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伝統社会の破壊:『写真記録ベトナム戦争』解説2 [写真記録ベトナム戦争]

先回につづいて石川文洋氏の『写真記録 ベトナム戦争』中の、

丸山静雄氏による解説を引用する。

《2.ある村の「作戦」:伝統社会の破壊》という標題がついている。

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「ベトコン」がいた、という情報が入ると、アメリカ軍の基地は、にわかにざわめき、出動準備がはじまる。部隊はあわただしく武装をととのえ、ヘリコプターにのって「ベトコン」が隠れているといわれる部落に飛ぶ。

目ざす部落に近づくと、ヘリコプターは低空飛行をつづけ、十分に警戒しながら、やや離れた地点に部隊をおろす。そのころにはガンシップといわれる武装ヘリコプターの別動隊や戦車、火砲陣が到着し、空と地上から猛然と銃撃、砲撃を加える。時には爆撃機が飛来して爆弾を投下し、あるいは海岸に近いところでは艦砲射撃がおこなわれる。

その間をヘリコプターから降り立った地上部隊が「ベトコン」が潜伏していると思われる地点に接近する。砲爆撃で、さんざんにいためつけられた部落をさらに火炎放射器で容赦なく焼き払い、一軒一軒、家の中をしらみ潰しに探し、よほどの老人でない限り、男を見ると、「ベトコン」だといって有無をいわさず手足をしばりあげる。泣いて、とりすがる家族のものを蹴とばし、逃げようとすると、殴打し、あるいは銃を発射する。家の中から穀物、油、果物、野菜を見つけ出し、「ベトコン」に流れるといって焼くか、水田や川に投げすててしまう。部落周辺の森は「ベトコン」が潜伏場所に利用するからといって枯葉剤を散布し、水田の稲も焼き払う。あらゆるものを破壊し、焼き、棄てて、あとには何物も残さない。

1968年3月16日、クァンガイ省のソンミ村をアメリカ軍が徹底的に破壊し、村民500人を虐殺したとき(ソンミ事件)、アメリカ軍はソンミ村の上空を4段階に仕切って各種航空機を飛ばせた。1000フィート以下の低空にはガンシップ、これは部落から脱出しようとする「ベトコン」を射殺するため。1000フィートには機動部隊の司令官機、これは戦闘指揮に当たるため。2000フィートには師団長機、これは戦闘を監視するため。2500フィートには旅団長機、これは観戦のためである。これでは蟻のはい出る隙もないだろうし、それよりも戦争をスポーツのゲームとでも思っているらしいアメリカ軍の冷酷きわまる作戦ぶりに、わたしどもは、いいようのない怒りを感ずるのである。

かくて「ベトコン」の大部隊が集結し、「ベトコン」の一大拠点であったかのように騒ぎたてた「大作戦」の結果、焼き払われた部落から出てくるのは、多くの場合、せいぜい十数人か数十人の老人、主婦、子供だけ。目ざす「ベトコン」なるものの姿は一人も見えない。引き出された老人、主婦、子供たちは強引にトラック、ヘリコプターにのせられ、後方に運ばれ、「難民収容所」に入れられる。遠く祖先の時代から住みなれた土地への愛着が強く、泣いて郷里から離れまいとする農民をアメリカ軍、サイゴン政府軍兵士は強制的に連行する。かくて郷里は荒廃に帰し、後方に「難民部落」だけがふえてゆく。アメリカ側のいう「難民」とは、実はアメリカ軍がつくり出していたのである。これが「索敵撃滅作戦」「平定計画」なるものの実体であった。

アメリカはベトナム南部に多数の基地を建設したが、アメリカ軍の1つの基地をつくるためんは大体において5,6ヵ村ないし7,8ヵ村がブルドーザーで一挙に平坦地とされた。村の大事な入口も、丘と祖先の墓も、住みなれた家も田畑も地響き立てて走るブルドーザーの車輪の下にひとたまりもなくおし潰された。

ベトナムの村落は、古来、「王法の権威も垣根の前でとまる」といわれるほど、かなり高度の自治を享有していた。この村落が基盤となってベトナムの社会は成り立っていた。ところがアメリカ軍の作戦は、村落を抹殺し、村落を基盤とした伝統社会の秩序を根底から破壊しようとしていたようである。


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