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三つの顔:『写真記録ベトナム戦争』解説4 [写真記録ベトナム戦争]

石川文洋氏の『写真記録 ベトナム戦争』中の、
丸山静雄氏による解説を先回にひきつづき引用する。

《4.戦火の中の民衆:三つの顔》という標題がついている。

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ベトナムの人たちは10年、20年、30年の長きにわたって戦争の中を生きていた。10年とはアメリカの正規軍が直接、本格的に戦争に参加してからの歳月をいい、20年とはアメリカがドルとCIA(アメリカの中央情報局)を使い、フランスに代わってベトナムに介入してからの歳月をいい、30年とは8月革命(1945年8月)が起き、対仏戦争(1946年ー1954年)が勃発するあたりから以降の歳月をいう。

あるいは労働党が結成されてからベトナムの真の民族解放、社会主義革命の戦いが始まったという意味では40年余りがそのまま戦いの年月であったということもできるだろう。ベトナムの指導者たちはベトナム民族は4000年の歴史のうち2000年を戦ってきたという。ベトナムという国も民族も、そして、その一人一人が戦いの中に生まれ、戦いの中に生活し、戦いの中にその生涯の幕を閉じていたのである。

民衆の姿は昔も今も、そして東でも西でもほとんど変わらない。心は温かく、素直で、善意に満ち、家族とともに平和に、清く、心豊かに生活することをひたすらに願う。自然を恐れ、災害に泣き、不幸を悲しむ。おおむね権力者、支配者には従順で、争いをきらい、心から平穏無事を祈るーそれが民衆だったと思う。

ただし、これは一つの顔で、民衆は、もう一つの顔を持っていた。意外にしぶとく、逆境にも耐え忍んで、屈しない顔である。そうしなければ生きてゆけないからであるが、平和とおだやかさに徹したことが、そのようなたくましさ、ふてぶてしさを持たせていたのであろう。弱さに徹しての強さーそれが民衆の持つ強さのようであった。

解放勢力側に水と食糧と情報を提供していた農民がサイゴン政府軍の姿を見ると、急いでサイゴン政府の旗を出し、政府軍が去ると、サッと旗をおろす。壁に「米帝打倒」と書き、サイゴン政府軍の姿が近づくと、大急ぎで消し、去ると、同じ落書を再び壁に書きつける。アメリカ軍の爆撃で殺されたブタ、ニワトリを高い値段でサイゴン政府軍に売りつける。あの激しい戦闘の間にも民衆はアメリカ軍基地に出入りして結構、手びろく商売をおこなっていた。

ところが民衆は、もう一つの顔を持っていた。第三の顔である。静かな水の流れが一転して激流、洪水となって荒れ狂う姿である。そうなると、何ものも抑えることができなくなる。洪水は、あらゆるものを包みこみ、破壊し、おし流してしまう。民衆も同じだった。わたしは、それを8月革命の中に見た。民族が蓄えてきたエネルギーの爆発である。

何が、おだやかな川を奔流に変え、平和な民衆を総蜂起させたのか。決起しなければ民族が滅びるという絶対絶命の状況があったからであろう。いいかえれば帝国主義、植民地主義によって民族の生存が脅かされていたということだと思う。

脅威を与える最大の力はアメリカだった。ベトナム民族が、この30年戦った真の相手はアメリカだった。最初の敵はフランスだったが、そのフランスはアメリカの提供する飛行機とドルの援助に支えられて辛うじて戦いを続ける有様だった。ベトナム戦争になると、そのアメリカが正面の敵として登場した。長い独立闘争のあと、ベトナム民族は最後に、最大の敵と対決した。しかしベトナム民族はものの見事にアメリカに打ち勝った。勝利は民族の総蜂起によってもたらされたが、問題は何が総蜂起を可能としたかである。

わたしは第一に労働党の正しい指導をあげたい。アメリカとの戦いを民族解放、社会主義革命の一過程として戦い、人民戦争として戦った路線の正しさである。第二は民族が自然の災害と、度かさなる外国侵略によって鍛錬され、たくましく育っていることである。第三は第一と第二の条件が見事に一体化したことであろう。

写真記録ベトナム戦争

写真記録ベトナム戦争

  • 作者: 石川 文洋
  • 出版社/メーカー: 金曜日
  • 発売日: 2000
  • メディア: -



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