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共存と融和を願って:『写真記録ベトナム戦争』解説6 [写真記録ベトナム戦争]

石川文洋氏の『写真記録 ベトナム戦争』中の、
丸山静雄氏による解説を先回にひきつづき引用する。

標題は《6.ラオスとカンボジア:共存と融和を願って》

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ベトナムもカンボジアも、ラオスも、かつては平和で、のどかに、目を見はるほどに美しい国々だった。村にも町にも微笑みをたたえた人々が群れ、原色の花と緑の木々が山野をいろどり、その間に数々の貴重な文化的遺跡があった。しかし長い戦火の間に荒廃し、部分的には往時の面影をとどめながらも、全体としては見るかげもなくなったところが少なくない。都市部から農村部に目を移すと、戦禍はさらにいたましく、強烈な枯葉剤のため傷跡は容易に消えそうにもない。

戦争は、もう一つ、心の傷を深く刻んだ。人々の心を引き裂いてしまったのである。ベトナム南部では解放勢力と旧サイゴン政府軍、中部高原民族(少数民族)と平地民族(多数民族=ベトナム人)との間に、カンボジアでは解放勢力とシアヌーク派(王室派)、土着グループとカンボジア・クロム(コーチシナに定着していたカンボジア系種族。ロン・ノル将軍派を助けるためにカンボジア内に空輸され、カンボジア解放勢力と戦った)との間に、そしてカンボジアとベトナム、カンボジアとタイ、タイとラオス、タイとベトナムとの間に、それぞれ程度の違いこそあれ、ある種の違和感と対立の感情がつくり出されている。

これは戦争の副産物であり、アメリカの戦争政策によるところが大きかった。なぜならばアメリカはベトナム、カンボジア、ラオスのいずれでも少数種族を助け、訓練し、武装して多数種族と戦わせてきたからである。たとえばベトナムでは中部高原地帯の各種高原種族を、カンボジアではカンボジア・クロムを、ラオスではメオ族をそれぞれ支援し、ベトナム、カンボジア、ラオスの各解放勢力に対抗させてきたのである。

もともと山地民族(少数民族)と平地民族(多数民族)との間には伝統的な対立関係があった。少数民族は土地と職を奪われ、高地に追いやられ、蔑視、迫害されてきたという記憶が生ま生ましく残っていたからであろう。またカンボジア人とタイ人はインドシナの中原で覇を争い、ベトナム人とタイ人はメコン流域の肥沃な土地をめぐって古くから競いあってきた。百年に近いフランスのインドシナにおける植民地支配は、西欧の植民地支配のパターンを反映し、ベトナムとベトナム人を中心に、次いでカンボジア、最後部にラオスをおくという優先順位でおこなわれ、また一地域内でも多数民族を中心に考え、少数民族はほとんど無視して顧みなかった。そうした古い歴史にアメリカの民族分断の政策が新たに加えられたため、国の中で、あるいは国と国との間に冷たい緊張関係が存在するようになったのであろう。

カンボジアの東部地域でおきた虐殺事件は、そうした古く、そして新しい対立関係の爆発したものであろう。目をそむけたくなるような凄惨な民族の殺しあいー

しかし、戦争下にもビエンチャンではパテト・ラオの代表部が開設されていたし、パテト・ラオの兵士は政府軍兵士にまじって市場で買い物をしていた。政府軍の軍事顧問として残っていたフランス人将校の姿も見られた。ラオスとタイの間にはメコンの流れがあったが、両国の民衆はメコンを渡って自由に往来していた。ビエンチャンの台所を賄っていたのは、当時、朝早くメコンを渡って運んでくるタイ商人の穀物、肉、野菜であった。カンボジアとタイとの間も同じで、夕方になると、タイの主婦たちが籠をさげてカンボジア領内に買い物にきていた。

フランスがつくった国境線を越えて人々は混淆と共存の社会を見事に形つくっていた。戦火がおさまり、戦後の復興が進むとともに心の傷がいやされ、メコンの流れを中心に、この地域の人々が平和と友好の関係を一日も早く取りもどすことを願わずにはいられない。

写真記録ベトナム戦争

写真記録ベトナム戦争

  • 作者: 石川 文洋
  • 出版社/メーカー: 金曜日
  • 発売日: 2000
  • メディア: -



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