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「小説家 大岡昇平」菅野昭正著(書評 辻原登) [読んでみたい本]


小説家 大岡昇平 (単行本)

小説家 大岡昇平 (単行本)

  • 作者: 菅野 昭正
  • 出版社/メーカー: 筑摩書房
  • 発売日: 2014/12/09
  • メディア: 単行本



毎日新聞・書評欄「今週の本棚」に、菅野昭正著「小説家 大岡昇平」が紹介されている。

評しているのは 辻原登。

冒頭

敗戦から70年を経て、「戦後文学」と呼ばれる中で、大岡昇平はいま最も読まれるべき作家である。特に戦争との関わりにおいて、そして「文学とは何か」を考えるにおいて。

と、始まる。(以下、「つづく」部分に全文掲載)


象徴派に傾倒する小林秀雄や中原中也の衣鉢を受け継がず、周囲の者らが直行するなか、ひとりカニのように横行してスタンダールにならい、田舎の土蔵のナマコ壁の十文字のように隙間を埋めてはさらに分厚く塗り重ね、スタンダールもびっくりの写実実証の世界を戦後日本文学に持ち込んだ大岡昇平は、戦争文学の偉観となるレイテ戦記を著した。

うちにも全集がある。火鉢を机のわきにおいて執筆中の大岡の写真がある。寒い時期、手をあぶっては、作業をつづけたのであろう。執念だなあと思う。

・・・などと、いかにも読んだように書いているが、実は、読んでいない。冒頭を読み出して圧倒されただけ。作品の中身は冒頭ひと段落を読めばわかる。

筑摩書房の濃紺背革の全集(旧版)の厚さは、8センチくらいあるのではないか。別に、半畳ほどあるレイテ島の地図も付録になっている。それを見ながら読んでいくのだ。

司馬遼太郎の生前の談話を聞いたことがある。氏は、日露戦争の記録(軍編纂?)を、古書店で入手して読んだが、読むに値しなかったと言っていた。価値ナシの根拠も言ったように思う。たしか、自画自賛に終始するものだからと言っていたように思う。小説以上にロマンティックだったにちがいない。事実が土塁のように積み上げられた大岡の戦記とは違っていたのだろう。

大岡昇平の魅力は、そうした面だけではない。さらにある・・。

いずれにしろ、おもしろい文学は、おもしろい人間からしか出ない。


松岡正剛は大岡をどのように看做していたか
http://bookend.blog.so-net.ne.jp/2013-08-04


レイテ戦記 (上巻) (中公文庫)

レイテ戦記 (上巻) (中公文庫)

  • 作者: 大岡 昇平
  • 出版社/メーカー: 中央公論新社
  • 発売日: 1974/09/10
  • メディア: 文庫


◇対立する非情と心情の統一描く

 敗戦から七十年を経て、「戦後文学」と呼ばれる中で、大岡昇平はいま最も読まれるべき作家である。特に戦争との関わりにおいて、そして「文学とは何か」を考えるにおいて。

 このような観点から、本書は最も時宜を得た刊行と言える。かつ内容の深さと広がりにおいて、これまでの多くの大岡昇平論をはるかに凌駕(りょうが)する力のこもった一冊である。

 タイトルにある通り(大岡昇平にも『小説家 夏目漱石』がある)、小説家としての大岡昇平像が、概(おおむ)ねその小説作品を通して過不足なく造形されている。

 小説家大岡昇平の誕生はあの戦争(、、、、)にあった。まずそのことが、『俘虜記(ふりょき)』からはじまる作品のきわめて創造批評的な構造分析を通して鮮明に描かれる。その手練は、チボーデの『スタンダール』を髣髴(ほうふつ)させる。ちなみにチボーデの『スタンダール』は一九四一年、戦前に大岡昇平によってはじめて翻訳刊行されている。

 本書は、大岡昇平の多岐にわたる作品をほぼ時系列に従って取り上げ、論じるのだが、特徴は、全篇にわたって、ある対立するモチーフが貫かれ、それが結末に至って統一、融合してシンフォニーを奏でるところにある。

 二つのモチーフとは、次の大岡昇平の文から抽出される。

自分と同じ原因によって死ぬ人間に同情しないという非情を、私は前線から持って帰っている。(『俘虜記』最終章「帰還」)

七五ミリ野砲の砲声と三八銃の響きを再現したいと思っている。それが戦って死んだ者の霊を慰める唯一のものだと思っている。それが私に出来る唯一つのことだからである。(『レイテ戦記』「五 陸軍」)

 『俘虜記』は一九四八年、『レイテ戦記』は一九七一年に刊行された。二十数年の歳月の隔たりがある。著者は、前者から意志の真実(、、、、、)(非情)というモチーフを、後者から心情の真実(、、、、、)というモチーフを取り出し、大岡昇平がこの対立する二つのモチーフをどのように用い、いや小説家としてどのように生き、最後に統一に至るかを精細にたどるのである。

 具体的に、著者の論立てに従って、その流れを極度に単純化すると、『俘虜記』『野火』群から『花影』(一九六一)へ、『花影』から『レイテ戦記』(一九七一)へのヴェクトルを取り出すことができる。

 『花影』は、銀座の女給葉子が戦後の時代の波と男たちに翻弄(ほんろう)されたすえ、ついに滅んでゆく(自死)物語だが、著者は、この小説に大岡昇平の作家的野心、スタンダールふうの、あるいはバルザックふうの風俗小説をめざしつつ、永井荷風の花柳小説『腕くらべ』をレースの裏地として重ねるという企てを探り当ててみせ、余りにも有名な条(くだ)りを引用する。

(……)花の下に立って見上げると、空の青が透いて見えるような薄い脆(もろ)い花弁である。日は高く、風は暖かく、地上に花の影が重なって、揺れていた。もし葉子が徒花(あだばな)なら、花そのものでないまでも、花影を踏めば満足だと、松崎はその空虚な坂道をながめながら考えた。

 著者は、葉子のこの「不幸」に、中原中也の「不幸」を重ね、大岡昇平が、抑圧されていた心情の真実(、、、、、)を解放し、ついに『レイテ戦記』において、意志の真実(、、、、、)と合体、統一に至る軌跡を見事に描いてみせるのだ。

 「戦後文学」の勝利を鮮やかに宣言する書である。

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