3;HATABI:子どもの日 [ニュース・世相]
葬儀に花輪を飾っていたころの話。
花輪とはパチンコ店の開店のときなどに「祝開店」と書かれて、店のまわりに置かれるアレである。
ただ、葬祭で用いられる花輪のまんなかには、供物を置くカゴがあって、ソコには缶詰や酒などが入れられていた。もちろん、葬祭用の花輪は、祝い事の花輪と異なり黒白基調の配色がなされていた。
葬祭時、その「祝開店」に当たるところに、「子ども一同」と書かれていたことがあった。
「子ども・・」とあるので、「幼稚園の先生でも亡くなりましたかね・・」と思わず口に出したら、ナニをトボケタことを言うとばかりに、「親からみれば、みんな子どもだからね」と言われてしまった。それは、親の葬儀に、子ども一同で、花輪を献花したということだった。
なるほど、親からみれば、子どもが70になろうが、子どもである。
いまは、みんなオトナになるのが遅い。老成しない。いつぞや、ダレの寄稿だったか忘れたが、映画監督の小津安二郎がその年齢よりはるかに老成していたと書いていた人がいた。言いたかったのは、今の人は老成しない。いつまでたっても子どもだ、自分もそうだが・・・という話であった。
なるほど、そうであろうと思う。
司馬遼太郎が「菜の花の沖」に記したダレソレは、10歳になるまえに、いつまでも親のスネをかじってばかりはいられない、と丁稚奉公に出たという話である。今は、60になっても親のスネをかじって平気な人もいる。
親も親で、いつまでも子どもを子ども扱いでいる。そのことは、振り込め詐欺に引っ掛かる老人の多さからワカル。親も、オトナであるなら、「自分でまいた種は自分で刈り取れ」とばかりに突き離しそうなものである。ところが、そうしない。そうしない理由のひとつとして考えられるのは、親もまた、子どもだから、ということになろう…。
かくして、今のご時世、ミンナ子どもでオトナがイナイということになる。
であれば、子どもの日は、国民あげての祝日。まさに「国民の祝日」であるといえる。
花輪とはパチンコ店の開店のときなどに「祝開店」と書かれて、店のまわりに置かれるアレである。
ただ、葬祭で用いられる花輪のまんなかには、供物を置くカゴがあって、ソコには缶詰や酒などが入れられていた。もちろん、葬祭用の花輪は、祝い事の花輪と異なり黒白基調の配色がなされていた。
葬祭時、その「祝開店」に当たるところに、「子ども一同」と書かれていたことがあった。
「子ども・・」とあるので、「幼稚園の先生でも亡くなりましたかね・・」と思わず口に出したら、ナニをトボケタことを言うとばかりに、「親からみれば、みんな子どもだからね」と言われてしまった。それは、親の葬儀に、子ども一同で、花輪を献花したということだった。
なるほど、親からみれば、子どもが70になろうが、子どもである。
いまは、みんなオトナになるのが遅い。老成しない。いつぞや、ダレの寄稿だったか忘れたが、映画監督の小津安二郎がその年齢よりはるかに老成していたと書いていた人がいた。言いたかったのは、今の人は老成しない。いつまでたっても子どもだ、自分もそうだが・・・という話であった。
なるほど、そうであろうと思う。
司馬遼太郎が「菜の花の沖」に記したダレソレは、10歳になるまえに、いつまでも親のスネをかじってばかりはいられない、と丁稚奉公に出たという話である。今は、60になっても親のスネをかじって平気な人もいる。
親も親で、いつまでも子どもを子ども扱いでいる。そのことは、振り込め詐欺に引っ掛かる老人の多さからワカル。親も、オトナであるなら、「自分でまいた種は自分で刈り取れ」とばかりに突き離しそうなものである。ところが、そうしない。そうしない理由のひとつとして考えられるのは、親もまた、子どもだから、ということになろう…。
かくして、今のご時世、ミンナ子どもでオトナがイナイということになる。
であれば、子どもの日は、国民あげての祝日。まさに「国民の祝日」であるといえる。