本日「テロリスト三島由紀夫」誕生・・ [歴史雑感なぞ]
三島由紀夫が生きていれば、本日(1・14)で90歳になる。
パリ新聞社襲撃テロ事件のあとを受けてのブログ更新である。三島とからめて何を記そうかと考えた。
それで、三島事件はテロだったのか確認したところ、ウィキペディアではテロ事件として扱われている。ということは、三島由紀夫はテロリストということになる。それで、タイトルに「テロリスト三島由紀夫」としたのだが、どうも落ち着きがわるい。
落ち着きがワルイのは、「テロリスト」の枠からはみ出るところが多すぎるので、要するに「ククリが小さい」からなのだろうと思う。
自宅の庭に、ギリシャ彫刻のアポロン像を配置して日ごと眺めていた三島にとって、老いた自分の姿は想像上の禁忌とされていたにちがいない。それでも時間が経過すれば、彫像が劣化するように、いや応なく人は老いる。
三島が自決したのは、45歳のときだから、男の更年期や老化のはじまりの時期である。いろいろその動機やら思想やら取りざたされるが、はっきり言って、生きているのが「イヤになった」ということでは・・と思う。
・・と、書いても、三島がノーベル賞級の作家であったことをふくめ、三島を知らない人は、「ソウナンジャナイノ」とあっさり同意されるかもしれない。
物事を高く遠く上方から俯瞰すると、みんなマルゴトかんたんに収まる。単純にククルことができる。複雑な様相を示すモノも、腑に落ちるものとなる。もっとも、グーグールマップの画像を見るときに、高高度からの遠望しすぎた地図でも用をなさないし、逆に地面に近すぎても用をなさない。どの程度の距離から遠望したものか、どの程度の縮尺の地図を利用するか、利用目的が判然としていないと、グーグルも宝の持ち腐れとなる。
人間の知力と視力とは同一の比喩、象徴で扱われることがある。聖書では、知恵の象徴はワシである。視力がよく高みから遠望して獲物をとらえる能力と関係しているらしい。しかし、いくらワシが遠くから獲物を視認できても、実際に獲物をとらえられなければ、その視力は宝の持ち腐れである。
三島由紀夫の評論を読むと遠望がきくだけでなく、調整機能のよさも感じる。おおきくククルこともできるし、絡み合う複雑な部位をとらえていくこともできる。とらえられた獲物から、そのことはわかる。
今、野坂昭如が老いぼれGさんになっても健筆をふるい、連載をこなしている。年を取るのは無駄ではナイと感じさせるウレシイ内容だ。その野坂が、三島と論争して完敗し、ヤケになって、学生とけんかして、指の骨を折った・・と、どこかで書いていたように思う。
三島は、どちらかというと小説家であるより(本人はそのように評価されるのを嫌っていたらしいが)論客であったように思う。
いろいろ見えすぎるというのはクセモノで、「幸福の王子」が身を滅ぼしたように、三島も、それでテロに走ったのかもしれない。
三島が、生きていて、今の世界をひと言で評してくださいと言われたならなんと言うだろうか。
『市民ケーン』の謎の言葉「バラのつぼみ」のように、「緑色の蛇」と言うだろうか。
パリ新聞社襲撃テロ事件のあとを受けてのブログ更新である。三島とからめて何を記そうかと考えた。
それで、三島事件はテロだったのか確認したところ、ウィキペディアではテロ事件として扱われている。ということは、三島由紀夫はテロリストということになる。それで、タイトルに「テロリスト三島由紀夫」としたのだが、どうも落ち着きがわるい。
落ち着きがワルイのは、「テロリスト」の枠からはみ出るところが多すぎるので、要するに「ククリが小さい」からなのだろうと思う。
自宅の庭に、ギリシャ彫刻のアポロン像を配置して日ごと眺めていた三島にとって、老いた自分の姿は想像上の禁忌とされていたにちがいない。それでも時間が経過すれば、彫像が劣化するように、いや応なく人は老いる。
三島が自決したのは、45歳のときだから、男の更年期や老化のはじまりの時期である。いろいろその動機やら思想やら取りざたされるが、はっきり言って、生きているのが「イヤになった」ということでは・・と思う。
・・と、書いても、三島がノーベル賞級の作家であったことをふくめ、三島を知らない人は、「ソウナンジャナイノ」とあっさり同意されるかもしれない。
物事を高く遠く上方から俯瞰すると、みんなマルゴトかんたんに収まる。単純にククルことができる。複雑な様相を示すモノも、腑に落ちるものとなる。もっとも、グーグールマップの画像を見るときに、高高度からの遠望しすぎた地図でも用をなさないし、逆に地面に近すぎても用をなさない。どの程度の距離から遠望したものか、どの程度の縮尺の地図を利用するか、利用目的が判然としていないと、グーグルも宝の持ち腐れとなる。
人間の知力と視力とは同一の比喩、象徴で扱われることがある。聖書では、知恵の象徴はワシである。視力がよく高みから遠望して獲物をとらえる能力と関係しているらしい。しかし、いくらワシが遠くから獲物を視認できても、実際に獲物をとらえられなければ、その視力は宝の持ち腐れである。
三島由紀夫の評論を読むと遠望がきくだけでなく、調整機能のよさも感じる。おおきくククルこともできるし、絡み合う複雑な部位をとらえていくこともできる。とらえられた獲物から、そのことはわかる。
今、野坂昭如が老いぼれGさんになっても健筆をふるい、連載をこなしている。年を取るのは無駄ではナイと感じさせるウレシイ内容だ。その野坂が、三島と論争して完敗し、ヤケになって、学生とけんかして、指の骨を折った・・と、どこかで書いていたように思う。
三島は、どちらかというと小説家であるより(本人はそのように評価されるのを嫌っていたらしいが)論客であったように思う。
いろいろ見えすぎるというのはクセモノで、「幸福の王子」が身を滅ぼしたように、三島も、それでテロに走ったのかもしれない。
三島が、生きていて、今の世界をひと言で評してくださいと言われたならなんと言うだろうか。
『市民ケーン』の謎の言葉「バラのつぼみ」のように、「緑色の蛇」と言うだろうか。