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人民の海の中で:『写真記録ベトナム戦争』解説8 [写真記録ベトナム戦争]

石川文洋氏の『写真記録 ベトナム戦争』中の、
丸山静雄氏による解説を先回にひきつづき引用する。

標題は《8.解放区:人民の海の中で》

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解放区には南ベトナム臨時革命政府の完全な統制下にあるものと、その部分的な統制下にあるものとの二種類があった。前者の完全解放区はクアンチ省にあったが、それ以外にも北部、西部、南部諸省内に点々と存在していた。後者の部分的な統制下にある解放区には、サイゴン政府の支配地区内に飛び地の形で各地に散在するものと、「競合地区」内にあるものとがあった。

クアンチ省を除けば、解放区は一般的に境界線も定かでなく、また競合地区内におけるように時間によって解放勢力の支配下にはいるといったように不確定要素が多かった。アメリカとサイゴン政府側は、そうした曖昧な状態に自己の勢力圏をおくことは不安であったらしく、常に境界線を引き、溝を掘り、鉄条網をはって自己の存在を誇示しようとした。

解放勢力は境界をつくって敵味方を区別するのではなく、いつでも、どこにでも水のようにしみ込んでゆこうとした。人民の海の中で戦おうとしたのである。アメリカとサイゴン政府側は厳重な仕切りをつくり、人民を区別しようとした。したがって解放区は図上に表示できなかったし、解放勢力は、そうしたことをしようともしなかった。アメリカとサイゴン政府側はもっぱら図上に勢力圏を描き、形あるものにすがろうとした。解放区の考え方の中に、解放区の特色と、人民戦争の強みと、ベトナム民族の勝利の鍵とがあったようである。

しかし解放区における戦いは容易でなかった。解放区はベトナム解放の長く、苦しい戦いの中で最も困難な戦いの一つを勇敢に戦いぬいてきたのである。その一例がクアンチ省で、ここはまず民族分断の悲劇を一身に経験した。最初は1954年のジュネーブ協定で、同協定によってクアンチ省はベンハイ川を境に二分され、さらにベトナム戦争の過程ではクアンチ市街と、東南のチューホン県の一部、ハイラン県とをサイゴン政府側に奪われ、こうしてクアンチ省は三分されていた。

クアンチ省は、またゴ・ジン・ジェム政権時代からアメリカ軍の支配時代まで、最も長期にわたり、かつ大規模に村落の改編、住民の強制移動の行われた地域であった。戦略村計画、新生活村計画、地方再建計画、革命的開発計画、加速平定計画といわれるもので、村の伝統や村の成り立つ諸条件を無視して農民を固有の村落から政府の意のままに他の地点に移し、あるいは強制収容所に終結させていた。

アメリカ軍の基地づくりが始まると、数カ村を強制移動させ、そのあとをブルドーザーで一挙におしつぶし、一面の平坦地とした。8カ村をのみこんだアイツー基地がその好例である。ケサンの戦いでは、周辺の農民をことごとく住みついた山村から追い出し、ジオリン県では、「マクナマラ・ライン」(鉄条網を深くはりめぐらし、電流を通じ、また各種の電子機器をつけて解放勢力の進入を阻止しようとしたもの)を建設するために4つの村から全村民を閉め出した。

ベトナム戦争は史上最大の破壊戦争といわれたが、それを代表する68年のテト攻勢時のケサンの攻防戦、72年の春季攻勢をめぐる激闘はここで展開され、北爆、南爆もここに集中された。クアンチ省ではアメリカ軍の地上作戦と航空作戦(爆撃)と海上作戦(艦砲射撃)が併行しておこなわれた。西端の北フンハ、南フンハ両県には毒物(化学剤)や地雷が大量に投下され、戦いが終わったあとも農民は昔の村に直ちに帰ることができなかったという。

1974年10月、11月、ここを訪れとき、アメリカ軍に村を追われ、サイゴン政府軍に強制収容所にいれられ、サイゴン政府の警察官に数々のむごい拷問を加えられた人たちに会ったが、その人たちは、いまどのような思いで勝利の喜びをかみしめているのだろうか。

写真記録ベトナム戦争

写真記録ベトナム戦争

  • 作者: 石川 文洋
  • 出版社/メーカー: 金曜日
  • 発売日: 2000
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