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『エゴ・トンネル 心の科学と「わたし」という謎』養老孟司大先生御推薦 [本・書評]

毎日新聞・書評欄(8/16掲載)で、養老大先生が、熱心に本を勧めてフツウでない。

その本は、トーマス・メッツィンガー著(岩波書店)の『エゴ・トンネル』だ。


エゴ・トンネル――心の科学と「わたし」という謎

エゴ・トンネル――心の科学と「わたし」という謎

  • 作者: トーマス・メッツィンガー
  • 出版社/メーカー: 岩波書店
  • 発売日: 2015/06/13
  • メディア: 単行本



書評結論で、養老大先生は「意識の最大の不思議は、もちろん脳が自分のことに気付いているのはなぜか、ということである。ただそれを解かなくても、先に考えなければならない問題が山積している。そうした問題を全体として見渡すために、本書は非常に優れた総説となっている。脳科学は社会のあらゆる分野に関わっており、脳科学から全体を俯瞰する書物として、本書をお勧めしたい。大学その他で教科書として使用することも可能であろう。」と記している。


「私ごと」で恐縮だが、当方最近、ハンドルネームを変えた。「閑巨堂」から「環巨洞」とした。変えたところでドウってことないのだが、ドウも『堂』という字が、人工的で気にさわるようになったのである。それで、自然におのずから作り為された印象のある『洞』に替えた。『巨』もエラそうで気にいらないのだが、左右対称にちかく、簡単な文字というと『巨』くらいしかない。漢字から離れて虚数を指す『i(本当はイタリック体)』を用いようとしたが、ソレでは「キョ」と読んでもらえそうにないので断念した。『閑』を『環』に替えたのは、以前紹介した、坂口安吾にならって、未完成のままで終るかもしれないが、巨大な円(環)を画こうとする当方の姿勢をあらわそうとしたのである。意味するところは、「閑巨堂」と同じである。カラッポということ。自分など、実は、容器にすぎず、自分などというモノがアルように思っているだけ・・、肝心なのは、カラッポの器に何を入れるか、入れようとしているかなのだと思っている・・・

「閑居堂」あらため「閑巨堂」
http://bookend.blog.so-net.ne.jp/2013-04-23-1

坂口安吾 百歳の異端児
http://bookend.blog.so-net.ne.jp/2006-08-28

ソノヨウナ自己認識があるので、養老大先生の『エゴ・トンネル』の解説は、たいへんオモシロク思えた。当方の言葉でいうなら、エゴ・トンネルのトンネルは、『洞(窟)』に相当するように思ったのである。実際そうなのかどうかワカラナイが、大先生は次のように記す。

エゴ・トンネルとは奇妙な表現である。その意味は文字通りであって、自分は要するにトンネルみたいなものだ、と著者はいう。トンネルはさまざまなものが通行するかもしれないが、実体はない。空虚である。中が空でなければ、そもそもトンネルとして使えない。存在するのはなにかというなら、壁だけ。


養老先生の自伝風著作に『運のつき』がある。当方に言わせれば、いわばトンデモ本で、「近代的自我」として西洋近代思想が輸入されて後、知識人たちを悩ませてきた呪縛を振り払うダイナマイトが仕掛けられてあった。先生自身、たいへんウットウシク思ってこられたにちがいない。

「赤毛のアン」と「ロン毛のジン」に「運のつき」
http://bookend.blog.so-net.ne.jp/2010-10-13


運のつき 死からはじめる逆向き人生論

運のつき 死からはじめる逆向き人生論

  • 作者: 養老 孟司
  • 出版社/メーカー: マガジンハウス
  • 発売日: 2004/03/18
  • メディア: 単行本



書評冒頭で、先生は、昨今の若者による「自分探し」について言及している。そして、「西欧近代的自我」について、次のように記す。

一読して思う。欧米人もやっと仏教的な「無我」をまともに思考するようになったなあ、と。思えば明治以降、日本の知識階級は「西欧近代的自我」に翻弄されてきた。そんなものはもう忘れたほうがいい。肝心の本家がそんなものはない、という時代なのである。

また、当該書評中、「社会脳」という言葉を先生はもちだす。

だから脳機能でも「社会脳」が重視されるようになった。じつは近年の脳科学では、ヒトの脳のデフォルト設定は社会脳だとわかっている。(略)意識は自分で考えるか、相手をするか、どちらかに偏るしかないのだが、脳の初期設定は社会脳、つまり相手をするほうなのである。こちらの面についてはマシュー・リーバマン『21世紀の脳科学』(江口泰子訳、講談社)が本書の補強として参考になると思う。

養老大先生の脳科学への造詣はふかい。「正」が何で、「補」が何かも承知している。「バカの壁」など壁シリーズの著者でもある。自我の実体は、カラッポのトンネルであり。実体がアルように見せているのは「壁」・・・

当該書籍は、大先生の認識と合致していたということか。熱意あふれ、フツウでなくなるのは当然である。


文系の壁 (PHP新書)

文系の壁 (PHP新書)

