「当マイクロフォン」中西龍さんのこと [アート・美術関連]
その語り口が「名調子である・あった」ということで思い浮かぶひとりに中西龍さんがいる。
「歌に思い出が寄り添い、思い出に歌は語り掛け、そのようにして歳月は静かに流れていきます」で始まる『にっぽんのメロディー』での名調子と自分のことを「当マイクロフォン」と呼んで情感豊かにしみじみと語るその語り口をなつかしく記憶しておられる方も多いことと思う。
その中西さんが亡くなって13年経つのだという。
本日(12・23)の「日本経済新聞」(文化欄)に『語り職人あふれる人間味』と題して、(「伝説のNHKアナと親交を結び」その「生涯を小説に」書いた)三田寛(みた・かん)さんが寄稿している。
もちろん、「伝説のNHKアナ」とは中西龍さんのことだ。
すこし抜粋してみる。
「中西さんはいつも自分でナレーションの原稿を書いて」「放送作家やディレクターにまかせ」なかったそうなのだが、そのナレーションに表れたしみじみとした情感は、やはり中西さんの人柄から発せられたものであることを思い知らされるエピソードだ。
こう、ある。
「中西さんは実生活でも情が深く、涙もろかった。5歳で母を亡くしており、母恋の感情が強く、子どものころの話をするとすぐに泣き出してしまう。電話越しに私の子どもの声を聞いて泣いてしまったこともあるくらいだ。」
その反面、「よくNHKアナウンサーがツトマッタナ・・」と思う「破天荒」なエピソードも示されている。
そもそも、中西さんが放送の世界に入ったのは「若いころ、ラジオで徳川夢声さんの語りを聞き込み、言葉の切り方など大きな影響を受けた」り「森繁久弥さんのセリフ回しあこがれ」たりしたことによるらしい。
実際、中西さんの語りは、「アナウンスの王道から見れば異端」であるそうな。「句読点の位置とは関係なく言葉を切り、強調したい言葉の前で微妙にためる」などしていたという。しかし、そうした流儀が、「日本のメロディー」で紹介される楽曲を「いつもと違っ」たモノとして聞かせてくれたのだという。
「まさに話芸と呼ぶにふさわしかった」と三田さんは書く。
三田さんは、中西さんのナレーションがCDとなったことを紹介している。
中西龍の伝記小説「当マイクロフォン」とともにあじわうと、今や絶滅危惧種となった日本人の原型をなつかしく想起できるように思う。
「歌に思い出が寄り添い、思い出に歌は語り掛け、そのようにして歳月は静かに流れていきます」で始まる『にっぽんのメロディー』での名調子と自分のことを「当マイクロフォン」と呼んで情感豊かにしみじみと語るその語り口をなつかしく記憶しておられる方も多いことと思う。
その中西さんが亡くなって13年経つのだという。
本日(12・23)の「日本経済新聞」(文化欄)に『語り職人あふれる人間味』と題して、(「伝説のNHKアナと親交を結び」その「生涯を小説に」書いた)三田寛(みた・かん)さんが寄稿している。
もちろん、「伝説のNHKアナ」とは中西龍さんのことだ。
すこし抜粋してみる。
「中西さんはいつも自分でナレーションの原稿を書いて」「放送作家やディレクターにまかせ」なかったそうなのだが、そのナレーションに表れたしみじみとした情感は、やはり中西さんの人柄から発せられたものであることを思い知らされるエピソードだ。
こう、ある。
「中西さんは実生活でも情が深く、涙もろかった。5歳で母を亡くしており、母恋の感情が強く、子どものころの話をするとすぐに泣き出してしまう。電話越しに私の子どもの声を聞いて泣いてしまったこともあるくらいだ。」
その反面、「よくNHKアナウンサーがツトマッタナ・・」と思う「破天荒」なエピソードも示されている。
そもそも、中西さんが放送の世界に入ったのは「若いころ、ラジオで徳川夢声さんの語りを聞き込み、言葉の切り方など大きな影響を受けた」り「森繁久弥さんのセリフ回しあこがれ」たりしたことによるらしい。
実際、中西さんの語りは、「アナウンスの王道から見れば異端」であるそうな。「句読点の位置とは関係なく言葉を切り、強調したい言葉の前で微妙にためる」などしていたという。しかし、そうした流儀が、「日本のメロディー」で紹介される楽曲を「いつもと違っ」たモノとして聞かせてくれたのだという。
「まさに話芸と呼ぶにふさわしかった」と三田さんは書く。
三田さんは、中西さんのナレーションがCDとなったことを紹介している。
中西龍の伝記小説「当マイクロフォン」とともにあじわうと、今や絶滅危惧種となった日本人の原型をなつかしく想起できるように思う。