戦後を支配したのは「蝉の声」? [ニュース・世相]
いよいよますますその数が少なくなっているが・・・、
昭和20年、敗戦の夏を経験した年齢の方にお会いしたときには、
蝉の声が印象的だったかどうか尋ねてみようと思う。
中津燎子と三島由紀夫は、大正14年生まれで、終戦を20歳で迎えているが、
中津燎子著『声を限りに蝉が哭く』の同名の章の冒頭と三島由紀夫の『豊饒の海』の最終部の印象はたいへん似ている。
そこでは、蝉の声が、空間を占領し、支配する唯一の音として挙げられている。しかも、中津にいたっては、それがずっと後になってもしっこく耳に残って感情を高ぶらせるものとして記されている。
戦争経験者の方々の耳に残る蝉の声が、よくもわるくも戦後社会に多大な影響をおよぼしてきた・・
2作品を読みながら、そう思えてならない。
***********
《まったくよく哭く蝉だった。
ふと気がつくと全身を蝉の声が覆いつくしてそれ以外の音などさっぱり聞こえなかったような気がする。夏の蝉の声が秋も冬も、そして春も耳の底で「じい・・じい・・じい・・」と哭きつづけるのだ。
私の戦争の記憶のほとんどは、蝉の声に占領されっぱなしだった。どこの、何という蝉なのか、わかるはずはなかったが、その「じい・・じい・・」という奇妙に底力のある威張りくさった響きは空腹の切なさに拍車をかけて、私の飢餓感は倍増した。
今、七十余年以上の月日を経て冷静にそのころのことを思い出してみようとするが、耳の底に冷たく残る響きが強すぎて、いつのまにか戦時中のころと同じく歯を噛みしめ、体じゅうが怒りのかたまりに変わってゆくのが止められないのである。》
『声を限りに蝉が哭く』第10章冒頭
***********
《これと云って奇巧のない、閑雅な、明るくひらいた御庭である。数珠を繰るような蝉の聲がここを領してゐる。
そのほかには何一つ音とてなく、寂漠を極めてゐる。この庭には何もない。記憶もなければ何もないところへ、自分は来てしまったと本多は思った。
庭は夏の日ざかりの日を浴びてしんとしてゐる。・・・・》
昭和20年、敗戦の夏を経験した年齢の方にお会いしたときには、
蝉の声が印象的だったかどうか尋ねてみようと思う。
中津燎子と三島由紀夫は、大正14年生まれで、終戦を20歳で迎えているが、
中津燎子著『声を限りに蝉が哭く』の同名の章の冒頭と三島由紀夫の『豊饒の海』の最終部の印象はたいへん似ている。
そこでは、蝉の声が、空間を占領し、支配する唯一の音として挙げられている。しかも、中津にいたっては、それがずっと後になってもしっこく耳に残って感情を高ぶらせるものとして記されている。
戦争経験者の方々の耳に残る蝉の声が、よくもわるくも戦後社会に多大な影響をおよぼしてきた・・
2作品を読みながら、そう思えてならない。
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《まったくよく哭く蝉だった。
ふと気がつくと全身を蝉の声が覆いつくしてそれ以外の音などさっぱり聞こえなかったような気がする。夏の蝉の声が秋も冬も、そして春も耳の底で「じい・・じい・・じい・・」と哭きつづけるのだ。
私の戦争の記憶のほとんどは、蝉の声に占領されっぱなしだった。どこの、何という蝉なのか、わかるはずはなかったが、その「じい・・じい・・」という奇妙に底力のある威張りくさった響きは空腹の切なさに拍車をかけて、私の飢餓感は倍増した。
今、七十余年以上の月日を経て冷静にそのころのことを思い出してみようとするが、耳の底に冷たく残る響きが強すぎて、いつのまにか戦時中のころと同じく歯を噛みしめ、体じゅうが怒りのかたまりに変わってゆくのが止められないのである。》
『声を限りに蝉が哭く』第10章冒頭
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《これと云って奇巧のない、閑雅な、明るくひらいた御庭である。数珠を繰るような蝉の聲がここを領してゐる。
そのほかには何一つ音とてなく、寂漠を極めてゐる。この庭には何もない。記憶もなければ何もないところへ、自分は来てしまったと本多は思った。
庭は夏の日ざかりの日を浴びてしんとしてゐる。・・・・》