  • 作者: 養老 孟司
  • 出版社/メーカー: PHP研究所
  • 発売日: 2015/06/16
  • メディア: 新書



「身体」を忘れた日本人 JAPANESE, AND THE LOSS OF PHYSICAL SENSES

「身体」を忘れた日本人 JAPANESE, AND THE LOSS OF PHYSICAL SENSES

  • 作者: 養老孟司
  • 出版社/メーカー: 山と渓谷社
  • 発売日: 2015/08/21
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)



(「つづく」部分に、書評全文引用)
今週の本棚:養老孟司・評 『エゴ・トンネル−心の科学と「わたし」という謎』=トーマス・メッツィンガー著
毎日新聞 2015年08月16日 東京朝刊

◇自己など存在しない、あるのは壁だけ

 自己とはなにか。現に世間で忙しく働いている人には、これは青臭い疑問であろう。このクソ忙しいのに、いまさらそんなこと、考えている暇はないわ。

 他方、若者は「自分探し」などという。「自分に合った仕事を探している」。バブル崩壊後の時期には、いわゆるフリーターがそう主張するのが常だった。いまは就職難ではないから、そんなことはいわなくなったかもしれない。

 エゴ・トンネルとは奇妙な表題である。その意味は文字通りであって、自分とは要するにトンネルみたいなものだ、と著者はいう。トンネルはさまざまなものが通行するかもしれないが、実体はない。空虚である。中が空でなければ、そもそもトンネルとして使えない。存在するのはなにかというなら、壁だけ。

 著者はドイツ系の哲学者で、神経科学、認知科学の専門家と組んで仕事をしている。欧米では近年こういう人が多い。日本でも若い世代にそういう人たちが出始めてきた。一読して思う。欧米人もやっと仏教的な「無我」をまともに思考するようになったなあ、と。思えば明治以降、日本の知識階級は「西欧近代的自我」に翻弄(ほんろう)されてきた。そんなものはもう忘れたほうがいい。肝心の本家がそんなものはない、という時代なのである。

 本書は三部に分けられている。第一部では、自己という概念だけに拘(かか)わらず、意識の周辺を巡りながら、世界認識に関わるいくつかの問題を概説する。世界はなぜ単一か、今とはなにか、現実とはなにか、等々。第二部では、近年の神経科学の発見を含めて、身体と心における自己を論じる。著者は体外離脱経験をするという。日本では臨死体験で幽体離脱などと呼ばれた現象である。約一割の人がこういう経験をするといわれる。おそらく睡眠と覚醒に関するスイッチのタイミングが普通の人と少し違うらしい。そういう体質もあって、著者は自己という主題に取り組んだのかもしれない。

 第三部は著者のような考え方をとった場合に、社会的な問題がどうなるかを論じる。実体としての自己などない。そういう結論をとると、キリスト教社会の場合、まず自由意志の存在が問題となる。それは刑法の基本的な考え方にも影響するはずである。

 さらに一般的には、どのような意識状態が「倫理的」であるか、それを考える必要が生じる。たとえば脳の働きに影響を与える薬物の使用は、どこまで許されるか。最近大会社の役員が薬物問題で辞職することになった。ではどの程度の薬なら使っていいのか。合法ドラッグを麻薬と同じと見なせば、禁止に決まっているという結論になる。しかし脳機能に影響する薬剤は麻薬に限らない。睡眠薬や鎮痛剤はどうか。将来にわたれば、おびただしい種類の中枢神経薬が今後作られるはずである。とくに集中力や思考力を高める「良い薬」なら、競争関係が厳しい職場では当然使われることになろう。オリンピックの筋力増強剤を考えたらわかる。会社で毎日、社員の尿検査でもするのか。どのような意識状態が「よいもの」であるか、われわれはそれを本気で考えなければならない社会に入りつつある。この面における著者の指摘は、社会の将来像を考える上で不可欠な視点である。

 哲学者というと、一般に顔をしかめて、机の前で独りで考える、というイメージが湧くかもしれない。その哲学が時代遅れのように感じられるのは、ネット社会の発達もある。独りで考えるというより、多くの人が共通の土俵の上で話し合うことができるようになったからである。だから脳機能でも「社会脳」が重視されるようになった。じつは近年の脳科学では、ヒトの脳のデフォルト設定は社会脳だとわかっている。赤ちゃんだってそうだが、まず母親の顔に反応するので、それ以前に「自分で考える」わけがないであろう。成人でも自分でものを考えるのと、目の前の人を相手にすることは、同時には行えない。「考えているんだから、ちょっと待ってくれ」と目の前の相手にいうしかない。意識は自分で考えるか、相手をするか、どちらかに偏るしかないのだが、脳の初期設定は社会脳、つまり相手をするほうなのである。こちらの面についてはマシュー・リーバーマン『21世紀の脳科学』(江口泰子訳、講談社)が本書の補強として参考になると思う。

 意識の最大の不思議は、もちろん脳が自分のことに気付いているのはなぜか、ということである。その問題はまだ解けていない。ただそれを解かなくても、先に考えなければならない問題が山積している。そうした問題を全体として見渡すために、本書は非常に優れた総説となっている。脳科学は社会のあらゆる分野に関わっており、脳科学から全体を俯瞰(ふかん)する書物として、本書をお勧めしたい。大学その他で教科書として使用することも十分に可能であろう。(原塑(はらさく)、鹿野祐介訳)

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