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「暁の寺」(三島由紀夫著)読了 [本・書評]

「暁の寺」を読了した。

全体が2部に分かれて、飯沼勲の転生である(と、思われる)月光姫:ジン・ジャンと本多との関係が小説のなかで主たる役割を果たすのだが、たいへん観念的である。

三島ならではの比喩が、観念的なものを具象化させるのではなく、打ち上げ花火のように一見絢爛ではあるが、観念性をさらに増し加える感があり、読むのが面倒臭くなる。

特に1部では、インドのベナレス、アジャンタ石窟を旅するなかで、唯識論をめぐる本多の思索が呈示される。

小説の印象としては、司馬遼太郎の『空海の風景』を思い浮かばせるが・・、司馬の筆が、専門家の意見など引き合いに出しながら、弘法大師空海のすがたを造形していくのに対し、三島の筆は、どこまでも、虚空をさまよう風なのである。司馬が、「以下、余談だが」と述べて、参考として論議するところが、「暁の寺」第1部では、ストーリーをはずれて延々つづく感がある。

司馬には、空海という実在する人物がいたが、三島には、造形する人物はおらず、ただ、唯識「論」がある“だけ”なのだから、心もとない筆の進め方になるのは当然なのかもしらないが・・・

当方は、唯識にも興味があるので、何かの参考書を見ながら、もう一度検討したい思いがある。ブックレビューを見ると、小室直樹著「三島由紀夫が復活する」は、唯識論を小室が踏み込んで説いてもいるようなので、ソレを参考にするとイイのかもしれない。

いずれにしろ、“三島由紀夫の”唯識理解と、実際のソレとの差異を検討したい感じが、読んでいてつきまとった。なぜなら、(三島の代弁者としての)本多が、作中、転生についての証拠(狂人扱いされている7歳のジン・ジャンに飯沼勲の人格が現れ、生前の恩義を本多に感謝するなど)を実際に見ていながら、転生を確信していない雰囲気が、作品中、常に揺曳しているからである。

三島自身書きながら、転生について、今日の多くの人と同じく、信じ難く思えたことが、その迷いの根底にあるように思う。というより、一般に判断の基準とされる個人の総体的な経験や記憶に対してすら懐疑的にならざるをえない本多を示すことで、認識・判断基準としての経験・記憶の総体というモノの不確かさ曖昧さを三島は示そうとしたのかもしらない。

そのことは、ジン・ジャンが、成長して(正気を取り戻すとともに)前世の記憶を喪失しているという設定からも推し量れるようにも思う。

認識する者としての本多は、転生の圧倒的証拠をつかもうとする。その証拠とは、御曹司にも、飯沼勲にもあった脇腹の三つのホクロである。本多は、今や成長し、留学生として日本にやってきたジン・ジャンの裸を見ようと試みる。ホクロを確認するためである。本多にとっての認識の最後の決め手は自分の視覚である。眼前にある動かぬ事実である。

そのことは、富士の見える別荘にプールをつくり、ジン・ジャンを招き入れ、寝室には覗き窓をつくり、ジン・ジャンの裸(脇腹のホクロ)を「見る」ことに執着した本多の様子からもわかる。その結果、思いがけない展開で、ホクロが確認される。

最終場面は、別荘が火事となり、来客ふたりが焼死する。そこで、本多は、ベナレス旅行で見たガンジス河畔での火葬のようすを思い起こす。(『金閣寺』の最後と重なる印象がある)。

その後、本多は、タイに帰国したジン・ジャンが、コブラに腿を噛まれて20歳で死んだことを伝え聞く。


さて、最終巻の『天人五衰』はどのような展開になるのやら・・


暁の寺―豊饒の海・第三巻 (新潮文庫)

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金閣寺 (新潮文庫)

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