4000mタワーを構想した「巨人」正力松太郎より、さらにスケールのデカイ人物・・ [歴史雑感なぞ]
昨日につづくオハナシである。
「我、拗ね者として生涯を閉ず」(本田靖春著)に、よると、正力松太郎が読売新聞社を取得するにあたってカネを借りた人物がいる。他の人が、種々の思惑もあって逡巡しているところを、その男が、助けたのだという。
助けたのは、「大風呂敷」の異名をとった人物である。
そのくだりを「拗ね者」から引用してみる。
*************
その読売が売りに出されていると聞いて、正力の同郷の友人ふたりが、財界の世話役である郷誠之助を訪ねて、読売を正力に任せてみてはどうか、と持ちかけた。
郷は自身が読売の出資者の一人でもあり、その経営難にあたまを痛めているところであった。彼はふたりの申し出に賛成して、三井と三菱に話をつける。
ことはとんとん拍子で運んだのだが、思わぬところで頓挫する。大阪のアカ新聞(低俗紙)が読売の買収に乗り出したので、両社とも正力への資金提供を断ってきたのである。ことさらに正力の肩をもつことで、アカ新聞の恨みを買っていやがらせをされるのは困る、というのがその理由であった。
すっかり乗り気になっていた正力は、あきらめ切れずに、後藤新平に助力を頼むことにした。後藤は虎の門事件で総辞職した山本内閣の内相だった政治家で、気宇壮大な発想力を持つところから、「大風呂敷」と仇名されていた人物である。内務官僚である正力は彼に仕えるうち、その大きさに心服するようになる。後藤は後藤で、正力の将来性を高く買って、彼が懲戒免官になった後、こういって励ました。
「君が実業界に行くなら、おれが2万円ほど出してやるから、2,3年遊んでいろ」
正力はその申し出を断ったのだが、三井、三菱の出資が駄目になったと知って、後藤を頼ることにしたのである。『120年史』にはそのときの模様を次のように記している。
〈翌日、正力は伊豆長岡温泉に滞在中の後藤を訪ね、読売の買収話を切り出した。後藤は1,2分じっと考えていたが、「分かった、金はおれが用立てよう。しかし新聞経営はむずかしいと聞いているから、失敗したらきれいに捨てて未練を残すな。金は返さんでもいい」とあっさり承知し、「ただし、おれが金を出したとは、他人に言うな」と付け加えた。
後藤は金の出所については何も言わなかったが、東京・麻布の自分の土地を担保に、借金したものであることを正力は後になって知り、そこまで自分を信用してくれた太っ腹に驚き、深い恩義を感じた。こうして後藤の尽力で十万円を手にした正力は、24年2月25日に松山(忠二郎・当時の読売社長)に会って譲渡契約を結び、第7代社長に就任した〉
ときに正力は、弱冠38歳である。東大の独法を出れば出世は約束されたも同然、といわれた時代の話で、エリートの上にだけ起こり得る出来事であり、手放しで美談扱いするわけにはいかないが、大正末期あたりまで、まだ日本にはスケールの大きい人物がいたんだなぁ、という気分にはさせられる。
十万円というカネがいまのいくらに相当するのか、経済オンチの私にはさっぱりわからないのだが、弱小紙とはいえ伝統ある新聞社を丸ごと譲り受けるのだから、端た金でなかったことは違いあるまい。
大風呂敷の後藤が見込んだだけあって、正力も大人物であった。「巨人」の名は、正力が生みの親である球団とともにあるが、これを冠するにふさわしいのは、正力の方である。
こう書くと、褒め言葉として受け取られそうだが、それは私の本意ではない。思い描く新聞のあるべき姿が、社主正力松太郎と私たち現場の記者とでは、あまりにも乖離しすぎており、交わるところがないのである。
p442,3
*************
本題の主旨とは関係のないところまで引用したが、本田の記すように、「スケールの大きい人物がいたんだなぁ」と嘆息ぜずにはいられない話である。
後藤新平は、関東大震災後、東京に100m幅の道路を構想したという。しかし、予算の関係で構想は縮小され、規模は小さくなったものの、ソレが今日「昭和通り」として残ったのだという。
後藤が、正力を高く買っていたというのは、自分と同じような精神の持ち主であったから、ということなのだろうか・・・。
後藤のそうした「大風呂敷」精神が、正力にも受け継がれ、昭和の歴史に大きく影響を与えてきたのも事実にちがいない。
正力の「子供染みた」富士山の高さを超す4000mのビルが、徐々に「値切られ」、果ては550mのタワーとして実現されたかもしれないことを考えると・・、
「大風呂敷」を広げるのは、広げないより、イイことなのだろう。規模はちいさくなるとしても、実現する可能性は高くなるということであるから・・。最初から、「絵空事」を思い描く構想力がなければ、550mタワーの図面を実際に引くことはできなかったわけであるから・・
やはり、気宇壮大な絵空事を思い描く構想力は、何ごとかを成し遂げるためには必要なのにちがいない。
これは、蛇足だが・・
ウィキペディアで「後藤新平」の項目を調べたら、思いがけない言葉が出てきた。
「金を残して死ぬ者は下だ。仕事を残して死ぬ者は中だ。人を残して死ぬ者は上だ」
楽天元監督の野村さんが、よく引用する言葉である。当方は、何かしら漢籍からの引用とばかり思っていたのだが、後藤新平の言葉のようである。ナルホド、上記逸話にある人物の口から出たのであるなら「ナルホド納得」である。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%8C%E8%97%A4%E6%96%B0%E5%B9%B3
http://bookend.blog.so-net.ne.jp/2011-12-14
「我、拗ね者として生涯を閉ず」(本田靖春著)に、よると、正力松太郎が読売新聞社を取得するにあたってカネを借りた人物がいる。他の人が、種々の思惑もあって逡巡しているところを、その男が、助けたのだという。
