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小泉八雲『怪談』のリアリティー [スピリチュアルな話題]

怪談・奇談 小泉八雲の『怪談』にはただならぬ怖さをおぼえる。

リアリティーがある。「これは創作ではないな、実際にあった話だな」と感じる。

八雲が、奥さんの節さんから聞いたはなしだそうだ。

語り伝えられてきたコレゾという怖いはなしを、奥さんが八雲に話してきかせたのであろうと思う。

それらのはなしの出所は、事実であったように私には強く感じられる。

 

コンクリートで囲まれた、深夜も照明が煌々としている現代社会に妖怪は出にくいと水木しげるさんが嘆いていたように思う。

金馬の落語ではないが、銀座のまんなかに昼間幽霊が出てきても怖くはないというものだ。

それが、ニューギニアの夜の森にはいると、マサニ妖怪がそこここにいる雰囲気があるのだそうだ。

 

昔は、今以上に、ソレらしきものが実際に出没したのであろうと思う。

八雲の『怪談』のなかで、(たしか)女の子が赤ん坊をオブって、ひとり、村はずれの森にある神社にお札を取りに出かけるはなしがあったと思う。

怖いのをこらえてそうしてくるなら、褒美のお金をあげるという申し出であったが、要するに、オトナたちの余興にされたのだ。

女の子は、お金欲しさから、赤ん坊をオブったままでかけていく。

オソロシサを感じながらも、やっとの思いで、お札をはがして帰り、お金をもらえると思っていると、自分を見るオトナたちの顔色が変わっている。

なぜなら、背中の赤ん坊の首がひねられていたからだ。

 

というハナシがあるが・・・ 

南米のスリナムという(いわば未開の)土地での出来事として「なんらかの強い力で、子どもの首がひねられ、顔が背中を向いてしまった」というはなしを以前読む機会があり、なおさら八雲のはなしは事実だろうと感じた。

 

また、「むじな」というはなしで、のっぺらボウのことが記されているが・・・

わたしが仕事の関係で妻を残し、早朝出かけていた時、出かけたはずのわたしが「帰ったよ」と言って布団にもぐりこんできたのだそうである。

モチロンそれは、わたしではない。

2日目に、「よし、見てやる」と、戻ったわたしを家内が見ると、顔がぼおっとしたのっぺらぼうだったそうである。

(因みに、わたしの顔は「のっぺり」はしていますが、「のっぺらぼう」ではありません)

 

本当に霊を見、霊を体感する人もいる。

子どものころ、「婆さんに抱きつかれた弱った」といった人がいる。その婆さんは近所の人で、その方の「通夜のことだったと思う・・」と話してくれたのだが、子どもごころに「ナンデ死んだ婆さんが自分に抱きつくんだろう・・」と思ったということだ。もちろん死体ではない。霊に抱きつかれたのを体感したということだ。

 

ソンナはなしをすると変人と思われかねないので、多くの方は控えているが、聞いてみるとイロイロはなしをきくことができる。

 

先の記事でも書いたが、死者を装う霊的存在がいる。

聖書的には「悪霊」と呼ばれるものたちだ。

死後のいのちがあることを信じこませたいのだ。

世界には万ほどの数の宗教があると言われているが、殆どすべての宗教が、死後の魂・霊を中心的な教義としている。仏教も死者の霊を供養することが中心になっているし、カトリック等、キリスト教と称する団体の殆どが、死後、地獄や煉獄に行く・・と信者に教えて、死後のいのちのアルことを教えの柱としているが、実際のところ、神のことば聖書は、死後のいのちを否定している。

真理は一つである。死後のいのちはアルかナイかのどちらかである。どちらも真理ではありえない。

真理に根ざさない宗教は、すべて悪霊の影響下にあるというのが聖書の教えである。

(だからと言って、聖書は偏狭で、他の宗教を奉じる人を排斥するものではない。そのことは、聖書を奉じる者らが、宣教に熱心で、人々のもとにすすんで出向き、聖書の真理を理性に訴える仕方で説くよう勧められていることからもわかる)

 

死者と交信するという人物たちは、つまるところ、悪霊たちと交信し、死後のいのちがあるように見せかけたいと願う悪霊たちに、いいように用いられているということだ。

お盆の時期は、そのようなスペシャル番組が組まれたりする。今晩も、江原敬之氏の番組があるようだ。

騙されないように、要注意である。

(当方ブログ 5月13日、14日に関連記事)


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