『坂の上の雲』 初回を見て:白カッパと黒カッパ [ドラマ]
坂の上の雲の初回放送を見た。
テレビ・ドラマとしてはたいへんモッタイナイ気がした。
これはほめ言葉である。「よくできている」ということだ。映像の美しさといい脚本といい出演者といい・・・カネも相当にかかっているだろうが、よくここまでのモノができるようになったものだと感心した。
初回を見て、「馬鹿はバカにしてもいいが、貧乏人はバカにするな」という言葉を思いだしていた。
明治期、貧乏三等国の貧しい青年達には欧米に比肩する国家をつくるという青雲の志があった。いのちを熱く燃やすものがあるというのはけっこうなことといえる。坂の上の雲は、当時の青年達にとってとおくはるかに白く輝いていたのであろう・・・。
話は変わる。
司馬さんの小説を当方一冊も読了していない。『空海の風景』は感心しつつ上下巻読んだが、あれは果たして小説の範疇に入るのだろうか・・。もっぱら評論やエッセイを読んでこれまで司馬さんに好感をもってきた。坂本竜馬は歴史上たいへん好きな男なので、『竜馬が行く』にかつて挑戦したがはやばやと脱落した。どうも司馬さんの小説とは肌が合わないらしい。
今年は、松本清張生誕100年ということで、NHK教育の「知る楽」(こだわり人物伝)で、清張がとりあげられた。
当方、清張作品を読んでいない。一冊も、である。それでも、「知る楽」のなかで辻井喬さんら数人の方の熱い清張評を聞いて、司馬さんよりあるいは清張さんの方が作家として大きな存在だったのではなかろうかと今感じている。
司馬さんにも清張さんにも親しく接した文芸春秋の編集者に言わせると「白カッパ」と「黒カッパ」ということになるのだが、学生時分、当方の眼中には「白」も「黒」も入らなかった。当方、純文学指向で、大衆小説はハナからばかにしてかかっていた。同級の連中が、沖田ソウシがどうのと司馬作品を読んで熱弁をふるっているのをアホかいなと見ていた。
要するに生意気であったのだ。そのころ、しきりに読んでいたのは三島であり太宰であったのだが、「知る楽」をとおして、三島が清張作品を「文学」と見做していない風であったということも知った。同じ全集に名を列せられるのを嫌い、結果としては清張作品を全集から追い落としたという。そこまで嫌われるならたいしたものである。それだけでも、清張は注目するに値するように思う。
清張は、社会派推理というジャンルの創始者であると聞く。昨今のストーリー性の高い、謎解き中心の推理小説ではなく、作品が発表されるソノ当時の社会とまともに格闘して社会の構造やら矛盾やらを暴きだしたと聞く。水上勉がその後継者のようになりそうであったのだが私小説的な作風に変じてしまい。後継者を逸したという話も・・。
大学を出ていないことで苦労し、学歴コンプレックスの塊のようであったこと。善悪で人間を単純に分けることなく、苦労人ならではの目線から、多面的で矛盾に満ちた人間をそのままに白昼にさらすこともできたと聞く。
白カッパと黒カッパということだが、ちょっと古い比較なら三波春夫と村田英雄、もちょっと最近なら長嶋とノムさんの違いに比せられるような気もする。
ドラマのはなしに戻る。
坂の上、高くはるかにあかるく輝く雲をめざして駆けていく青年達。うつくしい姿だが、なにか単純に過ぎるように感じもしないではない・・・。熱く燃やすモノを間違えるなら悲劇ともなりうる・・。
と、書きながら思うに、どうも自分は白カッパではなく黒カッパ派のようである。明るく単純明快に見えることほど、どうもそれだけではウソくさく胡散臭く感じてしまうようである。
実際、お会いしたなら司馬さんの方が一緒にいてはるかに楽のように思うが、人間的な深みでいくと清張さんの方があるいは上かもしれない。
もしかして、ことによると、当方にとって清張作品は、純文学指向を脱して、大衆小説に向かうイイ契機となるのかもしれない。
テレビ・ドラマとしてはたいへんモッタイナイ気がした。
