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元横綱・佐田の山と栃木山、常陸山 [スポーツなぞ]

元横綱・佐田の山で、相撲協会の理事長もつとめた境川親方が亡くなった。

みじかい評伝が『日経新聞 5/2』に出ていた。「豪快・剛毅な努力家 協会改革、先見の明」 と見出しがついている。

当方は、境川親方の現役時代をまったく知らない。理事長となって境川を名乗る以前、出羽海親方であったことも知らなかった。

出羽海部屋といえば、「角聖」といわれる常陸山とたいへん深い関係にある。水戸の出である当方にとって、常陸山は(故人ではあるが)、同郷というだけでなく身体論への興味からも目を離すことのできない人物である。

出羽海部屋(でわのうみべや)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%87%BA%E7%BE%BD%E6%B5%B7%E9%83%A8%E5%B1%8B

その日経・記事に、次のようにあった。

長崎県の上五島高3年のときに出羽一門の巡業がやってきてスカウトされた。師匠は横綱常の花の出羽海親方。当時の出羽海部屋は横綱千代の山のほか関取衆が15人、力士総数80人の大部屋だった。三段目のときに、横綱栃錦を育てた横綱栃木山(春日野親方)に「おーい、佐々田(旧姓)、お前ね、足の親指が開いているから閉めて指に力を入れれば幕内以上になれるよ」とやさしくアドバイスされた。それがいつも励みになったという。

のちに横綱になることまで、その思いにあったかどうかは不明だが、「力士総数80人の大部屋」の中で「佐々田」に目を留め、しかも、目を留めた点が「足の親指」の開き具合とは、驚きである。

やはり、何事も目のつけどころというものがあるのだろう。「幕内以上」になるものは、ココ、力士の身体の部位でいうと、ソコ、という具合にである。

栃木山の師匠は常陸山であるが、栃木山の「やさしさ」は、(『ウィキペディア』にある)以下のことがらへの反動もあるのかもしれない。

(栃木山は)1911年2月場所に序ノ口で初土俵を踏むと負け知らずのまま番付を上げ、1913年5月場所の幕下まで21連勝を記録した。入幕までに喫した黒星は僅か3のスピード出世だったにも関わらず、栃木山の軽量さから師匠出羽ノ海(元横綱常陸山)からもほとんど顧みられず、幕下にあがったころ稽古場で「あの小さいの えらく強いが、あんなのうちの部屋にいたか?」と言われたという逸話がある。

栃木山 守也(とちぎやま もりや、1892年2月5日 - 1959年10月3日)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A0%83%E6%9C%A8%E5%B1%B1%E5%AE%88%E4%B9%9F#.E8.A6.AA.E6.96.B9.E3.83.BB.E6.99.A9.E5.B9.B4


もしかすると、栃木山は、佐々田(後の佐田の山)だけでなく、だれにでも同じようなことを言って励ましていたのかもしれない。

栃木山は、はやばや引退したように聞くが、引退した後、現役横綱もまじえてのトーナメント戦で優勝したこともあるというから、その強さたるやすさまじいものがあったように思う。ウィキペディアによると「引退からすでに6年を経過していたことから周囲の予想も高くはなかったが自慢の怪力と鋭い取り口は健在で、大関・玉錦三右衛門、関脇・天竜三郎ら現役三役を相次いで破って優勝」とある。

当方は、明治以降の横綱のなかで、最強は常陸山、次いで栃木山ではないかと思っている。

いつぞや読んだ、新聞記事のなかで、栃木山の強さの秘密として「呼吸」をあげていたように思う。それは、栃木山本人の弁ではなく、他の方(たぶん、桂川 質郎氏)の言葉だったように思うが・・・


常陸山 谷右エ門(ひたちやま たにえもん、1874年1月19日 - 1922年6月19日)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B8%B8%E9%99%B8%E5%B1%B1%E8%B0%B7%E5%8F%B3%E3%82%A8%E9%96%80

朝青龍には高嶺の花か・・:「角聖」常陸山
http://bookend.blog.so-net.ne.jp/2007-03-20

兄弟子、白鵬の強さの秘密について語る
http://bookend.blog.so-net.ne.jp/2015-03-25

横綱の品格―常陸山と大相撲の隆盛

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