助けたのは、「大風呂敷」の異名をとった人物である。
そのくだりを「拗ね者」から引用してみる。
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その読売が売りに出されていると聞いて、正力の同郷の友人ふたりが、財界の世話役である郷誠之助を訪ねて、読売を正力に任せてみてはどうか、と持ちかけた。
郷は自身が読売の出資者の一人でもあり、その経営難にあたまを痛めているところであった。彼はふたりの申し出に賛成して、三井と三菱に話をつける。
ことはとんとん拍子で運んだのだが、思わぬところで頓挫する。大阪のアカ新聞(低俗紙)が読売の買収に乗り出したので、両社とも正力への資金提供を断ってきたのである。ことさらに正力の肩をもつことで、アカ新聞の恨みを買っていやがらせをされるのは困る、というのがその理由であった。
すっかり乗り気になっていた正力は、あきらめ切れずに、後藤新平に助力を頼むことにした。後藤は虎の門事件で総辞職した山本内閣の内相だった政治家で、気宇壮大な発想力を持つところから、「大風呂敷」と仇名されていた人物である。内務官僚である正力は彼に仕えるうち、その大きさに心服するようになる。後藤は後藤で、正力の将来性を高く買って、彼が懲戒免官になった後、こういって励ました。
「君が実業界に行くなら、おれが2万円ほど出してやるから、2,3年遊んでいろ」
正力はその申し出を断ったのだが、三井、三菱の出資が駄目になったと知って、後藤を頼ることにしたのである。『120年史』にはそのときの模様を次のように記している。
〈翌日、正力は伊豆長岡温泉に滞在中の後藤を訪ね、読売の買収話を切り出した。後藤は1,2分じっと考えていたが、「分かった、金はおれが用立てよう。しかし新聞経営はむずかしいと聞いているから、失敗したらきれいに捨てて未練を残すな。金は返さんでもいい」とあっさり承知し、「ただし、おれが金を出したとは、他人に言うな」と付け加えた。
後藤は金の出所については何も言わなかったが、東京・麻布の自分の土地を担保に、借金したものであることを正力は後になって知り、そこまで自分を信用してくれた太っ腹に驚き、深い恩義を感じた。こうして後藤の尽力で十万円を手にした正力は、24年2月25日に松山(忠二郎・当時の読売社長)に会って譲渡契約を結び、第7代社長に就任した〉
ときに正力は、弱冠38歳である。東大の独法を出れば出世は約束されたも同然、といわれた時代の話で、エリートの上にだけ起こり得る出来事であり、手放しで美談扱いするわけにはいかないが、大正末期あたりまで、まだ日本にはスケールの大きい人物がいたんだなぁ、という気分にはさせられる。
十万円というカネがいまのいくらに相当するのか、経済オンチの私にはさっぱりわからないのだが、弱小紙とはいえ伝統ある新聞社を丸ごと譲り受けるのだから、端た金でなかったことは違いあるまい。
大風呂敷の後藤が見込んだだけあって、正力も大人物であった。「巨人」の名は、正力が生みの親である球団とともにあるが、これを冠するにふさわしいのは、正力の方である。
こう書くと、褒め言葉として受け取られそうだが、それは私の本意ではない。思い描く新聞のあるべき姿が、社主正力松太郎と私たち現場の記者とでは、あまりにも乖離しすぎており、交わるところがないのである。
p442,3
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本題の主旨とは関係のないところまで引用したが、本田の記すように、「スケールの大きい人物がいたんだなぁ」と嘆息ぜずにはいられない話である。
後藤新平は、関東大震災後、東京に100m幅の道路を構想したという。しかし、予算の関係で構想は縮小され、規模は小さくなったものの、ソレが今日「昭和通り」として残ったのだという。
後藤が、正力を高く買っていたというのは、自分と同じような精神の持ち主であったから、ということなのだろうか・・・。
後藤のそうした「大風呂敷」精神が、正力にも受け継がれ、昭和の歴史に大きく影響を与えてきたのも事実にちがいない。
正力の「子供染みた」富士山の高さを超す4000mのビルが、徐々に「値切られ」、果ては550mのタワーとして実現されたかもしれないことを考えると・・、
「大風呂敷」を広げるのは、広げないより、イイことなのだろう。規模はちいさくなるとしても、実現する可能性は高くなるということであるから・・。最初から、「絵空事」を思い描く構想力がなければ、550mタワーの図面を実際に引くことはできなかったわけであるから・・
やはり、気宇壮大な絵空事を思い描く構想力は、何ごとかを成し遂げるためには必要なのにちがいない。
これは、蛇足だが・・
ウィキペディアで「後藤新平」の項目を調べたら、思いがけない言葉が出てきた。
「金を残して死ぬ者は下だ。仕事を残して死ぬ者は中だ。人を残して死ぬ者は上だ」
楽天元監督の野村さんが、よく引用する言葉である。当方は、何かしら漢籍からの引用とばかり思っていたのだが、後藤新平の言葉のようである。ナルホド、上記逸話にある人物の口から出たのであるなら「ナルホド納得」である。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%8C%E8%97%A4%E6%96%B0%E5%B9%B3
http://bookend.blog.so-net.ne.jp/2011-12-14
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- 出版社/メーカー: 藤原書店
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- メディア: 単行本