「八犬伝」に理想社会を見たのは馬琴の幻術によるものか・・ [本・書評]
この暑い時期、せんかくの角道がふさがれて王手飛車取りになっただの、たけしま桟橋が韓国の船着き場になって危なくて舟に乗れないだの、あたらしいヘリコプターが飛んでもないシロモノでいつ落ちるかわからないのがぜったい落ちないふれこみで沖縄に行くだの、民主党の代表選でまたノダ打ちまわるだの、控訴審で小沢があふれてみんな流されそうだの、みんな幻に思えるのはこれ馬琴のせいである。
「南総里見八犬伝」をここのところづっと読み続けて、いま(岩波書店・小池藤五郎校訂版)十巻中七巻まできた。我ながらよく読んだものだとあきれるほどである。ほんとは他に平行して読むべきものがたくさんあるのだが、八犬士の物語が当方を離してくれないのである。
これまで読んできて感じるのは、なんという天才的なウソツキであることかという馬琴への思いである。あちらの話がこちらと出会い、こちらの話はまた次の物語へとつじつまをキチンとつけていく。数多い登場人物たちの因縁ばなしは他のひとの因縁とむすびついていく。偶然の出会いも絵そらごととしてではなくシンクロニシティーの現れのように感じられる。
河合隼雄だったか、モーツアルトが交響曲を書くときは、一瞬にしてその全体像を把握し、ソレをただ譜面に書き連ねていっただけではなかったか・・というようなことをどこかで書いていたように思うが、どうも馬琴という天才もそういうようにして創作していったのではないかなどとという思いをもってしまう。
舞台背景は、戦国時代、応仁の乱のころである。司馬遼太郎は、ソレを、自然発生的な革命であるかのように「雑談・昭和への道」で述べているが、馬琴がそのころを、物語の舞台として選んだことは、封建制度の身分社会であった当時(江戸徳川の治世)の閉塞感を打破しようとする物語による革命的な営為であったのではないかと、今、感じている。また、それはとりもなおさず、現在の未曽有の日本の変革の時期を先取りするものではないかとさえ思ってしまう。
八犬伝のなかでは、人間・伏姫と犬・八房の不相応な結婚が、示され、その不相応な結婚は父親のたわむれに発した言葉に起因するのだが、それでも、父への敬愛から、伏姫は父の言葉に甘んじる。伏姫の困惑、そして自害・・、そうしたことどもは、当時の身分制度のもたらした困惑であったろうし、そうしたことを記しつつ、馬琴はその不合理を見抜きまた喝破ししていたように思える。また、タヌキが化け狐が化けて人と化して話したりするのも、四民平等ならぬ、あらゆる生きとし生けるものへの(ハヤリの言葉で言うなら)尊厳を示し、今日の生態系の保全をさえも先取しているのではないかと思えてしまう。
この物語のなかでは、理想の主(あるじ)として里見氏が示され、里見の城下が理想的な支配を受ける土地として示され、その主を支える義士として、伏姫ゆかりの子供たちである八犬士が活躍する。その犬士たちに、血縁はない。彼らはいわゆる伏姫を霊的な母とする義兄弟である。「仁義礼智忠信孝悌」の精神を尊ぶゆえに彼らはツナガっている。今、人と人とのつながりに関してムズカシサを覚えるおおかたの原因は、心のつながりではなく、ただ食べるため、ただ住むためのツナガリを守ろうとして自分に無理を強いるところから生じているのではないだろうかと当方は感じもするのだが・・・、八犬伝にどっぷり浸っていくと、騎士物語にどっぷり浸ったドンキホーテのように、どこかに自分と同じゆかりのある霊的な兄弟がいてその者たちをこそ尊ぶべきであり、そのような義兄弟のためにこそ命を捨てて働くべきではないかなどという想念にとりつかれる思いがするのである。
