司馬遼太郎の面倒見の良さ [本・書評]
『朝日新聞』に、『語るー人生の贈りもの』という連載がある。著名な方たちの談話が紹介される。
ここのところ語っているのは、民俗学者 神崎宣武氏である。昨日(6月16日)分には、作家 司馬遼太郎の面倒見の良さを示す例がでている。
以前、高峰秀子が書いていたのを読んだのだが、司馬が編集者を紹介してくれ、その編集者に対し「よろしくお願いします」とぺこんとお辞儀をしてくれたと、そこには記されていた。そのような面倒見の良さをあちこちで示していた様子がわかる。
「師に通じる 司馬遼太郎」 と題されている。
********以下、引用*******
《1979年から日本観光文化研究所の事務局長を務め、生計も少し楽になった。81年、所長の宮本常一が胃がんのため73歳で亡くなる》
葬儀の前に、作家の司馬遼太郎さんから電話がかかってきました。「司馬遼太郎で花を出してくれ。立て替える金はあるか」。宮本先生が研究所の事業のことで司馬さんに面会したとき、カバン持ちの私もついていったことがあり、面識はありました。
その後、司馬さんのお宅にお礼に伺いました。「これからどうするんだ」ときかれ、「先生もいなくなりましたし、田舎へ帰って神主をやろうと思います」と答えると、「本を1冊書きなさい」。与えられたテーマは、岡山の郷里の祭礼と暮らし。家に伝わる古文書と祖父から聞いた話、受け継がれている祭りのこと、題材はそれだけでいい、と言われました。
東京へ帰ったら、司馬さんの根回しで中公新書の編集者がすぐに来て、執筆に取りかかりました。
《83年に著書『吉備高原の神と人』が刊行された》
出版前に、司馬さんに原稿をすべて送っていました。司馬さんは「これでいい」と。できあがった本を持って司馬さんを訪ねると、司馬さんは本を脇に置いて語りました。「君の文章には音やにおいがない。読む人に情景を描いてもらうような文章を書くトレーニングをしろ」。宮本先生に叱られたときと同じで、活字になってから言われるのはこたえますね(笑)。
稚拙な文章でしたが、この本から、私が自立して書いていくことが始まりました。司馬さんには20冊書け、と言われました。これは、宮本先生が原稿を1万枚書いたら自分の文体ができるよ、と言っていたことと通じます。
司馬さんに次に与えられたテーマは、日本文化特有の「おじぎ」でした。書けないまま司馬さんは亡くなり、ようやく2016年に『「おじぎ」の日本文化』を書き、御霊前に報告することができました。
(聞き手・吉川一樹)
****************
神崎さんは、ぜいたくな方だ。ふたりの師匠をもち、ひとりは宮本常一、もうひとりは司馬遼太郎である。上記引用からみると、司馬さんは、卒論の指導教官のようにふるまった様子がわかる。出版まで、面倒を見ている。至れり尽くせりである。
神崎さんの著作『「おじぎ」の日本文化』を、当方ははじめて知った。ここのところずっと、戦争前の古い日本映画を見ていて、「おじぎ」が印象深く、きれいであると感じていた。読んでみたい。
ここのところ語っているのは、民俗学者 神崎宣武氏である。昨日(6月16日)分には、作家 司馬遼太郎の面倒見の良さを示す例がでている。
以前、高峰秀子が書いていたのを読んだのだが、司馬が編集者を紹介してくれ、その編集者に対し「よろしくお願いします」とぺこんとお辞儀をしてくれたと、そこには記されていた。そのような面倒見の良さをあちこちで示していた様子がわかる。
「師に通じる 司馬遼太郎」 と題されている。
********以下、引用*******
《1979年から日本観光文化研究所の事務局長を務め、生計も少し楽になった。81年、所長の宮本常一が胃がんのため73歳で亡くなる》
葬儀の前に、作家の司馬遼太郎さんから電話がかかってきました。「司馬遼太郎で花を出してくれ。立て替える金はあるか」。宮本先生が研究所の事業のことで司馬さんに面会したとき、カバン持ちの私もついていったことがあり、面識はありました。
その後、司馬さんのお宅にお礼に伺いました。「これからどうするんだ」ときかれ、「先生もいなくなりましたし、田舎へ帰って神主をやろうと思います」と答えると、「本を1冊書きなさい」。与えられたテーマは、岡山の郷里の祭礼と暮らし。家に伝わる古文書と祖父から聞いた話、受け継がれている祭りのこと、題材はそれだけでいい、と言われました。
東京へ帰ったら、司馬さんの根回しで中公新書の編集者がすぐに来て、執筆に取りかかりました。
《83年に著書『吉備高原の神と人』が刊行された》
出版前に、司馬さんに原稿をすべて送っていました。司馬さんは「これでいい」と。できあがった本を持って司馬さんを訪ねると、司馬さんは本を脇に置いて語りました。「君の文章には音やにおいがない。読む人に情景を描いてもらうような文章を書くトレーニングをしろ」。宮本先生に叱られたときと同じで、活字になってから言われるのはこたえますね(笑)。
稚拙な文章でしたが、この本から、私が自立して書いていくことが始まりました。司馬さんには20冊書け、と言われました。これは、宮本先生が原稿を1万枚書いたら自分の文体ができるよ、と言っていたことと通じます。
司馬さんに次に与えられたテーマは、日本文化特有の「おじぎ」でした。書けないまま司馬さんは亡くなり、ようやく2016年に『「おじぎ」の日本文化』を書き、御霊前に報告することができました。
(聞き手・吉川一樹)
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神崎さんは、ぜいたくな方だ。ふたりの師匠をもち、ひとりは宮本常一、もうひとりは司馬遼太郎である。上記引用からみると、司馬さんは、卒論の指導教官のようにふるまった様子がわかる。出版まで、面倒を見ている。至れり尽くせりである。
神崎さんの著作『「おじぎ」の日本文化』を、当方ははじめて知った。ここのところずっと、戦争前の古い日本映画を見ていて、「おじぎ」が印象深く、きれいであると感じていた。読んでみたい。