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B29の搭乗員を葬ったはなし(靖国問題とからめて・・) [スピリチュアルな話題]

昨晩、NHK・TVの(関東地方のローカル)ニュースで

戦時中、千葉県木更津市の山林に落下したB29の搭乗員12名のために墓を建てた方(影山金次さん)のこと。その墓にアメリカ大使館関係者などを招き、集いが開かれたことが報じられていた。

戦時中のことでもあり、山村には次男、三男をアメリカとの戦争で亡くした家族もあり、敵国人の墓をたてるというのは「非国民」呼ばわりされる可能性もあり、内々に墓を建て、ソノことを息子さんに伝えたのもだいぶ後のことであるということだった。

数年前、野草取りに来た住民がみつけるまで、墓は、ひっそりと立っていたという。

 

墓を建てた影山さんの遺したことばは、スバラシイもので、いかにも日本人らしい発想だと思った。

「敵も、味方も、亡くなればホトケなのだから・・・」

 

靖国神社参拝の件で中国側は騒ぎ立てるが、それには死者に対する見方の違いがあるということを加地伸行氏が沈黙の宗教―儒教 のなかで書いている。

以下長いが引用してみよう。

 

「日本人の場合、仏教によって死者は仏として崇められる。しかし、お盆や命日には儒教によって降霊し、その日は人間と化すという、はなはだ便宜的な矛盾した観点を抱いている。つまり、1:成神・成仏、2降霊・招魂という二つの本来はあい容れない立場を、平気で併存させているのである。

しかし中国人の場合、前述のように、死者は、あくまでも人間としての死者である。その霊魂(鬼神)は浮遊して、再生の機会を待っているのである。純粋に儒教的なのである。だから、墳墓に眠る遺体が人間である以上、その死者に対して怨みがあれば、平気でその怨みをはらす。すなわち墓を発(あば)いて、遺体を傷つける。

中略

第二次大戦後も、中国大陸で、もとの小作人がもとの地主の墓をあばいて辱しめた。日本では、戦後、そのような例は聞いたことがない。このように、中国人は死者を死後も生きた人間と同じように思っているから、靖国神社に祭られた方々を神(かみ)と思わず、人間の霊魂としての神(しん)と思っているから怨みをはらそうとするのである。

日本人の場合、われわれの感覚として死者は鄭重に扱われる。本来、日本人は死を忌み汚れたものと考えるが、それは今は問わない。すくなくとも、われわれ日本人の平均的感覚では、死は死者の生前のすべてを浄化してしまう。お通夜の晩、お葬式の日、あるいはそのあと、死者について悪口を言うことはタブーとされる。もっぱら、死者の生前における善行や良いところを語るのである。時には無理に探しさえする。

もし逆に死者の悪口を言うものがいたとしたならば、その者はみなから軽蔑されるのである。少なくとも人間として程度の低い者とみなされる。まして、死者に恨みがましいことなど言えるはずもない。なぜなら日本人の感覚としては、死者はすでに〈成仏・成神〉している尊い存在であると思っているからである。どのようにして神となったのか、仏となったのかは知らないけれども、ともかくすでに仏であり神なのであって、人間ではないのである。

だから、靖国神社に祭られた死者はもはや人間ではなくて、神なのである。そして八百万の神々をもつ日本人としては、多くの神を祭ることになんの抵抗もないのである。否、むしろ尊い存在として積極的に祭るのである。

ただし、唯一絶対の神ではなくて親しい神であるから、成神(成仏)して、もはや人間ではないはずなのに、人間と同じような親近感も抱いている。そこで中国人と同じく、儒教的に降霊の儀式(神道の招魂・仏教の先祖供養)を行なったりする。つまり日本人は、1:成神・成仏、2:降霊・招魂の二本立てであるが、中国人は、2:降霊・招魂の一つだけなので、問題がいつもこんがらかるのである。このように儒教文化圏でありながら、日中両国民族の死生観には相違がある。(さらにまた、死は死者の生前のすべてを浄化するという感覚が日本人にある)。この文化の相違を抜きにして、靖国神社参拝問題をいくら論じても進展はない。」

沈黙の宗教―儒教

沈黙の宗教―儒教

  • 作者: 加地 伸行
  • 出版社/メーカー: 筑摩書房
  • 発売日: 1994/07
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)

 


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