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2:「本と読書」だけが与えることのできる力 [本・書評]

先回につづき、毎日新聞連載のコラム『引用句辞典(不朽版):鹿島茂』からの引用。

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《ひとりの作家がしばらくの間われわれの心をまったく独占し、ついで他の作家が占領し、そうしてしまいにはわれわれの心のなかで作家たちがたがいに影響し始める。あの作家とこの作家とを比較計量して見て、それぞれが他に欠けているよい性質、しかもほかのとは調和しないちがった性質を持っていることがわかる、とこの時じっさい批評的になりはじめたのだ。こうして批判力が成長するにつれて、ひとりの文学者の個性によって心を占有されることがなくなってゆく。(T・S・エリオット「宗教と文学」=『文芸批評論』所収、矢本貞幹訳 岩波文庫)》


読書週間も終わり、東京の神田神保町も落ち着きを取り戻しているが、どうも書籍業界はここのところ元気がない。

インターネットや他のメディアの普及により、読書人口が減っているからだと言われるが、しかし、この議論は的を外しているように思える。なぜなら、本というものには、ネットやヴィジュアル・メディアがどう逆立ちしても与えられない重要な力があるのに、業界の人間は、それに気づいていないからだ。

では、本と読書だけが与えることのできる力とはなんなのか?

それを述べたのが、上のエリオットの言葉である。

要点は、思うに二つある。

第一の要点。すべての本は、潜在的に、ひとりの人間を全人格的に占領する可能性を秘めているということ。つまり、人は、ときとして一冊の本を読んだだけで、天と地がひっくりかえるほどの衝撃を受け、それによって世界観もなにも一変してしまうことがあるが、革命にも等しいそうした「回心」的パワーをもつのは唯一、本だけであり、他のメディアはそれがどんなに強力なものでも、そこまでの力はない。

ネットで情報をかき集めることはできるが、全人格的な変容を強いるほど強力な磁場をもつブログに遭遇するということは(いまのところ)ありえない。

第二の要点。すべての本は、右のような全人格的な占領の潜在可能性を有するが、しかし、そうしたパワーを持っている本は、幸いなことに、一冊だけとは限らず、かならず「複数」存在しているということ。エリオットが指摘しているように、ある時は、ひとりの作家や思想家や詩人に心を完全に占領され、その作家の語ることがなにからなにまで信じられるように思えても、次の日には、また別の作家、別の思想家、別の詩人に心を奪われ、全人格的に占領されてしまうこともありうるのだ。この全人格的占領の「複数性」こそが、読書という体験のもう一つの勘所なのである。

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「ところで、」と、以下つづくのだが、以下はつづき。


文芸批評論 (岩波文庫)

文芸批評論 (岩波文庫)

  • 作者: T.S. エリオット
  • 出版社/メーカー: 岩波書店
  • 発売日: 1962/01
  • メディア: 文庫



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