これはほめ言葉である。「よくできている」ということだ。映像の美しさといい脚本といい出演者といい・・・カネも相当にかかっているだろうが、よくここまでのモノができるようになったものだと感心した。
初回を見て、「馬鹿はバカにしてもいいが、貧乏人はバカにするな」という言葉を思いだしていた。
明治期、貧乏三等国の貧しい青年達には欧米に比肩する国家をつくるという青雲の志があった。いのちを熱く燃やすものがあるというのはけっこうなことといえる。坂の上の雲は、当時の青年達にとってとおくはるかに白く輝いていたのであろう・・・。
話は変わる。
司馬さんの小説を当方一冊も読了していない。『空海の風景』は感心しつつ上下巻読んだが、あれは果たして小説の範疇に入るのだろうか・・。もっぱら評論やエッセイを読んでこれまで司馬さんに好感をもってきた。坂本竜馬は歴史上たいへん好きな男なので、『竜馬が行く』にかつて挑戦したがはやばやと脱落した。どうも司馬さんの小説とは肌が合わないらしい。
今年は、松本清張生誕100年ということで、NHK教育の「知る楽」(こだわり人物伝)で、清張がとりあげられた。
当方、清張作品を読んでいない。一冊も、である。それでも、「知る楽」のなかで辻井喬さんら数人の方の熱い清張評を聞いて、司馬さんよりあるいは清張さんの方が作家として大きな存在だったのではなかろうかと今感じている。
司馬さんにも清張さんにも親しく接した文芸春秋の編集者に言わせると「白カッパ」と「黒カッパ」ということになるのだが、学生時分、当方の眼中には「白」も「黒」も入らなかった。当方、純文学指向で、大衆小説はハナからばかにしてかかっていた。同級の連中が、沖田ソウシがどうのと司馬作品を読んで熱弁をふるっているのをアホかいなと見ていた。
要するに生意気であったのだ。そのころ、しきりに読んでいたのは三島であり太宰であったのだが、「知る楽」をとおして、三島が清張作品を「文学」と見做していない風であったということも知った。同じ全集に名を列せられるのを嫌い、結果としては清張作品を全集から追い落としたという。そこまで嫌われるならたいしたものである。それだけでも、清張は注目するに値するように思う。
清張は、社会派推理というジャンルの創始者であると聞く。昨今のストーリー性の高い、謎解き中心の推理小説ではなく、作品が発表されるソノ当時の社会とまともに格闘して社会の構造やら矛盾やらを暴きだしたと聞く。水上勉がその後継者のようになりそうであったのだが私小説的な作風に変じてしまい。後継者を逸したという話も・・。
大学を出ていないことで苦労し、学歴コンプレックスの塊のようであったこと。善悪で人間を単純に分けることなく、苦労人ならではの目線から、多面的で矛盾に満ちた人間をそのままに白昼にさらすこともできたと聞く。
白カッパと黒カッパということだが、ちょっと古い比較なら三波春夫と村田英雄、もちょっと最近なら長嶋とノムさんの違いに比せられるような気もする。
ドラマのはなしに戻る。
坂の上、高くはるかにあかるく輝く雲をめざして駆けていく青年達。うつくしい姿だが、なにか単純に過ぎるように感じもしないではない・・・。熱く燃やすモノを間違えるなら悲劇ともなりうる・・。
と、書きながら思うに、どうも自分は白カッパではなく黒カッパ派のようである。明るく単純明快に見えることほど、どうもそれだけではウソくさく胡散臭く感じてしまうようである。
実際、お会いしたなら司馬さんの方が一緒にいてはるかに楽のように思うが、人間的な深みでいくと清張さんの方があるいは上かもしれない。
もしかして、ことによると、当方にとって清張作品は、純文学指向を脱して、大衆小説に向かうイイ契機となるのかもしれない。
こだわり人物伝 2009年10-11月 (NHK知る楽/水)
- 作者: 角田 光代
- 出版社/メーカー: 日本放送出版協会
- 発売日: 2009/09
- メディア: ムック