だいぶ舌足らずの論議で、この長大な物語について語るにはどうやっても舌足らずになりそうではあるのだが、それでも、とりあえずお伝えしたいと思えることを少し披露させていただいた。
未読の方はぜひ読んでみてください。日本の古典として『源氏物語』を読むおつもりであれば、当方はこちらの方をこそお勧めしたい。
「南総里見八犬伝」をここのところづっと読み続けて、いま(岩波書店・小池藤五郎校訂版)十巻中七巻まできた。我ながらよく読んだものだとあきれるほどである。ほんとは他に平行して読むべきものがたくさんあるのだが、八犬士の物語が当方を離してくれないのである。
これまで読んできて感じるのは、なんという天才的なウソツキであることかという馬琴への思いである。あちらの話がこちらと出会い、こちらの話はまた次の物語へとつじつまをキチンとつけていく。数多い登場人物たちの因縁ばなしは他のひとの因縁とむすびついていく。偶然の出会いも絵そらごととしてではなくシンクロニシティーの現れのように感じられる。
河合隼雄だったか、モーツアルトが交響曲を書くときは、一瞬にしてその全体像を把握し、ソレをただ譜面に書き連ねていっただけではなかったか・・というようなことをどこかで書いていたように思うが、どうも馬琴という天才もそういうようにして創作していったのではないかなどとという思いをもってしまう。
舞台背景は、戦国時代、応仁の乱のころである。司馬遼太郎は、ソレを、自然発生的な革命であるかのように「雑談・昭和への道」で述べているが、馬琴がそのころを、物語の舞台として選んだことは、封建制度の身分社会であった当時(江戸徳川の治世)の閉塞感を打破しようとする物語による革命的な営為であったのではないかと、今、感じている。また、それはとりもなおさず、現在の未曽有の日本の変革の時期を先取りするものではないかとさえ思ってしまう。
八犬伝のなかでは、人間・伏姫と犬・八房の不相応な結婚が、示され、その不相応な結婚は父親のたわむれに発した言葉に起因するのだが、それでも、父への敬愛から、伏姫は父の言葉に甘んじる。伏姫の困惑、そして自害・・、そうしたことどもは、当時の身分制度のもたらした困惑であったろうし、そうしたことを記しつつ、馬琴はその不合理を見抜きまた喝破ししていたように思える。また、タヌキが化け狐が化けて人と化して話したりするのも、四民平等ならぬ、あらゆる生きとし生けるものへの(ハヤリの言葉で言うなら)尊厳を示し、今日の生態系の保全をさえも先取しているのではないかと思えてしまう。
この物語のなかでは、理想の主(あるじ)として里見氏が示され、里見の城下が理想的な支配を受ける土地として示され、その主を支える義士として、伏姫ゆかりの子供たちである八犬士が活躍する。その犬士たちに、血縁はない。彼らはいわゆる伏姫を霊的な母とする義兄弟である。「仁義礼智忠信孝悌」の精神を尊ぶゆえに彼らはツナガっている。今、人と人とのつながりに関してムズカシサを覚えるおおかたの原因は、心のつながりではなく、ただ食べるため、ただ住むためのツナガリを守ろうとして自分に無理を強いるところから生じているのではないだろうかと当方は感じもするのだが・・・、八犬伝にどっぷり浸っていくと、騎士物語にどっぷり浸ったドンキホーテのように、どこかに自分と同じゆかりのある霊的な兄弟がいてその者たちをこそ尊ぶべきであり、そのような義兄弟のためにこそ命を捨てて働くべきではないかなどという想念にとりつかれる思いがするのである。
だいぶ舌足らずの論議で、この長大な物語について語るにはどうやっても舌足らずになりそうではあるのだが、それでも、とりあえずお伝えしたいと思えることを少し披露させていただいた。
未読の方はぜひ読んでみてください。日本の古典として『源氏物語』を読むおつもりであれば、当方はこちらの方をこそお勧めしたい。