます大きくなっていった。野党議員、文化人らの呼びかけで「国民の知る権利を守る会」が発足、佐藤長期政権との対決の機運が盛り上がっていった。

2人は6日、東京地検に送検され、10日間の身柄拘置請求を東京地裁が認めたが、西山記者弁護団の準抗告の結果、9日深夜、西山記者は釈放された。裁判官3人により13時間近い審理の結果だった。元事務官(5日付で懲戒免職)は弁護士からその手続きがとられず、15日の起訴当日まで拘置された。

本社では西山記者釈放後、記者会見が10日未明と同日夜の2回、東京本社で行われ、西山記者は「(元事務官に)迷惑をかけて申し訳なかったが、正当な取材と確信する」と語った。佐藤首相がその前の記者団との立ち話で「政争の具にしようとした」と漏らし、自民党総裁選の派閥争いとの関連をほのめかした点については、2度目の会見で全面的に否定したうえで、次のように語った(同記者は、当時「ポスト佐藤」を狙う田中角栄氏とも通じていた大平派を担当していたベテラン記者で、自民党担当キャップであった)。

「それは私がとった行動とは縁もゆかりもないことだ。どんな憶測が飛ぼうと、ゴウも恥じることはない。事実関係を調べてもらえばわかる。今度の捜査の過程でも、そうしたことをかなり追及された。そういう点では、きわめて政治的な性質であるように判断する」

本社ではコピーが横路議員に渡った経過を7日付朝刊で報道したが、2度目の記者会見を報じた11日朝刊ではこれを補足したうえ、元事務官に対し中谷編集局長談話で重ねて陳謝した。

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町村信孝「秘密保全」PT座長(日本記者クラブ会見)ビデオ
http://bookend.blog.so-net.ne.jp/2014-10-08-2

戦後日本の構造をこれほどよく示す話を聞いたことがない(西山事件当事者談話)
http://bookend.blog.so-net.ne.jp/2014-10-09



「毎日」の3世紀―新聞が見つめた激流130年

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  • 作者: 毎日新聞社
  • 出版社/メーカー: 毎日新聞社
  • 発売日: 2002/02
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